(イブキ×イリス)


手慣れた筆記体で解き放たれていく物語が、羽根ペンで紙面に書かれた流麗な文字だと僕は瞬時気づかないでいた。午後の少し気怠げな時間の中、彼女は壁際の机に座ったきり此方をちらりとも見ない。僕はといえば、ウェッジウッドの上品なカップに注いだキーマンを飲みながら、冷めたマドレーヌを少々いただいている。勿体無いことに僕の不得手によって渋くなりすぎてしまったキーマンは、それでも仄かに甘い香りを漂わせようとする。こんな出来損ないの紅茶を、彼女に飲ませるわけにはいかない。お客様用にしては奮発し過ぎにも感じるその紅茶を、僕は一人で独占した。
僕の目は彼女の背中だけを捉えようとして、ただ味気ない絵画を見ているだけのようになってしまう。ふと年季の入った蓄音機から懐かしい音楽が聞こえてきて、クラシックアレンジの黒い瞳だとわかると、一旦褪せた視界が飲み干した紅茶の分だけ薔薇色になる。嘘だ。色褪せたことが美しいとされるこのアンティークショップでは、彩度が落ちた過去の遺物のみが存在を許される。それは、彼女のはだけた胸で鈍く光る銀の南京錠も同じこと。

「ごめんなさいね、イブキさん。小説の締め切りが近いから、今はどうしてもお相手できないの」

耳元で揺れる鍵のイヤリングの残影が、彼女の表情に重なる。

「いえ、いいんですよ。僕が勝手にお邪魔しているだけですから。ここでお茶を飲んでいると、時間を過去に置いてきたように感じますし」
「あら、そのお時間、とても勿体無いわ」
「そんなことありません、心置きなく時間を使える余裕が生まれるのですから」

懐中時計を取り出してその時間を確認すると、アフタヌーン・ティーを切り上げるにふさわしい時間になっていた。いつも階下にいる店の幼き店主は、現在外出中だ。だがそろそろ帰ってきて夕食の準備に取りかかるだろう。台所から香るスパイスの香りが、昨日はシルクロードの国の料理を作ったことを伺わせる。今日は何だろう、シチューだろうか。先ほど僕が彼女に手渡した牛乳をふんだんに使用して。

「そろそろお暇しましょう」
「わかったわ。今日はあまりお話できなかったけれど、是非今度は面白い話を聞かせてちょうだいね」
「勿論です。卵の中から鶏が出てくるような話を持ってきますよ」
「フフッ、時間に関する話なのかしら」
「そうです。今日僕が体感した時間の流れから見出した、話を」

褪せた太陽にも似た流れる金髪をそっと目に留めて、ともすれば目線が同じ高さになりそうな互いの身長に歯噛みをして、自分の着古した服に自嘲にも思える意識を集中させる。さよなら、イリスさん。呟いた言葉はレコードの音楽に呆気なくかき消され、既に階上の机で物語を紡ぐことに忙しい彼女には届かないだろう。夏が近くなって少し生温い空気を味わいながら、遠くの石畳からやってくる幼き店主に手を振って早々に立ち去ると、面影ばかりが影法師よりもしつこく僕の背中についてくる。


Throb of the past
(過去はこんなにも色褪せて、鼓動している!) 




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