(チハヤ×ヒカリ/わくわくアニマルマーチ)


玲瓏たる音を響かせて、大地に鐘の音が響いた。懐かしさを含んだ音階は記憶の琴線を細かに爪弾き、流れるように溶けていく。自然そのものが浄化された、いや、本来の姿を取り戻しつつあるのだろう。本来の姿に完璧に戻るかといえば、積み重ねた時の流れと空間に刻んだ記憶の残影がある限り、戻ることはあり得ない。戻ることは進化ではなく退化であるというのは言い過ぎで、進化が必ずしも栄華と安寧を約束するわけではない。進化も退化も、表裏一体。まな板を洗いながら柄にもなく屁理屈を作り出してしまうが、僕の脳の検問はある点において実に優秀だ。素直さを犠牲に、あらゆる詭弁を臆面も無く皮肉として使える。それは最終手段で、馬鹿馬鹿しいから発言する体力を無駄にしたくないけど。

酒場の席で、彼女が一人でお酒を飲んでいる。カウンターから離れた壁際の席で、厨房からは背中しか見ることが出来ない。今夜は彼女以外に客が一人もいない。経営者達は半分店じまいにかかりながら、世間話を交わしている。

一人。これ見よがしに誰かと、例えば親しげな男と一緒に夜中に飲んでいるのならば、僕は思う存分彼女を軽蔑する理由を持つことができるのに。尻軽女、思慮の浅い単細胞、不摂生でやる気の無い牧場主、とでも何とでも。もしも大口を開けて笑っているのなら、ガサツでうるさい馬鹿。もしも口を閉じてうつむいているのなら、空気の読めない自分勝手な根暗。人なんて、悪い場所の方が多いにきまってる。例え上品なポーズで座っていたとしても、媚び諂った気持ち悪い奴を多く見てきたんだ。僕の態度が気に入らないと、怒られることも蔑まれたことも、残念ながら日常茶飯事。そのまま僕の視界から早々に消えてくれれば、それが何よりのプレゼントだ。

彼女が、カクテルを飲み終えた。自らの手で軽く髪をくしゃくしゃにして、給仕のキャシーにもう一杯注文する。瞬時ちらついた表情は、あまりにも普通すぎて。不自然さが自然になってしまうと、どれが真実だかわからなくなる。

本当は自答なんてしなくても、文句は充分すぎる程有り余っていた。真っ直ぐなエゴに基づいたお節介、自分ですら博愛を疑っている偽善者、責任を放棄する放浪者。どれも僕から見たら真実だ。僕と親しくなろうと言って自ら身をひく、嘘つき。

閉店時間ギリギリに、彼女は手際良くテーブルを片付けて出ていこうとする。

「そうやって、逃げるんだ?」

丸い後ろ髪を、思いっきり引っ張る勢いで。

「逃げるんだ。僕があんまりにもどうしようもないから、逃げるんだね。じゃあ、もうここにも来ないでくれる? 引き止めてくれっていう当て付けみたいで、気分悪いからさ」

仕方なく引き止めてあげて、自尊心をズタボロにするのだって余力がいる。もう、何も力を使いたくない。言葉も、命でさえも。

「うん、確かに、今ちょっと逃げてるかも」

苦笑いで誤魔化すように、何かを考えこもうとして、止めて、急いで彼女は告げる。

「繊細で素直なチハヤくんのことをね、大好きになっちゃったんだ。きっとチハヤくんは、意地悪で嘘つきって思ってるだろうっていいそうだけどね。どっちでもいいよ、言葉はどれでもいいよ。意地悪で嘘つきで繊細で素直なチハヤくんを好きになってしまいました。だから、正直に言うと、今チハヤくんの顔は、逃げ出したいほど恐ろしく素敵に見えるんだ。怖いよね、これが恋なんだね。多分」

ああ、確かに彼女は目を合わせてくれない。胡桃色の髪を揺らして、夜の闇に逃げていく。

我らが町の役場にある、時計塔の鐘は鳴らない。自然が回復し生命の喜びに満ち溢れても、この町は変わらない。変わるのは、人々の在り方だけ。
優しい大人の君は、臆病な僕が追いかけることすら許してくれない。
(なら、追いかけないよ。僕は)
僕らしく、狭い暗い家の中で両手を広げて待ち伏せようじゃないか。兎が一羽飛び込んでくる時まで、さ。


音速で逃げるラビット
(うさぎさん、取って食いはしないから、こっちにおいで)




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