溺れた金魚は | ナノ


 西の空に薄く残る橙ももうすぐ宵闇に飲み込まれようという時刻、シルバーは修行に疲労した足を重く引き摺り、ポケモンセンターへの帰路を辿っていた。
 数ヶ月前から始めた修行は、ここ最近あまり成果を出せていない。一時期は手持ちのポケモンとも息があい、技にも更なる磨きを掛けられたというのに、この一週間ほどはてんで上手くいかなかった。
 技のタイミングがずれ、野生のポケモンにすら黒星を冠してしまう事にシルバーは苛立ち、それを感じ取った手持ちもシルバーの顔色を窺う素振りでバトルに集中出来ていない。それがまたシルバーの心を掻き乱す、といった負の連鎖に、シルバーは疲れきっていた。
 以前と同じように修行をしているだけなのに、体が酷く疲労し一歩踏み出す度に足は錆ついたように軋む。修行の場を変えたのも、良くなかったかもしれない。明日はまた、フスベに戻ってみようかとどうにか気を紛らわせながら、シルバーは窓から暖色の光を漏らす町並みを尻目に、裏路地へと入った。
 あまり治安が良い通りではないが、ここを通ればポケモンセンターまでの近道となる。手持ち六匹の内に幾つか瀕死となってしまったものがいる為、今日はゆっくりと休みたかった。
 電球が切れかかり、せわしなく瞬く街灯が目に眩しい。乱雑に積まれた廃品のコンテナの影に、荒んだ目をしたトレーナー達が幾人か屯っていたが、シルバーを睨みつけてはくるものの、バトルを挑もうとする者はいなかった。
 勿論、初めてシルバーがこの通りに足を踏み入れた際、彼らは当然の様にシルバーの行く手に立ち塞がり、下卑た笑声をあげながらバトルをしかけてきた。しかし、井の中の蛙というに相応しい、群れた中でのバトルしか知らない彼らはシルバーの敵ではなく、あっという間に勝負はついてしまった。
 力という後ろ盾を失った彼らは、精一杯の威圧と言葉でシルバーを脅したが、それに屈するのであれば、元よりこのような道を通ろうとすら思わない。シルバーが彼らをあっさりと蹴散らしてからというもの、彼らは決してシルバーに近寄ろうとしなかった。
 派手な衣服で己を誇張する男たちが遠巻きにこちらを見、こそこそと何かを囁き合うのを聞きながら、シルバーは少しだけ、気分を浮上させた。シルバーが強いから、彼らは手を出せない――そう思うと、まるで自分が強者になったような心地になる。
 しかし、それもこの裏路地に固まる彼らと全く同じ思考なのだ。群れの中でしか生きられないなど、あのロケット団と何ら変わらない。そうあってはならない。浮ついた気持ちをそう理性で制し、シルバーは溜息を吐いた。
 視界から余計なものを意図的に弾き、前を見据える。この先のT字路を右に曲がれば、すぐにポケモンセンターに着く。漸く身体を休める事が出来るという安堵感から、シルバーの歩幅は少し大きく、また歩みも早くなる。
 目的の曲がり角の周辺は、整備などされていない街灯が完全に切れ、自分の足元すら見えぬ程の暗がりだった。急く気持ちを宥めながら、さすがにそこは慎重に歩を進めたところで、シルバーの視界にちら、と赤色が掠る。
「……っ、」
 どくん、と大きく鼓動が胸を打った。
 それは、痛いほどによく知った赤色だったのだ。今のシルバーでは到底手の届かない、全てのトレーナーの頂点に君臨する男の髪の色。
 シルバーは跳ねる胸を左手で強く抑えつけ、咄嗟に右手を腰のモンスターボールに伸ばす。赤い髪の男――チャンピオンのワタルに出会う度、条件反射のようにバトルをしかけてきたが故の行動だった。しかし、こんな時間に、こんな場所に、ワタルがいる筈がない。シルバーは必死に己を落ち着かせようと試み、深く呼吸を繰り返す。
 落ち着け、錯覚だ、そう自分に言い聞かせる度、落ち着かねばならないという焦りが逆にシルバーの胸を占め、深呼吸がいつしか酷く荒い呼気に変わっていた。言い知れぬ焦燥感に、足が震える。
 自分の姿を見るのがやっとの暗闇の中で、もしワタルがいたとして、その姿が見える筈がない。そう思いつつも、シルバーの足はポケモンセンターとは逆の、赤い髪が消えていった左の道へと向かっていった。

 元より時代から取り残された様な寂れた裏路地であったのが、シルバーが進んだ左側へと行けば更に荒んだ様相であった。地面には所々に汚水が溜まり、街灯はほぼ点いていないと言ってもいい。塗装が剥げた壁は一面に苔や黴が生え、異臭もが鼻を突く。
 そこを、靴裏に弾かれ跳ね返った汚泥が服を汚すのも構わず、シルバーは走っていた。あのT字路から左に足を向けた時、そこにはもう誰の姿も無かった。しかし次の角を曲がった時、ぼんやりと照らされたその先に、またあの髪が消えていくのが見えたのだ。
 今度は見間違いなどではなく、はっきりとそれが人間であると分かった。整わない息の所為で声が出せず、ワタルを呼ばわる事も出来ない。ワタルを追っているだけの筈が、何か得体の知れないものに誘われているような気分になり、引き返すべきだと頭の片隅で警報が鳴る。
 シルバーがまた次の角を曲がればその先に、まるでシルバーを誘う様にひらめく赤色に、後ろ姿に、シルバーはただただ追い付こうと駆けていた。
 否、その足は疲れきり、歩く程の速度も出ていなかったかもしれない。先を行くワタルは、決して走っていないというのに、どれほど走っても追い付けない。辺りにはシルバーの足音と吐息だけが反響し、鼓膜を揺さぶって感覚を狂わせる。
「――ッ、…――!!」
 ひゅうひゅうと風を通して鳴く喉の音が無様で、苦しくて、シルバーの瞳に生理的な涙が浮かんだ。もうこれ以上は走れないと足が悲鳴を上げ、シルバーの意に反してがくりと折れた時、唐突に街灯が眩く目を貫きシルバーは強く目を閉じた。その拍子に涙が零れ、転んで地を舐める頬に砂利が付着する。
 指一本すら動かせない程に疲れきった体では、眩む目をどうにか開けるのが精いっぱいだった。眩しいのは、この一角だけ街灯が点いているからだ。霞む視界にワタルの背が映り、その奥にもう一人何者かが佇んでいる。
 ワタルも、その人間――恐らく、女なのだろうとシルバーは認識した――もシルバーには目もくれず、何事か言葉を交わしている。普段から使っている言葉であるというのに、シルバーの脳はそれを認識しようとしなかった。全く知らない言語のように、ぼやけた音が高く低く、歪んで鼓膜を震わせる。
 ワタルの手が女の首筋に触れ、滑らせ、服の中を這う様が、徐々に暗く落ちていくシルバーの視界に、瞬きをする度にコマ送りのように焼き付いていく。
 胃から酸いたものが込み上げ、シルバーは幾度もえずいて背を捩じらせた。喉が塞がり、苦しさに全身が痙攣を起こす。
 腐食したコンクリートの壁に凭れる女の白い脚をワタルが持ち上げ、腰を寄せたのを最後にシルバーの意識は落ち、深く沈んでいった。



END
溺れた金魚はもとから赤い


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