もう何度目なのかわからない寝返りを打ったちょうどそのとき、モーツァルトのレクイエム"ラクリモーサ"が鳴り響いた。跡部は頭をもたげて、サイドテーブルで細かに振動して耳障りな音を立てている携帯に手を伸ばす。着信音を個別設定してやろうと提案してやったときに、クラシックはこれしか知らないのだと申し訳なさそうにしていたのはもう随分前だったがどうしてか克明に記憶している。レクイエムの中でもその8小節はモーツァルト自身が作曲したことを知っているのかと意外に思ったからか、それとももっと有名な曲を言うだろうという予想が外れたからか。柄にもなく垂れ下がった眉が、嬉しかったからか。
『もしもーし』
深夜2時とは思えないほど朗らかな声音だった。悪戯をたくらむ子供のようでもあって、かすかな眠気すら霧散してしまい、うっすらと浮かんだ笑みを自覚して起こした半身をベッドヘッドに預ける。
「今何時だと思ってやがる」
『ん、ごめんごめん。起きてるとは思わなかったから』
「で、何の用だ」
明日から全国大会が始まるのだからさっさと眠ってしまわなくては、と頭の片隅で声が上がった。能天気なマネージャーの言うことなどに付き合ってやっている場合ではないのだとその声は跡部を糾弾する。しかし、どうしてかこの深夜の通話がまるで共犯者の密談に思えて、そうそう無下にはできなかった。
『ちょっと外見てみ』
押し殺しきれない笑いがにじんでいる。ルームシューズを履いて窓の方に歩み寄り、カーテンを開けてみる。いつものとおりの雄大な庭が眼下に広がっているだけだ。しかしそこにぽつりと、人影があった。噴水のへりに座って片手を耳のあたりにつけている。
『あ、いまカーテン開いたとこ?』
「お前、」
『しかしすげーな、ロミジュリごっこできるよ』
あわてて窓を開ける。東京の夜の、じっとりとする暑さが押し寄せる。よおジュリエット、なんてふざけるのんびりした声にいくらか落ち着きを取り戻して、ため息をついて窓を閉める。
『ときめいた?』
「……どうやって入った。セキュリティは万全のはずだ」
『がんばりました!』
そんな怪盗じみた人間にときめけという方が無理があるだろう。
『明日から全国だからちょっと激励してやろうと』
「いらねえよ、こんな時間に叩き起こされる方が迷惑だ」
『まあ嘘だし。顔見たくなっただけー。それじゃあ明日も早いし、おとなしく帰ります』
通話が切れてしまいそうになってようやく、跡部は外に出た。ナイトウェアのまま、長い庭園の小路を疾走する。ぷつっ、と小さく通信が絶えた音を聞いた、携帯をしまって立ち上がる人影の肩を捕まえる。振り返りざまの体をそのまま腕の中に閉じ込める。
「なに、パジャマのまんま来たの」
「お前が帰ろうとするからだろうが」
後頭部を胸に押しつけているから、顔までは見られてはいまい。到底見せられたものではない、髪もぐちゃぐちゃでこんなに緩んで赤い顔なんか。認めたくないが、認めざるを得ないようだった。それもわかっているのか、珍しいことにおとなしく抱きしめられてくれている。
「あーだめだ、いま顔真っ赤だわたし」
「なんでお前が」
「ジュリエットが心臓ばくばくいわせて走ってくるからだし」
「ハッ、ロミオもずいぶん脈が早いみたいだがな」
うるせー、と腹立ちまぎれに頭を擦り付けられて、内側と外側のくすぐったさに声を上げて笑ってしまう。しがみつくように腰に腕が巻き付いて、ふうと吐かれた息がまた胸をなでる。
「優勝しなかったらコートのど真ん中で毒飲んで死のうか」
「フン、いいぜ。絶対ありえねえからな」
「自信家」
呆れたようで嬉しそうに弾んだ声だ。つむじに鼻を押しつけて目を瞑ると、ようやく眠れそうな気がした。