(ギル×アカリ/やすらぎの樹)


扉を開けて外に出ると、頭上に昇った太陽が僕の髪をじりじりと焼いた。老朽化しているとはいえ中々に趣のある木造建築の役場の中を照らす、並んだ窓から差し込むやわらかな光とは全く違うもののようだ。人々の歩みによってすり減った石畳の広場は閑散としていて、今は揺らぐこともない眺望が街の彼方の水平線をくっきりと映し出している。
まだ夏の始まりではなく、春の終わりであるのにな。事務処理の仕事中につい何度も壁にかかるカレンダーを見ていたせいで、サクラが描かれ春の月と銘打たれたあの紙面が記憶に焼きついている。春祭りもとっくに終わり、いきいきと緑に勢いづく木立を見上げていると、改めて夏がすぐそこにやってきていることを思い知らされた。
そもそもどうして僕は何度もカレンダーを気にしていたのかと考えると、様々な思いが浮かんでしまって無性に焦ってしまう。思慮深くいることは大切なことだが、余計なことを考えて狼狽するぐらいなら無心でいるべきだ。そう思い直して高台にある広場から町へと下る階段に差しかかると、階段の一番下にいる人物と目が合った。着慣れた若葉色のチュニックを着て、両手には少し大きめな軍手をはめている。僕がその人物を認識してあっと声を漏らす間もなくでこぼこな石造りの階段を登ってきて、牧場主のアカリは僕の正面から僕の顔をじいっと見つめてきた。
「ギル、こんにちは!」日に焼けた額の上の短い前髪が風に揺れ、白い歯を覗かせてはきはきと挨拶された。
僕はきっと、すっかり動揺してしまったのだと思う。人として当たり前であるはずの挨拶が中々出来ず、詰まる胸を軽く叩いて気恥ずかしさに咳ばらいをした。

「お前は、誰にでもこんな風に挨拶をしているのか?」
「え? こんな風って、どんな風?」
「人の顔を正面から凝視して、息もつかせぬような至近距離で喋る風に、だ」

やっと彼女は己の行動に気づいたらしく、ごめんごめんと平謝りしながら慌てて僕との間に距離を取る。赤くなって動揺するアカリの姿を見て、やっと僕も冷静を取り戻せただろうと思いたいが、残念ながら先ほどよりも浮き足立って仕方ない気分だった。

「僕に会いに……いや、何か役場に用があって来たのか?」
「うん。ギルに会いに来たんだよ」

一度僕が言い直した言葉を引き戻すようにアカリが言うのがどこか悪戯めいて見えて、怒りにも似た感情の高ぶりを感じつつワッフルタウンを見下ろして自分を誤魔化す。

「そうか。今、キルシュ亭に昼食を食べに行こうかと思っていたところだ。アカリも一緒にどうだ?」
「行く行く! 今日はお昼ご飯作らなかったら、お腹ぺこぺこなんだ」

並んで階段を降りていくと、ふと歩く足がアカリと揃っていることに気がつく。気候が暑くもないのに顔に汗が流れ、風邪でもひいたのだと思いこみたかった。

「どうしたの、ギル。さっきから視線をキョロキョロさせて眉をひそめて固く腕組みしちゃって」
「いや、その、なんでもないぞ」
「あ! もしかして……」

僕は、ごくりと唾を飲んだ。

「お腹が痛いとか?」
「違う」
「春が終わっちゃうのがさみしいとか?」
「……それはそうだが、違う」
「夏が来て新鮮なトマトが食べられるのが嬉しくて?」
「それもそうだが、違う!」
「うーん、えーっと、あっもしかして……夏に決まった結婚式のこと、気にしてるの?」

紆余曲折を経てのまさかのご名答に言葉が詰まる僕をまじまじと見て、アカリの顔がふにゃふにゃとほどけるように笑い出しそうになっているものだから、あっけなく僕の冷静さは何処かへと行ってしまう。

「ち、ち、違う!決してその、結婚が嫌だとかそういうわけではなくてな、式の準備や結婚後のお互いの仕事などの打ち合わせをなるべく上手くいくようにしようと心配りをしているだけで……ま、間違っても僕がお前との結婚が嫌なわけじゃないぞ!」
「じゃあ嬉しいってことだよね、私との結婚! ギルがそんなに気にしてるなんて、私まで恥ずかしくなっちゃうよ」

何か言い返すのも言いがかりになってしまいそうだし、穏やかに心の内を素直に表現できるほど冷静ではない。けれど、この想いはしっかりとアカリに届いているようなので、僕は幾分か安心して口を閉じる。

これから夫婦になるのだからいつまでもヤキモチしていては身が持たないだろうと思う一方、僕のこの性根は一生治らないもののようにも思える。毎回勝手に疲れてしまうが、嫌な疲れではない。アカリが僕なりの愛情を受け取ってくれるから、アカリが僕を愛してくれるから、僕たちはずっとこのまま、お互いを伴侶として生きていこうと誓った。


春の月のカレンダー
(夏になったら、美味しいトマトを一緒に食べよう)



『PUNK OPERA』の七重さんに、相互リンク御礼で捧げさせていただきます!





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