(クラウス×ミノリ)


一通りの牧場仕事を終えてのんびりと釣りをしていたら、ぴちぴちとした大きなイワナが一匹だけ釣れた正午時でした。お昼の時間を過ぎそうですが是非この美味しそうな魚をあの人に食べていただきたい、とのんびりと鍋で魚を煮込み、山を下りながら道すがらに野花を摘んだり蝶々を捕まえたりして町に向かうと、時計の短い針は三の数字を少し越えた辺りになりました。
町の東側に行く階段を降り、レンガ造りの一軒家の姿を天辺から足元まですっかり見た後に扉をそっと開けて、その人がいる事を確かめてから出来るだけ和やかな声で「こんにちは」と、言いました。

「ああ、ミノリか。どうしたんだ?」
「美味しそうな魚が釣れたので、クラウスさんに食べていただきたいと思って、来ました」

葦で編まれた籠の中のずっしりと重い鍋の中には、煮込みきったトマトスープのブイヤベースがたっぷりと入っています。リビングのソファーに座っていたクラウスさんはわたしから籠ごと鍋を受け取ると「ありがとう」と言って、テーブルの上に皿と鍋敷きをてきぱきと用意し始めました。咄嗟に配膳を手伝うわたしが、ふと食器が二人分あることに首を傾げます。

「昼食、食べてないだろう。ミノリ」
「どうして、おわかりになったのですか?」
「お腹が空いてるって顔、してるぞ」

そんなに物欲しそうでよだれを垂らしそうな顔でもしているのでしょうか。恥ずかしさにいっそ顔を隠してしまおうと両手で顔を覆うと、指の隙間からブイヤベースに感動するクラウスさんの嬉しそうな様子が見えるのでした。

「うん、美味いな。こう美味いと、毎日美味しそうな魚が釣れてほしいと願ってしまうよ」
「わたしもそう願っていますが、魚も気まぐれみたいです」
「はは、そう上手くはいかないか」

新天地での生活が始まって、ようやく馴染んできた頃には春から夏へと移り変わろうとしています。雑貨屋のオットマーさんに釣りを教えていただいてから、釣れた魚を鍋で煮込んだ簡単なブイヤベースを日々食べて滋養を録摂っているという話をしました。そしたらかの調香師クラウスさんが、自分はブイヤベースが大好きだと教えてくれたのでした。それから美味しそうな魚が釣れるたび、手間暇をかけたブイヤベースを食べていただいています。栄養があって好きな食べ物を一緒に食べれば、更に料理は美味しくなりますね。幾度か差し入れをした経験はあっても初めて一緒に食べる機会が出来て、わたしはしみじみそう思いました。

「お仕事中ではなくて、良かったです」
「そうだな、今は構想を考えていてな……一旦悩みだすと、中々進まなくて困るよ」

香りの、構想。思わず胸いっぱいに空気を吸いこむと、ブイヤベースに使用したミントの軽やかな香りが広がりました。ただ、それだけが。

「そういえば、クラウスさんの部屋は香りがしませんね。ジョルジュさんの部屋はバラの香りが、それも様々な種類の……」
「よくわかるな、正解だ。ジョルジュの部屋の香りはオレが作っているが、赤と白と青と桃色のバラを調合している。あと、オレの部屋にもしそういった香りがあると、調香の時に混じってしまうからな。調合中の香りが紛れることはあっても、そのまま使ったりはしない」

調香台に並ぶ数多くの調香瓶に入っている符号を絶妙に組み合わせて、香りは作り出されるそうです。でも調香師自身はその香りを纏うことが無いなんて、どんな皮肉でしょうか。そして、彼自身は一体どんな香りがするのでしょうか。それを、彼は知っているのでしょうか。

「何だか、淋しいですね」

自分が作った香りを自分が纏えないことが、とても淋しいことに思えました。ブイヤベースのスープの、本当に、本当に仄かで軽やかなミントの香りばかりが広がって、部屋を、胸を満たしていきます。今、このブイヤベースのスープも香水と呼べるならば、魚はどんな気持ちで泳いでいるのでしょう。ミントの香りを纏って、幸せでしょうか。それはそれで、何だか淋しい感じがします。その香りの中にいる時は、自分がミントの香りに包まれていることも忘れてしまうでしょうから。
銀のスプーンを持ったクラウスさんは、ゆっくりと視線を空中に巡らせました。わたしの顔を、髪を、周りの空間を見ては何かを掴むように、吐息にさえも注意して空気を感じているようです。精悍な顔つきがふっと緩むと、目を細めて春風のように穏やかに語りかけてくれました。

「淋しい、か。あんまり考えたことが無かったな。中々、興味深い」
「そう、ですよね。わたしも自分で言っておいて、意味がわかりません」
「そうか。また顔が赤いぞ、ミノリ」
「は、恥ずかしくて」

落ち着いていて大人のクラウスさんだからこんなに優しくしていただいているのであって、普通誰かに淋しいですねと言ってしまうことは時と場合と状況を考えても考えなくても無礼で恥ずかしいことだと思うので、先ほどまでの思案はどこへやらといった具合にほてる頬を手で冷やそうとするも、温い手では到底叶えられないことでした。食べ終わったクラウスさんがその手をわたしに一瞬伸ばそうとして、やはり引っこめる幻まで見えてしまいまして、わたしの頭はごちゃごちゃです。

「あー……ミノリさえ構わなければ、オレの作った香りを付けてくれたら、オレはそれで満たされるかもしれない、けどな……」
「ど、どういう意味でございますか?」
「オレ自身は作った香りを付けられなくても、オレの作った香りのするミノリのことを……」

何か言いかけてからクラウスさんは酷く慌てて「ごちそうさま!」と食器の片づけを始めます。お皿の中には、白くてしなやかな魚の骨がたくさん散らばっていたのでした。


香らない人
(名前の無い香りは、無いのと同じに思えました) 




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