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 増田と帰る道を、ただがむしゃらに走った。息が上がり、喉が痛くなる。こうしているあいだにも増田の身になにか起こっているかもしれない。そう思うと足を止めるのも惜しい。 犬を散歩させている人がぎょっとした顔で立ち止まったけれど、どうでもよかった。主婦の人たちに嫌な目で見られたけれど、気にならない。とにかく、増田のことで頭が一杯だった。

 頭が真っ白になるくらいに走っていた。 気づいたらここがどこだか解らなくなっていた。 いつのまにか道に迷ったらしい。 これじゃあ増田を見つけることなんでできない。

「はぁっ、迷った」

 家がたくさんあるけれど、人の気配はない。どの家も留守みたいだ。 細い道を歩いている人もいない。電柱にある住所を確認したら、一応住んでいる区だったが、場所は解らなかった。

(参ったな)

 よくよく考えれば、増田の行きそうな場所をおれは知らない。 道場にいるわけがないし。この時間、知り合いがたくさんいる商店街にいくはずもない。 倹約家な彼女は極力ゲーセンとかもいかないだろうし……どうしようか。

「おい見ろよ。俺らと同じサボりがいるぜ?」
「またあの中学の奴か」

 見れば、いかにも不良な二人組が、ニヤニヤしながら向かってきていた。 人間に絡まれるなんて、今日はついていないな。

「お、綺麗な顔してんな〜」
「目の保養じゃね?」

 頭を少し下げた後に、数歩後ろに下がる。 走って逃げようと思ったら、手首を掴まれた。

「ちょい待ち。中坊なのに学校サボっちゃだめでしょ〜。てことで、口止め料頂戴」
「おまえ、ほんとうに嫌な奴だなぁ」
「すみません。おれ、財布持っていないんです」
「あ〜?」

 面倒だなと思ってその人たちをしっかり見れば、恐ろしい光景があった。 二人組の背中から、黒い糸がたくさん出ていた。蜘蛛の糸の様だ。 その量は増田たちの比じゃない。禍々しい思いが伝わってくる。 空に向かっている糸を、ゆっくりと目で追う。 糸の束を巻き付けているのは、青白く、骨張った手。 くたびれた白い着物に、ガリガリの鎖骨。黒く、長い髪。

 ぞっとするような、笑顔。

『また会ったね』
「う、うわぁぁっ!!」

 人より少しだけ長い腕が、恐怖心をさらにかき立てる。 変な妖怪に襲われたことは何度もあるけれど、見ただけで「不味い」と思った妖怪は、そうはいない。

「ってぇな。なんだよこいつ、空に怯えてんの?」

 二人に妖怪は見えていない。その背中から伸びた糸にも。 後ろを向いた二人は、空を見た後に鼻で笑った。

「は? まさかそんな小芝居で俺たちから逃げようと思ったの?」
「うわー。マジかよ。ムカツクかも」

 手を動かしながら、妖怪は裂けている口を更に大きくして笑った。

『邪魔をするなら、痛いよ?』
「その人たちをどうするつもりだっ! 邪魔って、なんだよっ。おまえ、なにがしたいんだ!」
『見てればいいよ』

 急に腕を引っ張られて、姿勢を崩してしまう。 しまった。また人がいるまえで喋ってしまった。

「おいおい。コイツ一人でなに言っちゃてんの?」
「頭おかしい子か?」
「あー、そうかも」

 どうしようかと考えていたが、不良たちを見た途端に思考が鈍る。 その目は、嫌だ。 気味の悪いものを見るような、差別するようなその目は。

「キモッ」

 思い出してしまう。虐められたことを。距離を置こうとしてきた大人たちを。 気味悪がるクラスメイトたちを。おれを騙した妖怪たちを。孤独な日々を。 掴まれた腕を振り払おうとしても、無理だった。 面白がるような顔をした高校生は、おれの腕を引いた後に、突き放した。

「わっ」

 アスファルトに腰を打ち付け、息が詰まる。だが、手が離れた。逃げるなら今だ。 おれは身を起こして、必死に走った。 それでも、二人から逃げることはできなかった。息も絶え絶えで立ち止まったところは、運の悪いことに人通りのまったくない、小さな駐車場だった。

「お、もうお疲れですか」
「必死に逃げる奴を追いかけ回すのって、楽しいな」

 それほど息の上がっていない二人は、おれを突き飛ばす。 妖怪は、ニヤニヤしながらおれを見下ろしている。

「なんだよ。まだ小芝居する気か?」
「放してくれ」

 胸ぐらを掴まれ、身動きが取れない。この人たちは操られているわけじゃないのか? だったらなぜ、こんなに追ってくるのだろう。 考えても答えは分らない。もう一度突き飛ばされて、地面に膝を打った。

『どうしてやろうか。肝を喰ってしまおうか? 心を潰してしまおうか』

 数本の糸がおれに向かって伸びてくる。だが後30cmという所で、ボロっと消えてしまった。

『あぁ、嫌だ。触れない。私が、触れないなんて』
「おまえが、この人たちを操っているのか!?」
『誰も、操ってないさ。操ってない。私は、あの子が泣くのがみたいのさ』

 噛み合わない会話は、そこで中断された。 操っていないと言っているのに、手をたまに動かしている。 高校生たちは、おれの髪を掴んだ。

「やっぱコイツきもくね?」
「また一人で喋ってたよな」
「もしかして中二病?」
「うわぁ。痛い奴」
「友だちいないだろ〜な」
「可愛げもなさそうだしな」

 ぐさり、ぐさりと刺さる言葉に、耐えられない。 一歩後ろに下がれば、不良は一歩近づいてくる。 おれを気味悪がった大人たちは、おれがいないときに、こんな顔をしていたのだろうか。
 気遣う言葉一つなく、本心だけでおれのことを罵り合っていたのだろうか。 冷たいものが、頬を伝う。 これが、おれが知らない。みんなの本心の言葉、なのだろうか。

「うわ、コイツすごい汗」
「ビビってんだろ。泣きそうだし」
「泣いたら写メろうっと」

 背中に壁が当る。もう、逃げられなくなった。 距離が取れない。

「……もう、やめて下さい」
「あぁ? なんか言ったコイツ?」
「いや、聞こえない聞こえない」

 精一杯絞りだした声も、届かない。 もう声をだす勇気がない。息をするだけで精一杯だ。 妖怪は、ニヤニヤしながらおれを見ている。 誰か、助けて欲しい。 知らない人でいい。誰か声をかけてくれ。誰か。 怖くて、辛くて、おれにできることは、目を瞑ることだけだった。

「……夏目?」

 そのとき、声が聞こえた。

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