▼ アサマとセツナ(FEif) 汚れた包帯を水に浸すと、乾いた血の塊が剥がれては水面へと浮かび上がる。両手の指で強くこすっても血の染みはもう二度と落ちることもなく、まるで一種の模様のように包帯を鈍い赤茶色で彩っていた。濡れた包帯を竿に吊り下げ、今度は乾いた包帯を取り入れる。中央から巻いて丁寧に纏めていくが、すぐに解かれてしまうだろう。とても包帯を使い捨てなど出来ないぐらいに負傷兵の数は増し、物資は限られた状況だ。包帯を軽く洗う余裕があるだけまだ絶対的な危機感を抱くには程遠いが、人間の身体と精神に暗い影を落とすには充分だった。 土に敷き詰められたござの上に転がる負傷兵たちが穏やかな寝息を立てている様を見る。手足を骨折した者や背中を斬られた者はいるが、大事に至る傷を負った者は今のところいないようだ。もっとも大事に至る傷を負った少数の者は既に他界しているのだが。この光景だけを見ると、死の臭いが満ち足りた戦争の最中の安息に簡単に身を委ねてしまいそうになる。少なくとも、あちらこちらへ走り回り息を切らして治療を急ぐ、骨も折れそうな労働が無いのは確実に休息であるに違いない。負傷兵たちと共に寝転がりただ空を仰いでいたくなったが、薬箱に包帯を収納している間にそんな行動を取ることも面倒臭くなった。手持ち無沙汰になったアサマは効力を失った祓串を片っ端から力任せに折り、ただの木屑と化したそれらに火をつけた。中々火が燃え上がらなかったが、徐々に幾つかの木屑に火が燃え移り、小さな炎となって乾いた剥き出しの土の上でパチパチと爆ぜた。数分もせず尽きることはわかるが火の不始末を責められると面倒なので、後始末をするためという体で横に座り込んで悪戯に時を過ごす。俄かに煙が空へと昇ると、狼煙と勘違いした忍の兵士が数人ちらちらとこちらを窺う様子が遠目に見えた。顔の前で手を振り、これは狼煙では無いと伝えると踵を返して何処かへと消える。この拠点全体を忍数人で見張っているのだろう。もしも姿を隠して任務をしろと言われたら、何せ姿は見えないのだ、存分にゆっくりと羽を伸ばすつもりだが、忍の間同士で互いの行動をも見張っているのだろう。気の休まらない疑心暗鬼に身をやつす過酷な仕事だと忍連中を憐れに思いながら、念入りに灰の上に水をかける。水に流れる灰の塊が、剥がれた血の塊の漂落と重なった。 馬を持たぬ弓兵は後衛を担う例に漏れず、同僚のセツナは後衛に徹している。しかし、奇襲を仕掛けてきた敵兵に横から斬られたり、壁越しに魔術師の魔法に囚われ肌を燃やされることも多い。抉れた血肉が零れる音が聞こえそうな凄惨な姿に周りの兵士達は恐れ慄き死を目の当たりにした絶望に足を竦めているが、見慣れた者にはそれは日常の光景であり、他の兵士にするのと同様に、もしくはそれよりもぞんざいな所作で祓串を振り祓う。発生した輝く光に患部が包まれ、蛹の皮のように血の塊が全て患部へと張り付き、皮膚の一部として形を成す。そのあまりにも大概な処置によってわずかに胸部が上下したかと思うと、乱れた長い前髪の間から見える両目が開き、震える両足で上体を起こす。壊れた絡繰り人形のようだ、と誰かが恐怖に声をあげた。人形よりも楽でいいですよ、血肉は再生しますから、とアサマは言った。 体のどこまでが燃えればあれは息絶えるだろう。体のどこまでを失えばあれは生き返らないだろう。無残に削り取られ大きな血だまりの中に横たわる冷たい体は、血の気を失った肌の色をして心臓の動きを止めようとしてもまだ生きている。傷口を塞ぎ皮膚下まで温め血液の循環を促すとみるみるうちに生命が指の先まで満ち足りて、最後に瞼を開くのだ。瞼が開かないように目を潰し、傷からは血を流させたまま更に首と四肢を切断すれば流石に生き返らないかもしれない。ただしそれは一体の肉体としてという意味で、祓串で治療さえすれば四肢がそれぞれに動き始め、開いた口の中で舌が踊る姿も目に浮かぶ。全く飽きが来ない面白い人形だ。それでも心臓の動きが完全に止まり長い時間放置されていれば、その人形は腐り果て跡形も無くなってしまうだろう。目に見え触れられる形を持っていなければ、人形の意味が無い。 傷薬がしまわれている薄暗い倉庫の棚から、一つ、また一つと傷薬の瓶が取り出される。腕に抱えた様々な傷薬を調合して、セツナは効果的な調合薬を作ろうとしていた。薬の名前や効用についてはどうしても詳しく覚えられないが、臭いや味による感覚で効果を判断しながら次々と調合薬を作り出し、密かに数種類もの薬を調合できるようになっていた。打撲や切り傷を癒す軟膏を中心に、最近では腹痛や頭痛を和らげる頓服薬も研究中だ。罠に仕掛けられた毒入りの餌を食べた際に使う解毒薬も常備し、すっかり体全体から独特の薬草と薬の臭いがするようになってしまった。傷薬の消費について現時点で何も咎められていないが、持ち出しを規制されるのも時間の問題だろう。幸いなことに誰にも気づかれていない。誰も気づいてくれない。それで良い。体に出来たこの大きな青い痣は、自分で治したかった。青黒く沈着した腿の皮膚は何故だかとても不気味でぞっとして、自分で見るのは勿論とても人に見せられない気持ちでいっぱいになった。どんなに体がぼろぼろになって、どんなに痛く感じたとしても、こんな気持ちにはならないのに。 十分な量の傷薬を抱えきって倉庫から出ようとすると、足音がやってきて倉庫の扉の外で止まった。かちゃかちゃと鳴る傷薬の瓶を一旦調合台の上に置き、奥にある棚の一番下にある大きな空箱を取り出し、その中に収まった。器用に中から蓋を閉めて、じっと息を殺す。戸を開け閉めする音と共に足音が倉庫へと入ってきて、薬の棚でも見ているのかゆっくりとした動きで佇んでいる。既に箱の中でセツナの緊張はほぼ解けて、昔はよくかくれんぼで遊んだことをぼんやりと思い出していた。貴族の集まりで知り合った同年齢の子供たちと庭園でかくれんぼを始めて、ある時は庵の屋根に、ある時は池の中に隠れたりしたものだった。頭だけを水面に出して鬼が子供を探しているのを堂々と見ていても、意外と池には目もくれない。遠くの茂みにまで鬼が行ってしまい、いつ戻ってくるかとわくわくして待っていると頭上の太陽がすっかり沈みきったので、池から上がって今度は鬼を探しまわった。濡れて重くなった着物を引きずりながら、おーい、鬼さん、と呼びかけても、一向に返事が無い。きっと夜になってしまったから、鬼も家に帰ったのだろう。暗闇に一人きりでいると何にも無くなった気がして、子供の一人や二人食べてみたくなる鬼になってしまう。だから、暗闇に包まれた時は静かに眠ってしまえば、人間でいられる。子供には這い上がれない深さの落とし穴の中で、その少女は星の夢に抱かれた。 大きな箱の中には、血の人形が詰まっていた。きっちりと収まっているのに深い呼吸をするものだから、箱の形全体が息をするように連動して軋む。眠りにつきそうなところだったらしく、目線の定まらない瞳で己に覆いかぶさる影を見る。中腰で自分を見下ろしているのがアサマだとわかると、半ば飛び出るように箱を抜け出し床に転がった。おやおや、とわざとらしく溜息をついてアサマは立ち上がる。 「このような所で、一体何をしておいでなのですか」 「傷薬を……使おうと思って……」 セツナが後ろめたい気持ちになるのは気のせいでも何でもなかった。傷薬は貴重な物資だから戦場以外では使用は控えて、出来るだけ祓串や杖の回復で済ますようにと言われていた。他ならぬ、目の前にいるこの修行僧に。 「どういうつもりか知りませんが、とにかくそこに座っていてください。あなたが傷薬を使う前に無理矢理にでも回復してさしあげますから」 床へとしゃがみ、セツナの着物の両袖が捲り上げられる。真新しい傷が無いことを確かめると、今度は着物の両裾を脚の付け根までずらし上げて脚全体を確認する。とうとう右の腿の大きな青痣が見つかり、軽くさすられた後に祓串をかざされる。温かな光が青痣を包みこんでも中々青黒い痕は消えない。くっきりと浮かび上がるまだらな痣に目が眩み、両腕で体を抱く。ふとアサマに手を握られて、自分の手が震えていることに気がついた。寒くもないし、痛くもないのに。徐々に震えが収まっても離れない手に汗が滲み、鼓動が早くなるのを感じる。座っているのに頭がくらくらとして、すごく喉が渇いて、体が熱くなる。逃げてしまいたいのに脚が上手く動かないし手を離せない。助けてと呟いたはずの声はかすれて、誰に届くこともない。 「愚かですねぇ、これぐらいの痣に貴重な薬を使おうとするなんて」 頬を赤らめて身をよじるセツナの手をしっかりと掴むと、急激に指の先まで熱くなっていく。見つけた青痣は何処かの罠でこしらえたのだろう、予想していたよりも軽傷で、過剰に心配して荒々しく着物を剥いだのが馬鹿馬鹿しくなる。少し大きいがこの程度なら完全に癒えるだろう。しかし、過度に怯えているような態度を取るセツナの様子が気になった。何を今更この程度の傷で怯えているのかと問うと、呻き声を二つ三つ漏らした後に、息をととのえてその人は大真面目に言った。 「恥ずかしいの……青痣は、見られるのが……」 まとまらない思いを恥ずかしさだと名付けて、セツナは訴えた。赤く零れる血はどんなに服を汚しても気にならない。けれど皮膚の下で凝り固まった血の青さはとても不気味で、これが自分の脚だと信じるのが恐ろしくなる。濁った青色の肌をした鬼になってしまう気がした。そうしたら、もう二度と目覚めることはできない。 祓串の光が収まると、興奮してすっかり疲れ切ったセツナは気絶するように眠ってしまった。はだけた着物を直し床に転がらせたまま、空き箱の蓋を手に取る。先ほどまでセツナが詰まっていたその箱は狭く小さく、薬草の香りが仄かに漂ってきた。祓串に頼らずこそこそと傷薬を使っていることがずっと疑問ではあったが、なるほど、恥じらいなどという人間らしい感情があったとは。いつもの図太い振る舞いを思うとそれはとても滑稽なもので、大声で笑いだしたくなってしまう。戦場で血溜まりの中に倒れ血の塊を抱えて起き上がる人形が、傷痕が恥ずかしいなどと宣うとは。こんな小さな箱に逃げ込んで眠り出すほどに後ろめたさを感じていたとは。 空の箱に蓋をして調合台の上の傷薬を片づけて、アサマは外に出ようとした。しかしセツナを放置しておくのは少し忍びなかった。傷薬を取りに来た誰かが驚いて発見して、セツナの要領を得ない発言によって勘違いでもされたら困る。かといって体を担いで外の負傷者のござに転がしておくのも邪魔にしかならない。セツナの天幕まで運ぶには距離がある。自らの天幕に運び込む可能性を一瞬だけ考えてもみたが、あまりにおかしな展開に反吐が出そうだ。この血の人形は今は体のどこにも傷が無く、体に触れる理由など全くありもしないからだ。体に傷が走り血があふれ出た時にこそ、その体に触れる理由が出来る。傷ついた肌に幾重にも包帯を巻き、痛ましい痣を撫でることが出来る。 昏睡により脱力した上半身を抱き寄せて長い前髪を払いのけ、白い顔をよく眺めてそれを探すと、左目の下に細い切り傷が一筋ついていた。鋭利な切れ味は手裏剣の刃を思わせ、そういえば忍としての訓練を受けてみていると話していたことを思い出す。叱られながらも訓練を楽しんでいる姿を見守っていたが、一体誰がこの傷を付けたのだか。前髪に隠れていたとはいえ、こんなにもはっきりと目立つ赤色をしている。ああ、これで理由が出来た。体に触れる理由が。 幼子のような軽さの身体を持ち上げると、緩く巻いているだけだった帯が解けて床に落ちた。血の染みが所々についたそれは、汚れた包帯のようだった。 (了) 2016/06/14 18:03 |
▼ アサマとセツナ(FEif) 硝子戸から漏れ出づる灯りが目に止まった。暖簾の下ろされた食堂の硝子戸は擦り硝子になっていて、容易に中を窺うことが出来ない。アサマが息を止めて戸に近寄ってみると、微かにぐつぐつと鍋を煮立てる音が聞こえる。この夜半に誰かが鍋を煮ているのだ。話し声も無く、淡々と、恐らく一人で。食堂に満ちた沈黙は話題の有無を示すものではなく、純然たる孤独と料理に対する集中、ひいては食への欲望のようなものを感じた。 夜も更けてから沸き起こる食欲というものは、ある種の魔の気配がある。睡魔をも押しのけて、或いは睡魔と共に夢現に食への渇望を喚起させ、人を欲望のみで動かす。静まりかえった宵闇の中だからこそその漫然とした欲望が露わになり、無自覚な獰猛さを包み隠さない獣を思わせる。腹が空いたという自覚に関わらず突如腹の奥底から手が伸びてくるような、足元が胃液に沈んでいくような感覚に陥り、抗いがたい空虚が在ることを知ってしまうと、更にそれは猛威を振るっては行動の主導権を握ろうとする。 暫し逡巡した後に硝子戸を開いて食堂の内へと入ると、誰もいない数々の食卓上の燭台に火が点けられていて、あたかも先ほどまで大勢の人間が食事をしていたかまたはこれから大勢の人間が食事にでもやってきそうな気味の悪さがあった。それほどまでに、状況とはうってかわって人の気配が無い。台所からは鍋の煮る音がするが足音も戸棚を開け閉めする音も衣擦れの音もしないため、鍋が一人でに煮えているのではないかと錯覚しそうだ。これは食欲が見せる幻なのではないか、そして、同じく食欲に取り憑かれた者が錯乱して作り出した晩餐の光景なのではないか。 容易く構築されてしまいそうな共同幻想から目を逸らし、誘われるように台所へと足を運ぶ。そこには呆然と鍋の前で立ち尽くすセツナの姿があり、俯いた表情がわからなかった。鍋には蓋が被せられており、蓋に空いた穴から蒸気が上っていた。 「大根、煮ているの……」 開口一番に放たれた言葉は、今まさにそれだけが己の全てだと言わんばかりに、弱々しい語調ながらに欲の強さが滲み出ていた。絹の着物をぞんざいに着流し、帯の羽も奇妙な形に歪んでいる。裾を見下ろすと茶色い泥の染みがぽつぽつと付いていて、白い無地のために余計に目立っている。呉服屋の娘さんなどが見たら卒倒するだろう。一般人が見てもだらしがなくおちぶれた装いに不気味さも加わって、この世に未練がある幽霊だと言われてもおかしくない。未練というのが大根の煮物だというと、滑稽極まりないが。 台に転がった包丁と大根の皮が散逸している様を見かねてアサマが皮を掴んで屑箱へと放り入れると、セツナが鍋の蓋を開けた。輪切りの大根と昆布が湯に浸かるように敷き詰められていて、煮立ってから相当時間が経ったような煮汁の色をしていた。鍋の火を消して再び蓋をして、それからはまた空を見つめたかと思ったら窓の方へと歩み寄り、おもむろに窓を開け放ち窓枠に体重を預けながら外を眺めはじめた。おぼつかなさげに動く足の爪先と曲がった背骨をじっと見つめてもひとつも振り返ることもなく、まるで自分の方が幽霊になったみたいだとアサマに思わせた。 窓の外、夜の空には沢山の星がそれぞれに輝いていて、セツナはそれらを一つ一つ注意深く見つめていた。天の川は流れる乳のようだとも聞いたが、細かい流砂の如き星々の明滅する様まで見てしまうと、輝く砂の川にも思えるのだった。海の砂浜も大きな貝殻や珊瑚が削られて小さな粒になってしまったように、星も身を削られて砂粒のような小さな星になるのだろう。それでも輝きを失わずに瞬いているのは何処かに心臓でもあるのだろうか。肉眼では認識できない場所に星の心臓があって、その脈動が輝きと連動しているのだろうか。だとしたら、輝きを失った星は心臓の動きが止まって、死んでいるのだろう。天に向かって矢を射ればあの星々のどれかを矢が貫いて、殺すことだって出来るのかもしれない。そうしたら天から死んだ星が落ちてきて、綺麗な星が自分の物になる。でも、もう二度と輝くことはない星を綺麗だと思えるかわからなかった。夜空で輝いているからこそ星は星なのだ。もしも星を美味しく食べることが出来るならば、別の話だけれど。 ふと鼻腔を満たす爽やかな柑橘の香りにセツナが振り返ると、アサマが柚子をすりおろしながら新たな鍋に味噌やら溶いた卵黄やらを入れていた。酒やみりんを目分量で入れた後にすりおろした柚子の皮も投入し、木べらでよく練り始める。薄い菜の花色になった味噌を適当にかき混ぜながら味噌に目を奪われているセツナをちらりと見やると、口元を弓状に歪ませ得意気にしてみせるのだった。 漆の食器に丁寧に大根をよそって柚子の味噌を乗せて、ふろふき大根の柚子味噌がけが完成した。数ある食卓のうち一つに向かい合わせに座り、箸を手に持ちすぐに椀に手を伸ばしたセツナを諌めるためにアサマがセツナの足を食卓の下で軽く蹴った。驚いて箸を取り落としたセツナがおどおどして箸を拾う様を見てアサマの胸に罪悪感が沸き起こるかと思ったがそうでもなく、惨めなものを見下ろして高揚する感覚が付き纏う。箸を握りしめたセツナは訴えるような目で見上げたがそれはたった一瞬のことで、溜息と共に瞳を閉じ、箸を軽く袖で拭いてきちんと並べ直した。厳然とした佇まいで合掌するアサマの威圧に屈し、仏壇に拝む程の気迫を持って掌を重ね合わせ小さな声で、いただきますと呟く。 柚子味噌の芳醇な香りを心地よく胸に吸い込みながら大根を口に運ぶと、とても緻密で甘みがある大根の滋味が口内に広がり、だしの深味がよく効いた煮汁が優しく喉を流れ落ちていき、腹を満たす温かな温度に安堵を抱く。最早食欲という名の魔は鳴りを潜め、在るのは満ち足りた満足感のみ。残った煮汁を最後の一滴まで啜ってから、ごちそうさまの礼をして食器を片づける。食堂全体に灯された燭台を端から順にセツナが消灯していくと互いの顔も見えない程に暗くなった。もう食堂にいる意味など何もない。 出口の硝子戸を開けてアサマが外に出ると、後ろからセツナはついて来ないと知り、何となしに戸を閉めた。下ろされた暖簾を見たり建物の柱に寄り掛かったりして間を伸ばしてみたが食堂から人が出る気配は全く無く、生命への脅威を食堂の暗闇の中に感じ取る。はて、気絶か苦悶かはたまた即死か。いずれにしても面倒だと思いながらも再び硝子戸を開き食堂に入ると、今度は台所の燭台だけが灯されていた。訝しみながら確認するとやはりそこにはセツナの姿があり、今度は包丁を手に静かに小松菜を切り刻んでいた。 「まだ食べるつもりですか」 貪欲ですね、とそのままの嫌味を零すも髪に隠れた耳には届かないのか頷きも返答も何もない。包丁を握る手に残る幾筋もの切り傷の痕が目に映る。それらは古い傷で、真新しい傷ではないから血液の混じった料理にはならないだろう。かつてその手に生み出された数々の料理が苦悶の記憶として思い起こされる。髪の毛が燃えたようなタンパク質の生々しい臭い、舌にこびりつく壮絶な味、全ての味覚を凌駕する圧倒的な異物感。三途の川を渡ってあの世に逃げた方が余程幸せであると断言できる、四苦八苦を詰め込んだものだった。 沈黙の空間で料理をするだけの生き物になったように動く姿を見て、これが無心の状態なのかとアサマは興味深く眺めては度々欠伸をした。腹を満たして、今度は純粋に料理だけに意識を集中させようというのだろう。食欲に突き動かされる動きではない淡々とした動きは妙に空虚じみている。死んでいるように生きている。幽霊の方がまともだ、肉体を持たないのだから。 再び鍋を用意したセツナは、神妙に材料を入れてからまた呆然と鍋を見つめはじめる。意味の無い無駄な行動に呆れながら、アサマはまな板と包丁を軽く洗い流して布巾で水を拭き取った。燭台の蝋は、とても尽きそうになかった。 2016/06/12 18:32 |
▼ アサマとセツナ(FEif) 菖蒲が風に揺れる姿を探していた。ふと庭を見やった時に、目に入った菖蒲の花々が微かに揺れた姿を見て、もう一度見たいと思ったのだ。それはとても揺れたと形容する程大仰な動きでは無かったし、見間違いかもしれない。庭を眺める口実だと、断定する程でもないが。 「あの菖蒲の花、とても綺麗……」 呆けた声で、恐らく共に庭を眺めているであろうその人は言った。中々冷めやらぬ身体の熱が、早く夜風に運ばれてしまうといいのに。空気を通して伝わってしまわないかと無性に心配になって、腕を抱え込んで縮こまった。 「月明かりだけではよく見えませんが、それが良いのかもしれませんね。影の動きすらも目を引かれますから」 「ええ……」 心を奪われたように、一心に風景を見つめていられるのが少し羨ましい。彼女は目が良いから、景色の細部までよく捉えられるのかもしれない。 背にした燭台の灯りが、若干ちらついてきた。そろそろ本当に、シラサギ城に帰らなければ。何もこの粗末な庵の縁側で一晩を明かすつもりは毛頭ない。しかし、見事な庭園で徒然なるままに時を過ごしていたら、いつのまにか夜も更けてしまった。全く、だらしがないことに。 「ほら、セツナさん。シラサギ城に帰りますよ。一応ヒノカ様に言付けてはいますが、もしかしたら私達の帰りをお待ちしているかもしれません。あの方はとてもお節介ですから」 縁側から立ち上がり、石が敷き詰められた道を垣根沿いに歩いていく。後ろを振り向いて確認すると、思いがけぬ程近くに彼女がいて、驚いて少しのけぞってしまう。彼女はそんな私の反応に酷く傷ついた様子を見せ、伸ばしかけた手を引っこめた。 「あ……ごめんなさい。驚かせてしまって」 そんなに傷ついた顔をして謝られると、傷つけたうえに謝らないこちらが悪いようで、大変居心地が悪い。燻るような心地だ。 「別に。なんてことはありません。ただ、やはり夜に背後を歩かれるのは不気味なので、隣を歩いてください」 「でも、この道、狭い……」 「手を繋ぎましょう。初めから手を繋いでいれば、あなたが転んだ時にわざわざ手を差し伸べる必要もありません」 至極自然に、手を差し出した。私は確信している。この手が振り払われることはないと。だから、自信を持って最もらしく行える。 躊躇する素振りもせずにすんなりと手を取った彼女は、よっぽど幸せに溺れているのだろう。羨ましい。そして、とても悔しいことに、愛おしい。 「今日……とても、嬉しかった。カムイ様やヒノカ様、みんなが私の誕生日を祝ってくれて」 ぽつりぽつりと、彼女が話す。 「私、とても幸せで……これ以上ないぐらい幸せで……でも、今……アサマといる今は、もっと幸せなの……不思議ね……」 「……全然不思議では無いですよ。あなたはいつでも幸せ者でしょう」 「そう……そうだったわね」 菖蒲が風に揺れる姿を探していた。この景色が、私達だけのものだと驕りたくて。微かに風に揺れていた。確かに今この場所で、月明かりは私達だけのものだった。 「私も嬉しく思いますよ。こうして、共に歩めることを」 「…………」 「セツナさん?」 「……アサマが素直だから、驚いて……」 「いい加減慣れてくれませんか、このぐらい……」 2016/06/07 17:18 |