手の中の小さな星 | ナノ




 リーグから勤めを終えて帰ってきたアデクをチェレンが出迎え、そして共に食事を取った後のこと、先に湯浴みをし風呂から戻ってきたチェレンの視線の先で、アデクはのんびりと手持ちのボールを磨いていた。
 さすがに室内で中に収められているポケモンを出す事は出来ないらしく、ボールを手にするごとに指先でそれをつつき、中のポケモンと何やら笑いあった後に、丁寧な手付きでそれを磨いていくアデクから目が離せず、チェレンは濡れた髪を拭うのも忘れ、その場で立ち尽くしてしまった。
 普段ならばチェレンが傍に来るとその気配にすぐに気付くというのに、アデクは穏やかな笑みを浮かべてボールを見る視線を外さず、チェレンにかける声も無い。恐らく――否、確実にチェレンに気付いていないのだろう。物事に集中していると周りが見えなくなることはままある事だ、それだけの事だというのにチェレンの胸は中から何かに突かれているような息苦しさを齎す。
「…アデクさん、ボクも手伝いましょうか」
 それがこれまでにも幾度かチェレンを苛んだ嫉妬だと気付くと同時、ポケモンに嫉妬するなんてとチェレンは己を戒め、数歩足を進めてアデクの肩に触れた。そこで漸くチェレンに気付いたのだろう、アデクの肩が大仰に跳ね上がり首が勢いよくチェレンを振り向く。余りの勢いに声をかけたチェレンも驚き、互いに視線をうろつかせながらもアデクはチェレンの申し出を聞くと微かに眉を下げ、首を横に振った。
 チェレンの好意を無碍にしてしまった事に申し訳ないと思っているらしく、アデクはボールを磨く手を止めチェレンの顔をじっと窺っている。アデクの視線がチェレンに向いているというだけで、チェレンの胸の疼きはみるみるうちになりを収めていった。
 ポケモンに嫉妬するなんて――チェレンは再度己を戒め、恥じる。アデクの事を知り共にいればいるほど、アデクの一番は己なのだと驕りの心が顔を出してしまう。決してそんな事はないと分かっているのに、チェレンは齟齬を生む己の感情を抑える事が出来ないでいた。
 アデクの申し訳なさそうな視線には軽く首を振る事で応え、チェレンはアデクが胡坐をかく横に膝を抱えて座り込んだ。暖房に温められた部屋といえども、風呂上りの体には少し肌寒い。アデクに寄り添って座った為に触れあった箇所だけが暖かく、チェレンはほう、と息を吐き出し、ボールを磨く作業を再開し始めたアデクの手元をただ見つめていた。

 アデクが普段手持ちと称している、チェレンも見慣れた六匹のポケモンのボールを磨き終えたアデクは、しかし腰に手を遣るとそこから長く数珠繋ぎにされたボールを幾つも取り出した。
 パソコンの使い方を知らぬと悪びれもなく言い放つアデクに特例として許された、“チャンピオンとして”使わないアデクのポケモン達だ。最初にそれを見、パソコンの使い方を知らないと聞いたチェレンは使い方を教えようかと申し出たが、アデクは穏やかに笑いそれを断った。知らないままで居たいのだ、そうチェレンの耳元で声をひそめて言ったアデクの胸中を、その時チェレンは察する事が出来なかったが、今思えばアデクはパソコンの使い方を本当は知っているのではないかとさえ思う。
 豪快で大雑把なようでいて、その内は聡明なアデクの事だ。チェレンが見る限り機械音痴という訳でもない為、パソコンの使い方も説明を受けているに違いない。狒々親父、と言ってしまえば聞こえは悪いが、アデクは時折必要悪である嘘をついたり道化を演じる事もある。もしかしたら――チェレンは思ったが、それを口に出す事はなかった。
 どういう仕組みであるのか、モンスターボールは最小時には二本の指の間に挟める程に小さくなる。小さなそれがいくつも連なっているのを、毎朝腰につけるアデクを見る度チェレンは言いようのない感情を抱いていた。それを口で説明することは難しいが、敢えて言うならば寂しさ、切なさに似ているかもしれない。
 アデクの大きな指が、小さな開閉スイッチを一度押してボールを拡大させる。中のポケモンが眠っていたのだろう、アデクは拳をこんこんとボールにぶつけ、中を覗き込んで屈託なく笑いだした。飛び起きた中のポケモンが先刻のアデクのように驚き、慌てふためく様が見えたに違いない。容易に想像がつくやり取りに、チェレンも口許を弛めざるを得なかった。アデクの傍は、まるで太陽のように暖かい。
 アデクは一頻り笑い、笑い皺を寄せたままボールを磨き、またボールをつついた後に元通りにボールを縮小した。次のボールとも同じ様なやり取りを繰り返しながら幾つものボールを磨いていく。
 磨かれ光るボールは、それでも綺麗なままとはいかず旅の間についたであろう細かな傷が幾つも刻まれていた。数珠繋ぎの中に、比較的傷が少ないものもあれば、逆に傷どころか赤い色さえ褪めているものもある。
「なあ、チェレン」
 じっとボールを見つめたまま押し黙ってしまったチェレンがアデクの声に顔を上げると、チェレンの予想と異なりアデクはチェレンに視線を向けていた。反面、アデクの皺が刻まれた指がゆっくりゆっくりとボールを撫でている。
 アデクはチェレンの眼前にボールを持ち上げ、先刻チェレンが目を留めていた色褪せたボールの傷をつついてみせた。
「わしの腰にボールが一つ増える度に、その重みがわしに思い出を与えてくれている。ポケモンにはそれぞれの重さがあるだろう、それがな、旅をしている合間に重みを増していくんだ」
 ころり、と磨かれたばかりのボールがアデクの手の中で転がり、白色灯の光を反射し眩く光った。まるでボールの色が褪めている事など感じさせない、それどころか逆に色鮮やかに、鮮明に感じさえする。
 アデクの言葉を聞き、微かに眉根に皺を寄せたチェレンを見、当のアデクはもっともな反応だと穏やかに笑う。ボールに収めてしまえば、そのポケモンがどれほど重かろうと軽かろうと一定の重さになる。トレーナーが六匹を連れ歩くのに苦にならない、殆ど重さを感じぬような仕様だというのに、アデクはそうではないと言うのだ。
「ボクには、全部同じ重さにしか…」
 チェレンが困惑のままにそれを口に出すと、アデクは今一度頷きチェレンの頭を撫ぜた。まだ完全に乾いていない濡れた黒髪はアデクの掌に張り付き、雫を残して離れていく。
「そうさな。だがな、わしには重みが分かる気がするのさ。最初は各々重さが違うが、共に旅をし、生きていくと重さが増してくる。それは思い出の重さだ。思い出が増えれば増えるほどボールは重くなる。今では、ほら、どれも同じ重ささ。思い出の嵩はどれも変わらない価値があるものだ」
 暫くの間チェレンを撫で続けたアデクの掌が離れ、ボールへと向かう。一番古いものらしいそのボールを愛おしげに撫でたアデクは、まだ磨いていないボールを取り指を滑らせた。慣れた手つきで拡大されたボールの中から、ポケモンがかたかたと動きアデクに何事かを語りかけている。
 チェレンはアデクの話を聞きながら、なぜか涙が出そうになりぐっと奥歯を噛みしめた。涙の膜さえ張りはしなかったが、泣いてしまいたいような心地になったのだ。
 チェレンの先入観からかもしれないが、アデクにはどこか悲しみが付き纏っているような錯覚を覚えてならない。それはアデクが一番のパートナーを無くしているからなのか、放浪者という風体がそうさせるのかは分からなかったが、チェレンはアデクといると時折不意に泣きたくなる。
「チェレン、お前さんにもいずれ分かる日が来る。わしはもう暫く、許される限り思い出を提げて生きていこうと思うよ」
 そう締めくくったアデクの肩に、チェレンは思わず両腕を回してしがみ付いていた。唐突なチェレンの行動に驚いたアデクは目を見開いたが、すぐにボールを丁寧に床へと置いてチェレンの背に腕を回す。チェレンがアデクに縋る腕に力を込めればその分だけアデクも腕に力を込めて抱き返してくれる。
 チェレンには、まるでアデクがまた遠くへ旅に出てしまうように映ってならなかったのだ。否、実際に一所に留まる事をあまり好まないアデクは、リーグから許可が出ればまた各地を回るつもりなのだろう。それにチェレンが同行できるとは思っていない。仮にチェレンが同行を願い出たとてアデクは拒みはしないだろうが、それはアデクをアデクたり得なくさせてしまう。
「ボクも、アナタのボールに加わることは出来ますか」
 せめて、とチェレンはアデクにきつくしがみ付いたまま問いかけた。アデクのボールはアデクが持つ思い出の象徴だ。もしアデクがイッシュから、チェレンから離れていく時、アデクの記憶にいつまでも残っていたい。泣いてこそいないものの、震えたチェレンの声を聞き、アデクはチェレンを膝の上に引き上げ頬に両の掌を当てて上向かせた。
「お前さんはこれからたくさん成長し、重みを増していくだろう。それを感じるには、わしはこうしてお前さんを膝に抱いてしまえばいい。お前さんをボールに入れてしまう気は、起きないなあ」
 互いの額を触れ合わせ、息がかかる距離でアデクはゆっくりと言葉を紡いでいく。どことなくはぐらかされた様な気がしないでもなかったが、チェレンはそれで納得する事にした。息が詰まる程に強く抱きしめられるのも、チェレンが望めば望んだだけ、触れるだけに口付けを落としてくれるのも心地よかったからかもしれない。
 膝の上で大人しくなったチェレンの背を撫ぜ、アデクはチェレンを乗せたまま残りのボールを磨いていく。
 そういえば、あの色褪せたボールは他のものとは違い動かなかった――そう思い返しながら、チェレンはアデクの胸に顔を埋め、いつまでもその規則正しい鼓動を聞いていた。



END
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