酸性の雨に | ナノ




 視線の先に、レシラムの背に身を預け彼方へと飛び去っていくNを映しながら、アデクは安堵の息を吐いた。否、安堵ではなくそれはこの事件が一段落したことへの嘆息であったかもしれないが、兎も角これでイッシュを揺るがす大事件へと発展するかと思われた伝説を従えるもの同士の抗争、そして私欲で世を総べようとした者の夢は潰えたのだ。
 Nの姿が雲に隠され見えなくなったところで、アデクは己の腕が押さえ込んでいる床に伏した人物――ゲーチスに目を遣った。トウヤの心に感応し、そして力を貸すこととなったゼクロムの雷にサザンドラごとその身を打たれたゲーチスは今や、豪奢な作りであった上衣も焼け焦げ無残な有り様だ。しかし襤褸を纏い床に伏しつつも、その眼光は未だ鋭くトウヤを、そしてその先の空を見据えている。
 長年かけての計画があっけなく断たれた存在が、自棄になったら何よりも恐ろしいことをアデクは良く知っている。失うものが何もなければ、形振り構わぬ行動が起こせるのだ。
 アデクとは反対側、ゲーチスの左腕を抑え込んでいるチェレンに目を遣ると、矢張りゲーチスが何か仕出かさないかと警戒しているようだった。
 聡い子だと、アデクは思う。幼馴染であるトウヤの事が気になるだろうに、チェレンの視線はそちらには向かず、ただゲーチスに向けられている。それは偏にチェレンが己の役割を果たさんとしているからなのだろうが、チェレンのような歳でそれをここまで全う出来るのも珍しい。
 じっとチェレンを観察しながら、アデクは小さく唸り数度目を瞬かせる。
 思えば、五番道路でチェレンと初めて出会った時は随分とまあ斜に構えた子供だと思ったものだった。知識が先行し、感情を無意識に抑え込んでしまっている。強さを正しさだと思う事は往々にしてあるだろうが、それよりもまず、アデクはチェレンにポケモンと共に歩むことの楽しさを知ってほしいと思ったのだ。とは言っても結局チェレンの歩む道はチェレン自身で決めるほかない。アデクは適度な助言をしただけに留めたが、しかしアデクの期待をいい方向に裏切り、チェレンは短期間で成長を果たしていた。
 初めてアデクさん、と名で呼ばれた時は思わずその嬉しさを噛み締めてしまったほどだ。頭でっかちの、斜に構えた子供だと思いきや中々にその実は純粋で美しい。
 助言を助言だと受け入れる事が出来るチェレンにアデクは興味を持ち、また惹かれたのだ。
 この子をトレーナーとして育てる事が出来たら、そう思ってしまう程に。
 アデクは放浪の間に見聞きしてきた事を、そして悟った事を誰かに継承したいと考えていた。ただアデクの言を受け入れるのではなく、己の意見と擦り合わせ、考え、消化できる存在――それは誰しもが出来る事ではない。
 幾度か会合を果たし会話をしていくうちに、アデクはチェレンならば、と思うようになった。ただ、アデクをチェレンが受け入れようと思うかはまた別の話だ。今、アデクがチェレンにその話をすればチェレンは決して否とは言わないだろう。それはアデクがチャンピオンだからだ。イッシュの崩壊を食い止めるに一役――Nには敗北してしまったが――買ったチャンピオンとして存在するアデクが教鞭を取ると申し出て、駆け出しのトレーナーが否と言えようか。
 決してゲーチスの右腕を捕えた力を弛めることなく、その様な事をつらつらと考えていたアデクの視線が気になったらしい。チェレンは顔を上げてアデクの方を向き、何事かと首を傾げた。
 それに何でもないと首を振りつつ、アデクは再度ゲーチスに視線を落とす。綺麗に整えていた髪も所々乱れ、顔も煤けている。少なからず怪我も負っている身では暫く何も出来ないだろう、そうアデクが検分した矢先、しかしゲーチスはアデクとチェレンの呼吸の隙をつき一挙動で体を跳ねあげ、右手の拘束を振り切って上半身を持ち上げた。
「……ッ、貴様!」
 息を吐き出す時は、ほんの僅かではあるが込めた力が弛められる。ゲーチスは、アデクとチェレンが同時に息を吐くタイミングを虎視眈々と見計らっていたらしい。思いもよらぬ事態にアデクはゲーチスを抑え込もうと後ろから首に手を掛け圧し掛かるよう体重をかけたが、ゲーチスはアデク側の拘束が解けたというのに体を捻り、自由を取り戻した右腕を、左側にいたチェレンに叩きつけたのだ。
「う、あ……っ!」
 人間の心理を読む事が上手いゲーチスは、アデクの行動も見越していたらしい。遠慮のない力で腹に肘を打ちつけられたチェレンは避ける事も出来ずにまともにそれを受け、勢いのままに数メートル床を滑り蹲る。
「チェレン!」
 チェレンが腹に手を当てる事も出来ないまま酷く噎せ、胃液を嘔吐さえしているのは打ち所が悪かったからだろうか、アデクも不測の事態に怯み、ゲーチスとチェレンどちらを優先すべきか迷う。それがゲーチスの狙うところだったのだろう、易々と拘束を完全に解いたゲーチスは嗤い、そして素早く手持ち――サザンドラをボールから出すとアデクと距離を取り城に開いた大穴へと歩を進めた。
 ゼクロムに手酷くやられた筈のサザンドラが回復しているのは、何か回復薬を使ったからだろう。拘束が解けたあの間は瞬く間だったが、ゲーチスならばそれくらい容易かっただろう。一瞬でも気を抜いた己を悔やみながらチェレンに駆け寄り、その背を擦りながらアデクがゲーチスをひたと睨むと、ゲーチスはその様を鼻で笑い飛ばしサザンドラの背へと乗る。
「情に囚われ、己の役割も果たせない――。手負いのワタクシさえ取り逃すのが貴方ですよ、イッシュリーグチャンピオン」
 その言葉を最後に、ゲーチスを乗せたサザンドラは飛び立っていく。アデクは己の腰からボールを取ったが、その中には瀕死の状態の手持ちが弱々しく呼気をするだけだ。あっという間の出来事だったが、その中でアデクは何が出来たというのだろう。
「…ク、さ…アデ…さ…ごめん、なさ…、ボクのせい、で」
 アデクが抱き起こしたチェレンは、漸く咳も収まり喋れる状態となったらしい。血を吐いてはいないため、内臓がやられたということもないだろう。チェレンは唇を噛んでゲーチスが去っていった空を見つめ、苦しい息の合間に謝罪を乗せる。
 今回の事は、決してチェレンの所為ではない、そう言いながらチェレンの背を擦るアデクは他方の手を握り締めて悔恨の情に耐えていた。握った掌に爪が食い込み、焼け焦げた絨毯に流れ落ちた鮮血が吸い込まれていった。



END
酸性の雨にとけてしまえ


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