(カミル←サト←ミハイル)


頭上に流れ落ちるかのように凄まじい雨の音で、オレは目が覚めた。ぼんやりと窓を見ると、遠くの山々が雨によって屈折して目に映る。ガラスをそっと触り、外の冷たい空気を感じる。時間はまだ早朝で、オレは寝直そうとベッドにもぐったが、雨の音は相変わらず耳を急流の川のごとく流れていく。諦めて起床し服を着替えて、ヴァイオリンの手入れをすることにした。

弦をびんと弾くと、胡乱な腑抜けた音が響く。ペグを慎重に回しながら、音のはっきりした部分を探っていく。自然の音は素晴らしいものだと尊敬しているが、滝のような雨の轟音の中で調音することは、少し難しい。しかし、オレにとっては、正しい音を導き出すことはとても容易い。問題は、この正しい音でどんなメロディを奏でるか、中々閃かないことだ。

研ぎ澄まされた耳に、かすかな声が聴こえる。雨に掻き消されてはいるが、荒々しく、断続的な罵声。

「カミルのバカ!」
「カミルなんて、花と一緒に枯れてしまえばいいんだ!」

その声は心臓をぐさり、と突き刺して、甘美な毒となって体内を満たす。
ああ、何て美しい声で、悲痛な言葉を叫ぶのだろう。次第にそのリズムが雨と調和し、最高のハーモニーが紡がれていく。花が枯れてばらばらになっていくうすぼけた映像が、脳裏に浮かぶ。枯れてばらばらになったとしても、花は花で愛おしいものなのだろうか。

古い楽器を軽く叩き、空洞の清澄な響きを味わいつつ、オレは不思議な暗い気持ちに囚われていた。
朝は、刻一刻と過ぎてゆく。かりそめの部屋でただ一人存在を主張する、師匠のヴァイオリンがこちらを見て笑っていた。だけど、優しい師匠の声が聞こえない。思い出せない。再生されない。聞こえない。聞こえない。…聞こえない。

明るくきらきらと朝日が眩しいと思ったら、いつのまにか雨が止んでいる。舞台が閉幕したかのような静けさに、心臓が鼓動を加速させる。
役場の町長や夫人を起こさないように、きしむ床をなるべく静かに歩き、ひんやりとしたドアノブを握ってドアを開けた。

風一つ無く、天井の雲間から射しこむ光がたくさんの水たまりに反射していた。地面に広がる鏡の中で、ぽつんと一人、女の子が立っていた。頭をうなだれ全身から雫がこぼれ、足はがくがくと震えている。その後ろ姿をじっと見つめていると、突然彼女はふらついた。咄嗟にぬかるむ土に足を踏み出し、精一杯腕を伸ばす。泥が舞い散る瞬間、彼女の細い体躯はしっかり腕の中に収まって、バランスを取ってから更に強く支えた。

「…おはよう、サト」
「……」

オレのありきたりな挨拶は、誰もいない石畳の街路で虚しく反響した。いつもならテンポ良くおはよう、と挨拶するサトも今は人魚姫にでもなったのか半開きの口を微弱に動かすだけで、弦の切れた楽器のようだった。

町と森と山は依然として静寂に包まれ、鳥も虫の声もしない。サトの冷たい体はまだオレの腕の中にあり、コートに水が染みこんでいく。何か声をかけようと思ったが、つい口をつぐんでしまう。サトとオレの鼓動の音はちぐはぐで、リズムが掴めない。何より、オレは自分の声に自信が無い。どんな言葉を並べても、ヴァイオリンの出す魅力的な音色に敵うわけがなく、それを思うと時々無性にヴァイオリンが羨ましくもなるのだ。自分はヴァイオリンの魅力を引き出すだけで、何も奏でられないのではないか、と。

「ミハイル、さん」

鈴を鳴らすような、か細く震えた声。

「喧嘩、しちゃいました。いえ、私が一方的に…彼に…」

トーンが低くなったり高くなったりして、息を殺すような嗚咽が口から漏れた。
悲しんでいるサトに対してオレは、ああ、やっぱり美しく澄んだ声は静寂ですら劇場に変える、と感動していた。
彼女は思いついたようにオレの体を優しく押しのけて「すみません」と、一言謝る。紫の瞳からぽたぽた、ぽたぽたと大きな涙が落ち、水たまりにぽちゃん、ぽちゃんと跳ねる。刻まれるリズム。眩しい光の中。

「サト、オレと踊ろう」

彼女の手を掴み引き寄せると、涙が空中に浮かんで弾けた。感じるリズムのままに動き誘導すると、ふらついた足がステップになって水たまりを蹴る。水たまりに映ったオレたちの姿は揺らめいて、鏡の向こうの世界では視界を揺らめかせるほどの雨が振っているように見えた。呆然としていたサトの顔は次第に笑顔になり、今にも天使の歌声を聞かせてくれそうだ。
夢中でリズムに乗るオレは、何故こんなにも高揚した気分でダンスに興じているのに、空漠とした心が広がっているのだろうかと考えていた。所詮遊戯で得られるものは楽しみであって、喜びではないのか。笑顔のサトは妖精のように跳ねて、踊って、天使の歌声で悲しいメロディを歌った。それはそれは、綺麗な笑顔で。
その笑顔は、何処を見ているのだろう?泥で汚れた眼鏡のレンズは、キミを遠くから見ている錯覚に陥らせる。キミの歌うメロディはとても素敵なのに、オレのリズムを酷く乱れさせる。


「ミハイルさん、ありがとうございました。…さようなら」

いつの間にかサトの別れの言葉を聞いたと思ったら、彼女は去っていた。
綺麗な言葉を並べて音楽を表現することは得意なくせに、自分の心は理解すらできなくて、だから何も話せなかった。さようならとかありきたりの言葉や、服が汚れてしまったねとか気遣いの言葉も喉でつっかえて、ヴァイオリンの無い両手をぶらぶらとさせることしかできなかった。
彼女の去った後は鳥の鳴き声や木々のざわめきが広がり、人々が朝の挨拶をお互いに交わしている。のどかなメロディが溢れているこの世界に不似合いな、激しいメロディが心臓の鼓動をベースに脳内で繰り広げられていく。
皮肉なことだ。オレにはヴァイオリンがなくては、このメロディを表現することができない。普通の人間なら、いや彼女ならあの美しい声で全てを伝えることができるのに。
乾いた笑い声をその場に残して、オレはかりそめの部屋に戻る。
目蓋の裏に、サトの姿が焼きついて離れない。どうしてだろう、彼女の歌ったメロディは覚えていないのに。
笑ったり、怒ったり、泣いたり、歌ったり。可憐な踊りを舞うキミのパートナーに、オレはなれない。

ヴァイオリンを奏でて、不可解なこの気持ちをメロディにすることしか、できないのさ。




静粛なダンス
(楽器を持たないヴァイオリニストは、ただのガラクタか?)





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