ピアノを弾いて | ナノ




 今、セキエイリーグではチャンピオン戦の真っ只中だった。挑戦者は、言わずと知れたヒビキである。
 現チャンピオンであるワタルも、過去に一度だけ黒星を冠する羽目になった相手だ。今もワタルはチャンピオンの座に君臨し続けているが、それはヒビキがチャンピオンを辞退したからに過ぎない。もしヒビキがチャンピオンになっていたら、ワタルは決してチャンピオンの座を取り戻そうとはしなかっただろう。
 ヒビキに勝てる、勝てないと言った話ではなく、ワタルにとってチャンピオンとは、言葉で表現するのが難しいものだったからだ。

 一度負けてるからといって、否、寧ろ負けているからこそ、ワタルはヒビキよりも圧倒的に強くなってみせた。ヒビキの持つ、天性のバトルセンス、ポケモンとの信頼度、バトルの楽しみ方は、ワタルには到底持ち得るものではなかったが、そこは経験で何とでもなる。ヒビキの二倍以上の人生を過ごしているワタルは、勿論ヒビキの何倍も経験があった。その経験を生かし、そしてヒビキの行動パターンを幾重にも分析し、冷静に、的確な判断を下してポケモンにバトルを命ずる。
 そうやってワタルは今回もヒビキに勝利し、再戦を誓うヒビキと固く握手を交わしていた。

 瀕死になった手持ちが入ったボールを握り締め、悔しそうに、しかし全力を出し切り晴々した感も窺える表情でヒビキが去って行った後、ワタルはがらんとした観客席に視線を向けた。
 テレビも入るようなイベント戦には、立ち見が出ても入りきらない程に観客が集まるスタジアムも、今日は静まり返っていた。その中で、煌々と光る照明を冷たく反射する鋼色の髪が微かに揺れる。
「来るなら来ると、そう言えば良いだろう」
 柱に寄りかかり、その影に隠れるようにして立っていたのは、ホウエンの“元”チャンピオンであるダイゴだ。ワタルが言葉を投げかけると、ダイゴは背凭れにしていた柱を踵で軽く蹴り、弾みを付けて二本の足でリノリウムの床を踏みしめる。
 バトルが始まって暫くした時に、ワタルはその気配に気付いていた。最初はセキエイリーグに携わる誰かがバトル見物に来たのだと思っていたものの、良く良く探ればその気配はここ最近音沙汰のなかったダイゴのものだ。
 ダイゴが自ら進んで姿を現さない以上、バトルには関係ない事だとワタルもダイゴの存在を告げようとはしなかったが、バトルが終わってもダイゴは動こうとしなかった。そもそも、リーグを去ったダイゴがここを訪れたということは何か用があるのだろう。その口火を切る切欠を作るためにも、ワタルは体ごとダイゴに向き直り、視線でダイゴを促した。


 喩えヒビキにチャンピオンの座を奪われたとしたら、奪い返そうとは思わないワタルだったが、チャンピオンに固執していない訳ではない。
 ワタルは誰よりもチャンピオンであろうと努力は惜しまなかったし、“チャンピオン”と称されるに相応しい品位と風格と、実力を兼ね備えているつもりだった。実際ワタルはトレーナーであれば誰しもが憧れる“チャンピオン”そのものであった。
 チャンピオンは、ワタルをワタルで在らせる媒体なのだ。
「もう、僕はリーグ関係者じゃないからね。気軽に連絡も出来ないかなと思って」
 それを、今ワタルの視線の先に佇む男は、簡単に蹴ったのだ。若くしてホウエンリーグチャンピオンに就き、長くその称号を手にしていたダイゴが、ある日突然チャンピオンを辞めると言った時は、それはリーグ中に震撼が走ったものだった。
 挑戦者に負けたわけでもなければ、ダイゴ自身がチャンピオンであるに支障をきたしたわけでもない。では何故か、その理由をダイゴは語ろうとせず、チャンピオンの全てをきっちり後釜に任せて自由の身となった。
 もうダイゴは、チャンピオンじゃない。けれども。
「そういえば、」
 少しの間互いに無言の時が続いたが、ふと思い立ちワタルは問いを投げかけてみる。
 先刻戦った、ヒビキ。彼が以前ダイゴとポケモンの交換をしたという話を聞いていたのだ。
「君はさっきの子――ヒビキ君を、知っているんだろう?」
 ワタルにしてみれば、ダイゴが用件を話さないなら、と他愛ない話をするつもりでヒビキの話題を出した筈だった。しかし、それに返ってきたのはまるで我が意を射たりという声音である。
「うん、以前カントーで会ったよ。たまたま僕が取引先のシルフカンパニーにいた時に、あの子もシルフに用事があったみたいでね」
「……、」
 擂鉢のような形をしているスタジアムで、客席の一番高い所にいるダイゴを見上げる形となっているワタルからは、逆行となっているダイゴの表情を窺い見る事は出来なかった。今、わざとらしく“たまたま”を強調したダイゴの口角が弧を描いているのか、それとも無表情のままなのかも分からない。
 それでも、硬質な金属のような色をした瞳が、す、と細められた事だけは分かる。
 たまたまという言葉を強調し、嘘をついている事を容易く教えた上で、己の意図をワタルの口から言わせようとしているのだ。ダイゴが言葉を切ってしまった以上、ワタルがそれを言わなければ、ダイゴは自ら口を開こうとはしないだろう。
 チャンピオンでなくなっても、ダイゴはダイゴのままだった。
「…俺を敗ったあの子と話して、どうだったかい」
 ワタルの声に抑揚がなくなってしまったのは、仕方がないことだろう。ワタルは。己の戦績に黒星が付いたことを、そう簡単に飲み込み消化できる人間にはなれなかった。
 チャンピオンであるワタルが、各地で問題を起こした“悪の組織”を駆逐した少年に負けたとあれば、それは一大ニュースとなる。スキャンダルとしてこそ書かれなかったものの、トレーナーとして旅立ったばかりの少年にチャンピオンが敗れたならば、ヒビキは一躍有名人だ。
 相手がヒビキと分かっていて、ダイゴは接触しポケモンの交換に至ったのだ。NNまで付けて可愛がっていたポケモンを、ただたまたま興味を持ち得る瞳を持っただけの少年に渡せる筈がない。
「あの子は凄いね。チャンピオンが求めるものを、全て持っている。ああいうのを、天才と呼ぶんだろう。今度会ったら、野良試合でも申し込んでみる事にするよ」
 ヒビキに対するダイゴの考えは、ワタルの思うものとほぼ一致していた。努力をしているだろうが、その下地となるものが常人とはもう違う。まさしくポケモントレーナーとなる為の条件、器が揃っているのだ。
 かつん、と質の良い――恐らくオーダーメイドであろう革靴の踵を鳴らしてダイゴが体勢を変える。その際、逆行であった顔が横を向き、漸くその表情を見る事が出来るようになった。
「もし僕が負けたら、君が慰めてよ」
 屈託なく笑って、ダイゴはスタジアムから出ていった。先に行っているという意味なのだろう。十中八九他意はない、そう分かっている筈なのに、ワタルの呼気は無意識に荒くなり、思考が渦を巻くのを止められなかった。
――俺が彼に、負けているからかい。
 ダイゴが去っていったドアを見つめながら、ワタルは口をつきそうになるその言葉を、力を込めた奥歯で噛み潰していた。



END
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