(タオ×アカリ)


「あの、アカリ」あたしは名前を呼ばれた。
「何」「いえ・・・」タオは言葉を濁らせた。
「何だか、落ち着かない様子、なので」ちょっと気になって・・・と付け足す。
彼の困惑した顔が、背中ごしに伝わる。
時は夕暮れ。今日も一日、休むことなく牧場の仕事をつとめた。
あたしが汗だくになって働いているのに、夫のタオはのんきに一本釣りだ。
しかも、今日の成果はたったの二匹。夕食だけでなくなってしまう。
結婚前は愛おしく思えた笑顔も、家族を支えなければいけないと思うと、能天気に見えて憎らしく思うこともある。
今は、家で夕食作りだ。行きどころの無いイライラをこめて、鍋をかきまぜる。
今夜はカレーだ。タオはあっさりした方が好きだけど、気にしない。
「アカリ、明日は一緒に釣りに行きませんか?」タオが明るい調子で聞いた。
あたしは、鍋から集中を外してしまった。
「勝手に一人で行ったら。あたしはやることがいっぱいあるの」ふりむいてどなった。
目を見開いて驚くタオの顔が、思ったより近くにあった。
「・・・そうですか」血の気が失せ、口をつぐんで、タオは隣で食器洗いを始めた。
しばらくその横顔を見つめても、能面の様に美しくたたずむだけだった。

朝が来た。珍しいことに、あたしはタオより先に寝た。となりには、誰もいない。
静かなリビングに目を向けると、頼りない背がぼんやりと見えた。
ベッドから立ち上がり、向かい側の席に座ると、虚ろな瞳が微かに動き、力なく微笑んだ。
頬に幾筋も涙の跡が乾き、目は充血している。
あたしは、しばらくその様子を黙って見ていた。

タオは、作物の収穫を始めた。あたしは動物の餌やりだ。
別に、役割分担したわけじゃない。勝手にそれぞれがやっているだけだ。
作業をしながら思った。昨日釣りに行ってあげなかったから、泣いているのだろうか?
そうだとしたら、なんて情けない男なのだろう。
考えるより、憤りを強く感じることになった。

その日も、夜はやってくる。今日の夕食はピザだ。もう何も言うまい。
タオは嫌がる素振りもなく、黙って食べていた。ピザの上のパイナップルも、少しは躊躇はしたが一口で口に入れた。
昨日のことを、謝るべきだろうか。どなったのは確かに悪かったと思っている。
だけど、あたしの気持ちも知らないで話しかけてくるのも愚鈍な行為だと思った。
「別に」つい、口から声が出た。
「別に牧場の仕事、手伝ってくれなくていいから。明日は釣りにでも行ってきて」
謝罪ではなく弁解だった。それでも、表情を明るくしたタオは、
「わかりました。ありがとうございます」と微笑んだ。

お風呂からあげると、タオは寝ていた。いつもなら釣りざおの点検をしている時間だ。
明日の朝にでもやるのだろう、と思い強烈な睡魔に身をまかせて、大きな布団にもぐりこんだ。
右耳を下にして、目を閉じると、背中があたたかくなるのを感じた。
骨ばった腕と長い指がお腹に触れる。首筋に息があたる。
その、優しくも熱い腕に抱きかかえられた。睡魔と衝撃が体の中でぐるぐるとかけめぐった。
肩越しには、あの黄緑色の目を感じられる。そして、何を言おうかためらっている息も。
あたしは安らかになることもなく、耐える様な気持ちで固まっていた。
この優しい手はまぎれもなく、あたしが好きになった人だ。この熱も。その息も。
だけど、手を握り返してあげられない。その先が怖くて、恐怖しか感じられない。
気がつけば、あたしは家を飛び出していて、動物小屋の柱に倒れこむようにもたれかかった。
そして、迫りくる睡魔にとうとう身を委ねたのだった。

鶏と牛の鳴き声が、やけにうるさい。牧草のかおりが、いつもより豊かに感じられた。
そこで、ハッとして目が覚めたあたしは、一瞬で昨日のことを思い出した。
膝の上にはふわふわの毛布が被さっていて、それにも体を震わせて驚いてから、ぼーっと空中を眺めていた。

時刻は、昼の2時半を上回っていた。急いで牧場仕事を終わらせようとしたが、既に全ての作業が終わっていた。
驚きだった、あのタオが、あたしより速く作業を終わらせるなんて、思いもつかないことだったからだ。

あたしは、なんとなくメープル湖へと向かった。
昼下がりの湖は、穏やかな光が反射してきらきらと綺麗だった。
水面をのんびり眺めながら、ふとこんな風にゆっくり時を過ごすのは久しぶりだなあと思った。
こうやってぼんやりしている時間は、いつもタオと一緒だった。
最初は、天気と釣りの話しかしない退屈な人だと思った。
もっと面白い話をしたり、楽しいことに連れ出してくれるような人が良い。それは今も同じ。
それなのに、あまりにも静かで面白みのないあの人は、まるで空気のように居心地の良い存在だった。
急に、今タオに会いたくなった。その吐息を、頬に感じたかった。
考えるより先に、あたしは漁船のとまる港を目指して走った。

タオは、メープル湖以外ではいつもそこで釣りをしている。まだ帰っていなければ、そこにいるはずだ。
遠くに港が見えてきた。麦わら帽子を背中に下げた人物が見えた。
白藍の髪が、風にすくわれて舞い上がっている。あの姿は、タオだ。
手を振って声をかけようとすると、突如その姿が海に吸いこまれて、消えた。
あたしは立ち止った。足が震えている。桟橋には、残った麦わら帽子が風にふかれて着地した。
今のは自分で落ちたのか?頭から突っ込んでいくように飛びこんでいった。「まさか」
タオの悲しい表情がいくつも浮かびあがる。泡となって消えていく。「嫌だ」
私は桟橋から飛びおりた。そして、同じように頭から水面に突入した。
海の中は、思ったより暗くて寒かった。目を開けると、黒い闇の中に沈んでいくタオの姿がある。
触れようと手をのばしても、届きそうなところで届かない。タオの口から出た泡が、顔に当たる。
もがいて、やっと、つかまえた。服をひきよせて、ぐったりしたタオの顔を触る。
魚の腹の如く冷たい唇に、口を大きく開けてキスをした。溜めていた息を吐きだす。
手に入る力が抜けていく。誰かの鼓動が聞こえる。
真っ暗になっていく意識の中で、最後に「ごめん」と言った言葉は、透明な丸い泡になって浮かんでいった。

寒気と浮遊感によって、またもハッと目が覚めた。オレンジ色の空と、ムラサキ色の雲が見えた。
あたしはタオの背中で、毛布にくるまって揺られていた。
「起きましたか?」振りむかないでタオが言った。「寒いと思いますが、もうすぐで家ですから」
「・・・ばか」  「え?」  「ばかって言ってんのよ!」
あたしは声を荒げた。「いくらあたしが薄情だからって海に飛びこまなくてもいいじゃない!
釣りだったら何回でも行ってあげるわよ」ボロボロと零れる涙をふりはらうように言った。
タオは歩調をゆっくりにして、声をもらして笑った。
「いえ、私は飛びこんだわけではないのですよ。ほら」私を支えていた右手を、ポケットに入れて首元に持ちあげた。
その手には、人の手のひらほどの大きな青いうろこが光っていた。
「このうろこの持ち主である幻の魚がひっかかったのです。まあ、逃げられる時に海に引き落とされてしまいましたけどね」
朗らかに笑った。「そんな・・・」なんだか拍子抜けしてしまった。つい笑みがこぼれる。
「でも、助かりました。海の中で息を吹きこんでくれなければ、とても戻れなかったでしょう」
きっとあの後、あたしを持って海上にひきあげてくれたのだろう。筋肉が少しこわばっている。
「そして、アカリの言葉。昨日も今日も、ちゃんと伝わりましたよ」
あたしは、何だか恥ずかしくて広い背中に顔をうずめた。


明日の夕食は、緑茶とハマグリのソテーにしよう。





今夜の夕食は






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