陸にいたら空気に | ナノ




 何か手に固く冷たいものが触れ、チェレンは目を覚ました。
 薄らと瞼を押し上げ見た先には薄青色をした四角いものが映り、それはチェレンが身じろぎをするごとにゆらゆらと不安定に揺れていた。寝起きのぼんやりとした頭でそれをじっと見続けたチェレンは、ふとその正体に思い当たり勢い良く体を起こす。ベッドが大きく揺れたことでそれ――開いたままのライブキャスターが枕元から転がり落ちるのを慌てて受け止めながら眠る前の一連の出来事を思い出し、チェレンはライブキャスターを握ったまま頭を抱えて眉を寄せた。
 開かれたままの画面は通話が切れそのままスリープモードに入ったのだろう、黒い画面は鏡となってチェレンの顔を映すばかりだったが、チェレンは確かにアデクを呼び出し話をしたのだ。それも用がないばかりか、深夜二時という非常識な時間にだ。思い返せば返す程に自己嫌悪と罪悪感に襲われ、チェレンは深く溜息を吐いてベッドから降り着替えるべく寝間着を脱いだ。クローゼットに向かいながら机の上を見ると、そこには読みかけの本が開かれたまま置いてある。それをしまうことすらできないほど昨夜の自分は切羽詰まっていたのだろうかと幾度目になるか分からない嘆息の後、チェレンは手早く身支度を済ませると朝食もそこそこに家を飛び出しボールからケンホロウを出すと空へと舞い上がった。
 上空高くまで高度をあげたケンホロウの背の上から見える眼下は、紅葉が始まり美しい。しかしチェレンはそれを堪能する暇も無く北へ向かうようケンホロウに指示を出し羽織ったジャケットの前を掻き合わせた。夏も終わり肌寒くなってきたために、最近新しく購入したジャケットは前を閉じてしまえば上空の寒さも緩和してくれるほどに暖かい。朝一番の空気が気持ち良いのだろう、ぐんぐんと速度をあげて飛ぶケンホロウの首に落とされないようにとしがみつきながら、チェレンは前方に見えてきたデパートR9に視線を定めてそれをケンホロウにも指し示した。


 朝早く――と言ってもチェレンは眠ったのが遅かったためにそこまで早く起きてはいないのだが――にも関わらずR9は人で賑わい、店員も笑顔を振りまく接客を繰り広げていた。チェレンはその中を縫うようにして歩き、目的のフロアまで辿りつくとショーケースを覗きこむ。
 そこには可愛らしく飾りつけをされた洋菓子が並び、飾り気のない作りのガラスの棚を彩っていた。薄いチョコレートを幾層にも重ねたシンプルなものや、ケーキに砂糖菓子とベリーで季節のポケモンを描いた凝ったものまで様々だ。
 女性に人気の店らしく、ガラスケースを覗き込んでいるのはチェレンの他には女性しかおらずチェレンは己が場違いのような居た堪れない心地になったが、ぐっと手を握り締めじっと商品を吟味する。
 チェレンが此処に来たのはアデクに迷惑をかけた詫びの品を購入するためだ。どこか和の雰囲気を持ったアデクだったが、意外にも洋菓子を好む事をチェレンは知っている。勿論アデクが最も好んでいる甘味は和菓子であろうが、それはアデク自身が良いものを知っていたり、行きつけの店を持っているためにチェレンが選ぶまでも無いと思ったのだ。
 代わりに洋菓子ならば、身近にベルやたまに顔を出すマコモがいるために最近のトレンドを知ることが出来る。ベルがR9に出店しているこの店の菓子を絶賛していたのを思い出しながら順にケースを覗いていたチェレンは、軅て一つの菓子に視線を留めた。
 それを購入しプレゼント用にと包んでもらった後、R9を出たチェレンはケンホロウに今度はゆっくりと飛ぶよう言うとしっかりと包みを胸に抱いてその背に乗る。
 ケンホロウが向かう先はポケモンリーグだ。午後に視察が入ることが多いアデクは午前中の今ならば恐らく執務室にいるだろう。




 リーグに着きケンホロウの背から降り立ったチェレンを出迎えたのは、見慣れぬ男性と共に出掛けようとしているカトレアだった。カトレアとチェレンはリーグ内では最も年が近しいため、たまにティータイムに誘われたりもしている。
 普段の四天王としての服で無く、私服なのだろう、レースとリボンをふんだんにあしらった服を違和感なく着こなし男性に片手を預けるカトレアは、チェレンを見ると数度瞬きし男性の手を離れてチェレンへと近寄ってきた。
「アナタ…それ、R9のあの有名なお菓子ね。チャンピオンへの手土産なの…? ふふ、今日はチャンピオンは一日執務だそうよ。良かった、わね?」
 カトレアはチェレンの抱える包みを一見してくすくすと笑い、背にしていたリーグの建物を振り返った。
「もう、からかわないで下さいよ…。それはそうと、そちらは?」
 優雅に笑うカトレアには何を言い訳しようとも無駄だろうと諦め、チェレンは肯定も否定もせずに溜息を吐いた。尚も可笑しげに笑うカトレアの背後でチェレンの視線を受け、男性が胸に手を当てて腰を折る。
「こちらはコクラン。ええと…わたくしの、執事と言ったところかしら?」
「コクランと申します。お初にお目にかかります、以後お見知り置きを…。カトレアお嬢様よりお噂はかねがね」
 洗練された動作で挨拶をしたコクランと名乗る男性は、成程言われてみれば執事服を身に纏っている。しかし執事、と紹介するカトレアの表情はチェレンが未だ嘗て見たことがない安らいだもので、チェレンはコクランがカトレアにとって特別な存在であろうことを察したが、わざわざそれを口に出そうとは思わなかった。
 意図せずともカトレアを引き留める形になってしまったが、出かけるところだったのだろう。チェレン自身もアデクが執務室にいると聞き早く会いにいきたいところだ、再度コクランに手を預けたカトレアに簡単に礼と見送りの挨拶を述べたチェレンは歩調を速めてリーグの裏口へと向かう。
 その間、一度振り向いて見たカトレアとコクランはどこか幸せそうで、チェレンはその姿に己とアデクを重ねかけ、慌てて首を横に振りその幻想を振り払った。


 インターホンからアデクの執務室へとおとないを入れると、すぐさまアデクの声で入室の許可がおろされた。ちょっと待っておれとの言葉の後すぐにチェレンの目の前の扉が開いてそこからアデクが顔を出す。
「おはようございます、アデクさん。その、昨日はご迷惑をおかけして…、これ、もし良ければ…」
 アデクが何も言わないうちにとチェレンは先手を打つ様にして謝罪し、そして手に抱いていた菓子の包みをアデクへと差し出した。半ば押し付けるような形になったそれをアデクは受け取り、そして片手をチェレンへと伸ばす。
「わしは気にしておらんと言うに…わざわざ買ってきてくれたのか、すまんなあ」
 チェレンの髪に掌を置いたアデクは常と変わらぬ仕草でその髪を掻き混ぜた。ライブキャスターで見たものと同じ、穏やかな表情のアデクと視線が合い、チェレンは気恥ずかしさを覚えて目を伏せる。寄っていくのだろうとアデクに促されてチェレンは執務室に入室し、そこで机の上に積まれた書類の山を見て思わずぽかんと口を開けてしまった。
「…なんです、これ?」
 チェレンがカノコに帰省してまた一週間程度だが、最後に執務机を見た時は書類は溜まっていなかった筈だ。それがどうして七日程度でここまで溜まるのだろうかと目を瞬かせるチェレンに、アデクは頬を掻き苦笑してみせる。
「此処の所、決算やら他の地方のリーグとの情報の共有やらでわしが見る書類が多くてなあ…、こう溜まると億劫でなかなか筆も進まん」
 菓子を持つアデクの手には、掠れたインクが付着しているのが見て取れた。仕事を溜める方ではないが、元々外に出る事を好むアデクにとって書類の整理は余り好ましい仕事ではないのだろう。言葉の端々からアデクが書類を溜めてもいた事が窺え、チェレンはわざとらしく溜息を吐いてみせるとアデクの手から菓子を奪い取り簡易キッチンへと足を向けた。
「全くもう、アナタは…。お茶を入れますから、休憩にしましょう。その後アデクさんが仕事をさぼらない様に、ボクが此処で見ていてあげますから」
 アデクの執務室にある簡易キッチンには、アデクが好む茶葉が置いてある。ここでアデクの執務を手伝った事が幾度かある為に、チェレンは勝手知ったるとばかりに急須を出して茶葉を入れた。ポットから湯を注いで葉が開くのを待つ間にアデクを振り返ると、アデクはチェレンにじっと視線を遣りどこか困ったようにも見えるように眉を下げている。
 もしや自分は邪魔だったかとチェレンは思い、そうであるならばと口を開きかけたが、それよりも早くアデクはチェレンに視線を据えたまま口を開いた。
「チェレン、お前さんは昨日わしと…、何の話をしたか、覚えておるか?」
 豪快な気風のアデクにしては慎重に言葉を選んだような口調に、チェレンは開きかけた唇を結んで数度瞬いた。昨日、というのは深夜ライブキャスターでアデクを呼び出した時のことだろう。
 アデクがいないから眠れないのだと子供がぐずるような事を言った記憶はあるが、それからは思い出せない。実際酷く眠かったあの時、アデクをライブキャスターで呼び出したことさえ夢うつつに近いのだ。チェレンはいたたまれない気持ちになりながらもそれを正直に告げると、アデクはふむ、と顎に手をやり何か考えているようだった。
「あの、アデクさん。ボクは何か失礼な事を…あ、夜中に呼び出してしまった事もそうなんですが…それ以外に、何か、」
「……いいや、そういう事ではないのだが…のう…」
 押し黙ってしまったアデクに対し、チェレンの焦りは募っていくばかりだ。自分が何を言ったか覚えていない事もそうだが、アデクがそれを話題に出すと言う事は捨て置けぬことを言ってしまったのだろう。礼を失することがあったのかと眉を下げたチェレンの言葉へのアデクの返事も、煮え切らない感がある。
 どうして良いのか分からずうろたえるチェレンを見兼ねたのだろう、アデクは一度息を吐きチェレンの髪を撫ぜ、この話はこれで終わりだと言った。
「お前さんが気にする事はない、…そうさな、分かっていた事だというのに、どこかでわしは見ないふりをしていただけの話だ」
 そのままアデクはチェレンの背を押してシンクへと振り返らせ、自分もその隣に立ちティーカップの用意を手伝い始める。チェレンは釈然としなかったが、ライブキャスターの一件はチェレン自身自分の行動を思い返すとその非常識さに埋もれてしまいたくなる心地に襲われるため、アデクが話を終わりにしようとするならばそれで良いと己を納得させた。
 余りしつこく尋ね過ぎて、子供っぽいと思われるのも嫌だったのだ。気付かれない程度に上目で窺ったアデクの顔は普段通りの表情で、チェレンは胸に去来する靄に気付かない振りをする。
「…アデクさんは和菓子が一番好きかなと思ったんですけど、これも、美味しいらしいですよ。アデクさんは良いって言ってくれますけど、あんな時間に起こしてしまった事、本当に申し訳なくて」
 程良く開いた茶葉から抽出した紅茶をカップに注ぎつつ、横でアデクが菓子の包みを開け始めたのを見てチェレンは一度息を吸い言葉を紡いだ。チェレンの言葉からしっかりと詫びをしたい意志を汲み取ったアデクは頷き、丁寧に菓子を取り出していく。
「おお、これは良い。食べるのがもったいなくなるようだのう」
 アデクは掌に菓子の一つを乗せ、そして屈託なく笑った。チェレンがR9で購入した菓子は、厚めのクッキーの上にチョコレートで作られたポケモンが乗っている可愛らしいものだ。
 チョコレート細工のポケモンはウルガモスやバイバニラなどアデクの手持ちにいるものもあり、アデクはそれを見つける度に笑ってチェレンの頭を撫でる。強い力で頭を撫でられながらも最早それに慣れてしまったチェレンは盆にティーカップを乗せて執務机へと運びながら、アデクにつられたように笑ったのだった。



and that's all…?
陸にいたら空気に、
 海にいたら水に溺れる


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