のうみそが欲しい | ナノ




 いつものようにアデクのプライベートルームに泊まらせてもらったチェレンは、これもいつものようにアデクよりも早く起きると朝食の準備を始めた。
 最近他の地方のリーグ関係者との会議が続き、出張にも出向いていたアデクは洋食続きだったのだろう、昨晩魚が食べたいとぼやいていたのを思い返しながらチェレンは鮭を焼いていく。徐々にキッチンに広がる良い匂いに朝を感じながら、チェレンはここ一年ほどですっかり手慣れてしまった朝食を作り終え、そしてアデクを起こしに寝室へと足を運んだ。
 チェレンが起床した時と変わらぬ体勢で眠っているアデクは昨日の昼頃出張から帰り、そのまま執務机で書類を捌いていた。随分と忙しく眠る時間もなかったのだろう、まだ朝の六時を半分ほど過ぎたこの時間に起こしてしまうのも気が引けたが、それでもこの時間に起こすようチェレンに言ったのは誰でもないアデクだ。
 チェレンは後ろ髪を引かれる心地になりながらも、深く寝息を立てているアデクの肩に手を置きゆっくりと体を揺さ振った。
「アデクさん、アデクさん。朝ですよ、起きて下さい」
 チェレンの声に反応し、アデクは薄らと目を開ける。その目の下には皺の他にやはり濃く刻まれた隈が見受けられ、チェレンは思わず眉を寄せてアデクの目元に触れた。
「うん…?」
 それがくすぐったかったのだろう、アデクは寝起き特有のぼんやりとした声でチェレンの行動に首を傾げ、そして漸う腕を持ち上げてチェレンの髪を撫でようとする。しかし、目も完全に開いていない状態でのそれが悪かったのだろう、アデクの腕はチェレンの顔を払う事になり、その際アデクの指が当たりチェレンの眼鏡は弦が耳殻を外れ床へと弾かれてしまった。
「あっ、…もう、アデクさん、何するんですか」
 チェレンは床へと目を遣り眼鏡を捜すも、それらしきものが酷くぼやけた視界に入るのみで安否を確認することまでは出来ない。深々と溜息を吐いてアデクに目をやると、アデクは漸く目が覚めたのだろう、すまないと眉を下げ今度こそチェレンの髪を撫ぜた。
 詫びの意もあるらしく、普段よりもゆっくりと丁寧に髪を梳かれると心地好く、チェレンは未だ布団に寝そべったままのアデクの顔を覗き込んで口角を緩める。眼鏡は割れた音は立てておらず、元よりチェレンも怒ってなどいないのだ。視界が利かなくなりアデクと近い距離まで顔を寄せたチェレンにアデクは笑い、髪を撫でていた掌に軽く力を込めてチェレンを布団へと誘う。
 促されるままに、布団こそもう取り払ったもののシーツに身を預けるアデクの横へと同じく身体を横たわらせたチェレンは、アデクの胸へと頭を預けて目を閉じた。頭上からアデクが密やかに笑う声が聞こえチェレンは顔を上げようとしたが、後頭部を軽く押さえられ上向く事が出来ない。どうやら身体を丸めるようにしてアデクに寄り添い、胸の鼓動に耳を傾けているチェレンが可笑しいらしかった。
 チェレンは釈然としなかったが、それよりも自身も早く起きた為にこうして穏やかな鼓動を聴いていると眠くなってくる。そのまま寝こそしなかったが、うつらうつらと船を漕ぎ出したチェレンは、床に落ちてしまった己の眼鏡の事を、すっかり失念してしまったのだ。


 それから三十分も経っただろうか、チェレンは睡魔に侵食されかけた所をはっと意識を引き戻し、ベッドの上に身を起こす。このままでは折角作った朝食が冷めきってしまうだろう。アデクの心地よい体温から離れるのは残念ではあるが、仕方がないとチェレンはアデクの足許から床へと降りて目を擦る。
 アデクはチェレンがうたた寝をしていた間、ずっとその髪を撫でていたらしく、チェレンが起きたのを見て続いて体を起こし床へと降りようとしたが、その位置は丁度チェレンの眼鏡が落ちている場所だった。
 上背が高い上に髪を結っていないアデクからは、銀の下フレームだけの眼鏡が見えなかったのだろう。眼鏡をかけていないチェレンからも当然のようにそれを見る事が出来ず、アデクがベッドから足を床についた瞬間、かしゃん、という小さな音と共に眼鏡は割れてしまったようだった。
「ッ、…す、すまん、」
 足裏にその感触を感じたアデクが慌てた様子でチェレンに顔を向けて謝った事で、チェレンは初めて何が起こったかを理解し蒼白になる。今でさえ割れてしまった眼鏡どころか隣にいるアデクの顔すら歪んでいるのだ。眼鏡がないまま生活など出来ず、チェレンは床に膝をついて無残に踏み潰されてしまった眼鏡の破片を掌に集めた。
「床にそのままにしておいたボクも悪かったですけど…。どうしましょう…」
 アデクに怒るというものお門違いな気がし、チェレンは嘆息して掌の上の破片を見つめる。至近距離にいなくともものは見えるが、視界全てがぼやけているというのは非常に不便で、また普段は眼鏡に頼りきってしまっている為に慣れない視界に不安を覚える。途方に暮れたチェレンはアデクを仰ぎ見たが、そこでふと、アデクが不自然に右足を浮かせているのが気にかかり目を瞬かせた。
 アデクの右足と言うと、先刻眼鏡を踏みつけた方の足だ。まさか、とチェレンがアデクの足首を眼鏡の残骸を持たぬ方の手で掴み足裏を見ると、そこからは鮮血が滴り床へと雫が零れ落ちている。
「ちょっと、何で言わないんですか! ああもう、全くアナタは…!」
 チェレンは今一度床に眼鏡の破片が落ちていないか確認し、ベッドの傍らのテーブルに眼鏡を置くと救急箱を取りにリビングへと駆けだした。アデクは苦笑したまま黙していたが、チェレンはアデクを咎める言葉を吐きつつもアデクが傷に触れなかった理由を悟っている。
 故意ではないにしろ、チェレンの眼鏡を割ってしまった事を酷く気にしているのだ。チェレンが眼鏡がないとどれほど不自由を強いられるか熟知しているアデクは、己の怪我など些細なものだと思ったに違いない。
 良く見えずとも慣れた部屋の中、どこに何があるかは分かっているためにチェレンは苦労することもなく目的のものを探し出し、今度は早足で寝室へと戻った。漸う慣れてきた、眼鏡の補助がない視界で救急箱の中から消毒液とガーゼ、軟膏、包帯を出してベッドの上へと置く。
「チェレン、朝食の時はそのまま我慢してくれんか。その後わしと一緒に眼鏡を買いに行こう」
 チェレンが寝室へと戻ってきた時アデクはベッドへと腰掛けており、手当の支度をするチェレンを見て眉を下げた。アデクの足の裏からは未だ血が流れているが、それをまるで気にした様子もなくすまない、と何度もチェレンに謝る姿に逆にチェレンの眉間にきつく皺が寄る。
「…良いですか、アデクさん。ボクは別に眼鏡がなくたって死にやしません。確かに不便ですけれど、痛くはありません。ですが、アナタはこうしてボクの眼鏡の所為で怪我をしてしまったでしょう。ボクの眼鏡よりも先に、病院に行くべきです」
 アデクの足を持ち上げ傷口に消毒液を遠慮なく掛けながら、チェレンはアデクの顔を見ることなく捲くし立てた。消毒液で傷口を洗っても、軟膏を塗ってみても後から後からと滲んでくる血は止まらず、開いた傷は随分と深い。
 応急処置にと傷口にガーゼを当てて包帯を巻いてみたが、そう簡単に治るものでは無さそうだった。唇を動かすうちにチェレンは悲くなり。アデクの足を包帯の上から撫でたまま顔を上げられなくなった。
 原因はどうであろうと、アデクに怪我を負わせる要因となったのは己の眼鏡なのだ

「これしき、そう痛くもないぞ。ポケモントレーナーである以上、これ以上の怪我など幾度も経験しておるしなあ」
 チェレンが俯いたのを見、アデクは再度苦笑を洩らしてその頭を撫で回す。額をつついて顔を上げさせ、眼鏡がないチェレンの顔を物珍しげに眺めたアデクはチェレンの手を取って立ち上がらせて己の膝の上へと痩身を乗せてしまうと、幼子をあやすようにその背を叩いた。
「兎に角、踏んでしまったのはわしの落ち度だ。どちらにせよ眼鏡は買いに行くのだろう? わしが付いていっても問題あるまい」
「…イッシュのチャンピオンが眼鏡ショップに、」
 チェレンが眼鏡を購入する店は、カノコに近い小さな店だ。そこにアデクが行くとなれば周囲が騒然となる事は目に見えており、またチェレンとアデクの関係を問われる羽目になる事は明白だ。チェレンは薄く眉根を寄せて苦笑する。
「良いですよ、お気持ちだけで。アデクさんは今日も執務でしょう? ケンホロウに頼めばちゃんと店まで飛んでくれるし、大丈夫です。眼鏡を買ったらまた、ここに戻ってきますから。…それよりも朝ご飯です、歩けますか?」
 一騒動あったために随分と時間が過ぎてしまっている。作った朝食は冷めてしまって、温め直さねばならないだろう。
 大人しくアデクの膝の上に抱かれていたチェレンが床へと降りアデクの手を引くと、アデクは多少痛みは感じるようだが歩く事に支障は出ないようだった。普段と然程変わらぬ足取りで歩くアデクは、リビングに着くと並べられていた朝食を見て嬉しそうに口許を綻ばせる。

 手伝おうかとコンロを覗きこむアデクをどうにか椅子に座らせ待つように言い冷えてしまった味噌汁を温めながら、チェレンは無意識に眼鏡を押し上げようと眉間に手を遣り、そしてそこに何もないことに気付きアデクに気付かれないように嘆息した。
 眼鏡は割れ、アデクは怪我をするといったとんだ朝になったと思い返しながら、チェレンはいっそコンタクトレンズにしてしまおうかとも考えた。が、それも踏ん切りがつかない。結局いつものフレームに、いつものレンズを注文するであろう数時間後の己を脳裏に思い浮かべながら、眼鏡の新調代だけはアデクからむしり取ってやろうとチェレンは密かに決意した。
 そうせずともアデクが金を出すと言うであろうことは、容易に想像が付いているけれど。



END
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