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それは、木々の葉が生命力溢れる鮮やかな色彩を見せはじめた季節。

新緑の候の出来事。




(原田さん、遅いな…)


これで何度目か…、包丁を握る手を止め、ふと厨の入り口へ目を向けるが、彼が姿を現しそうな気配は一向にない。


さて、どうしたものか…


今朝は原田さんと食事当番の筈だったのだが、その内来るだろうと先に支度を始めたものの、それも粗方終わってしまった。


(あとは、香の物を刻んで、お味噌汁を作るだけ…)



昨日は遅くまで永倉さんや平助くんと島原で呑んでいたみたいだし、恐らくただの寝坊だと思うけれど…

起こしに行った方がいいだろうか?


全て1人で準備してしまっても構わないのだが、土方さんにバレた時のことを考えると、それも少し躊躇われる。


(やっぱり、様子見て来た方がいいよね…?)


原田さんに雷が落ちる様を忍びなく思い、私は足音を立てぬよう静かに彼の部屋へと向かった。













「原田さーん…」


部屋の前へ辿り着いた私は、声を潜め、廊下から障子越しに何度か呼び掛けてみるものの、全く返答がない。


(うーん…)


そうなると、ここでまた選択を迫られる。

このまま引き返すか、障子を開けてみるか。


勝手に開けてしまうのは気が引けるけれど、もしかしたら、具合が悪くて倒れてる…なんてこともあるかもしれない。


(でも、やっぱり…)


人の部屋、それも男の人の部屋を勝手に覗くなんて…


悪事を働く訳でもないのに、何故だか妙な罪悪感に駆られ、思わず辺りを窺ってしまう。



(よし。もう一度呼んでみて、反応がなかったら、開けてみよう)


大して意味を持たないであろう明確な線引きで心を決めた私は、深呼吸をし、もう一度その名を呼ぼうと、口を開きかけるが…



「!!」


それより一足早く聴覚が捉えたのは、床板の軋む音だった。


(どうしよう。誰かこっちに来る)


当番でもないのに、こんなに朝早く起きて来る人は限られる。

そして、それは土方さんである可能性が高いと思われた。

こんな姿を見られてしまっては、完全に言い訳の仕様もない。


焦った私は、迷う暇もなく、原田さんの部屋へ飛び込んだ。




「……」


息を殺し、横目で廊下の気配をそっと窺う。


心臓の音は、飛び出しそうな程早鐘を鳴らし、気付かれてしまうのではないかと気が気でなかった。


けれど、次第に大きくなる足音は、立ち止まることなく部屋の前を通過し、過ぎ去って行く。


(はぁー…)

極度の緊張感から一気に解放された私は、力なくその場にへたり込んだ。



しかし、そんな脱力も束の間。


(あ。原田さん!)


直ぐ様、本来の目的を思い出し、見渡した室内から視界に飛び込んできたのは、あられもない寝姿をした彼だった。



「…っ!」


思わず悲鳴を上げてしまいそうな口元を手で押さえ、懸命に堪(こら)える。


(な、なっ…!)


酔ったせいなのか、単に寝相が悪いだけなのか…

大胆にもはだけた夜着は、既に役割を果たしておらず、辛うじて大事なところが隠れているような有り様。


晒された男性特有の骨張った線は艶かしいまでの色気を纏い、原田さんであればそれは殊更で…


(綺麗…)


目の遣り場に困る一方で、息を飲む程に惹き付けられてしまう。


(と、とにかく、今は早く起こさないと…)


私は湧き出る雑念を振り払い、何とか目の前の毒を隠そうと、顔を背けながら夜着の裾を懸命に引っ張り、同時に彼を起こそうと試みる。


「原田さん、起きて下さい!今日は食事当番の日ですよ」

「…んん」

「寝坊がばれたら、土方さんに怒られちゃいますから」

「…んー…」


辛うじて反応は示すものの、その瞼は重く、縫い付けられたまま。


「もぉ。原田さんってば」

「ん…」

「はーらーだーさーん」

「んんん…」


根気よく呼び続けること数回。
ようやく薄く開いた瞳がぼんやりと私を捉えたようだった。


「んー…ぁ、れ…千鶴?」

「はい。原田さん、起きて来ないので、心配し…て」

「千鶴…」

「って、え?あ、あれ?」


私はただ原田さんを起こしに来ただけのはず。
けれど、視界は反転し、次の瞬間には何故か組み敷かれていた。

そのまま首筋に熱い吐息が吹きかかり、その希求に背筋がぞくりと震える。


「あ、あのっ!は、原田さん!?」

(きっと、まだ寝惚けてるんだ)


ずしりとのし掛かる身体を懸命に押し返すがびくともしない。


そんな私はお構い無しに、頬に触れる手、熱を帯びた眼差し。

それらが余りにも優しくて、まるで恋仲のような錯覚さえ植え付けられてしまう。


(こんなの駄目だよぉ)


それなのに、声が出ない。
目を逸らせない。

襟元に掛けられた手を払う思考さえ奪われる。


「千鶴…」

「原田、さ…」

(私、このまま…)










けれど、そんな心配は取り越し苦労に終わった。



「…っ、痛ってぇー…」


すぐ目の前にある表情が大きく歪み、こめかみを押さえた原田さんが、忌々しげに体を起こす。


「あー…クソッ。ぜってぇ新八のせいだ…」


どうやら二日酔いらしい。

辛そうに呻く声を尻目に、生じた隙に原田さんから抜け出すと、私は大して乱れた訳でもない着物を無意識に正していた。


「だ、大丈夫ですか?原田さん」


平静を装い尋ねるが、動揺を隠し切れず、その声は上擦っている。


「ん?あぁ…って、あれ?…本物、か?」

「は、はい。原田さん、寝惚けてたみたいですよ?」

「あー…そうか、悪りぃ。夢だと思って、つい…な」

「……」


それは、何の気なしに発した一言。








(それって、どういう意味だろう…)





「で?今日の朝飯当番、もしかして俺だったのか?」

「は、はい…」

「そっか、悪かったな。でも、お陰で土方さんにどやされずに済みそうだ」

「い、いえ…」

「じゃぁ、着替えたらすぐ行くから、先に進めててくれるか?」

「は、はい…」



パタリと障子を閉めた後、廊下を小走りに渡る。


くらり、くらりと大きく揺れて。
耳が煩いのは、走っているせいじゃない。


(静まれ、心臓!)


記憶の片隅に、仄かに漂う彼の香りが鼻を掠めた。

















20120810
御題:誰そ彼



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