思春期ほど、面倒くさくていじらしいものはない。小学生の頃は当たり前のようにできていたことが、中学にあがった途端突然できなくなる。たとえば、女子と話すこと、とか。 日が過ぎゆくにしたがって明らかになっていく男女の差。細くて柔らかくて馥郁とした彼女たちが、自分とはまるで違う生き物みたいな、とにかく口をきくのもおこがましいような気になってしまって、現在高校生となった今では女の子と会話をすることさえままならない。……いや、ほんとそれだけだから。どっかのバカ長男と違って僕はエロいことばっか考えたりしないし、誰彼構わずそんな目で見たりしないから。ほんとだって。 まあ、ここまで童貞を拗らせてしまえば学校生活に支障が出るのは想像できるだろうけれど。クラスの委員長の子に事務的な話を振られたり、名字ぐらいしか知らない子に日直の日誌を渡されたり、違うクラスの子にすれ違いざまに落とし物を拾われたり。そういうときは決まって毎回あ、とかええと、とか意味を成さない母音しか出てこないし、兄弟がその場にいたなんて日は帰ってる途中に指さされて話のネタにされるし……あぁ、思い出したら腹立ってきた。帰ったらおそ松のカップラーメン食べてやろ。
「チョロ松くん?」 「ひゃいっ!?」
なんて言ってる場合じゃない。僕は今、とてつもなくヤバい状況下にある。
「なんかボーっとしてたみたいだけど、大丈夫?体調悪い?」 「え、や、ぜ、ぜんぜん大丈夫!ほんとき、気にしないで」 「そっか。じゃあ早くこの作業終わらせて、早く帰らなきゃね」
正面から向かい合っている机。その上に広げられたクラスメイトの名簿表と、もとは学校便りだった裏紙。 そして目の前には、僕の好きな女の子。 僕とみょうじさんは文化祭実行委員で、数週間後に待ち受けている文化祭でのクラスの出し物を決める役割だった。クラス全員が自由表記の投票で挙げた提案をまとめ、いちばん票数の多かったものを書いて担任に提出しなければならないのだ。 いや、なんかもうそんなのどうでもいい。僕がどれだけ奥手で童貞拗らせてるかはさっき言ったとおりだけど、こんな、好きな子と放課後の教室でふたりきりで仕事とか、どこの少女漫画だよ!健全な男子高校生には毒すぎるわ!別に神様とか信じちゃいないけど、どう考えても神様が毎晩寝る前に布団の中で巡らせている僕の妄想を、気まぐれで実現させたとしか思えない。なんだこれ。なんだこれ。さっきから持っているペンが震えて全然字うまく書けないんだよ。っていうか、さっきみょうじさんが「早く帰らなきゃね」って言ってたけど、それってもう早く帰りたいってこと?「キョドってないで早くさっさと集計しろやケツ毛燃やしてやろうかこのクソ童貞が!!」ってこと?いやみょうじさんそんなこと言わないから!なんかダメだな……最近学校で一松とばっか話してるから思考がどんどんアイツみたいに、
「チョロ松くん!」 「ひゃいっ!?」 「まーたボーっとしてる!ペン止まってるよ!」 「あ、ご、ごごごめん!つい……」 「……ほんとに大丈夫?なんか顔赤いし、熱あるのかも」 「っえ!?」
みょうじさんはそう言って机に身を乗り出すと手を伸ばした。ひたり。額に少し体温の低い手が触れた。 ……え、あれ。僕、今なにしてもらっちゃってる?
「んーちょっと熱いかなあ」 「な、ななななぬぁ、ちょ、みょうじさん!?」 「でも手だとちょい分かりにくいなー」
みょうじさんが、なまえちゃん、が。ぼ、僕の、僕のおでこ触って、ね、熱測って。自分の額にも手を当てているなまえちゃんの、普段前髪で隠れて見えないおでこがちらりと覗く。うあ。や、ヤバい、これは……と脳の処理が限界に達しそうだった、その時。 僕は、人生でこれほど生きててよかったと思うことはないと思った。
「う……っ!!あが、うっ、あああの、みょうじさん」 「うん?どした?やっぱり熱ある?」 「あ、や、ちが……ちがくて、その」
む、胸、見えてる。 言えるわけない!!言えるわけなくない!?この状況で女子と話すことすらままならない童貞の僕にどうしろっていうの!?神様さあここまでやれなんて言ってないよね?僕は人間であり多感な男子高校生なんだよ!ぜんっぜん話したことない好きな女の子に「服の襟からブラジャーと谷間見えてるよ」とか言えるわけねーから!!バカじゃねーの!? 違う、ちがう。落ち着けチョロ松。いや落ち着けるわけねーけど。このままなまえちゃんの胸元を凝視していたらヤバい。なにがヤバいかって、僕の社会的立場と、僕のチョロ松がヤバい。前者はまだ気づかれてないからいいとして後者はもう限界だ。女の子とのアレソレなんて、トト子ちゃんと手を繋ぐ妄想程度で満足する僕には刺激が強すぎる。ダメだ。これは毒だ。見るな、目を逸らすんだチョロ松。目を逸らせ、目を、逸ら……。 無理!!めっちゃ見たい!!好きな女の子の胸をチラ見できるこの状況で目逸らせる男子高校生なんていねーよ!いるとしたらそいつインポかホモだよ!ああ、頭のキャパのメーターが振り切ってオーバーヒートしてる。ほんとにボーっとしてきたし、なんかどんどんなまえちゃんの顔が近づいてる、気がする、し。 と思った瞬間、ちゅ、と唇に柔らかいものが触れた。
「…………」 「…………」 「……へ?」
は?今、なにが起こった?さっきまで呑気に熱の心配なんかしていたなまえちゃんは、なんでかわからないけど、きっと僕と同じくらい顔を真っ赤にして、口元に指をあてている。 ……え。僕、キス、キスされ、た?なまえちゃんに?は?
「……ち、チョロ松くん、さ」 「え、あ、うん」 「胸、見すぎ。すごいわかりやすい」 「えぇ!?ちょ、ちが、それは」 「わかってる。……と……てた、し」 「へ?」
「……わざと、見せてた……し」
これも神様からの試練に入るんだとしたら、とんだ悪党としか思えない。 今ので我慢できる男なんて、この世にいるのか?少なくとも僕は無理だ。無理。無理、むり、ああ。頭が、ボーっとする。僕の中でプツン、と何かが切れた音がしたけれど、それが目の前のなまえちゃんをきっと傷つけてしまうこともわかっていたけれど、もう、なにもかもが無理だった。 |