流星群、 | ナノ



 ポケモンリーグに併設されたチャンピオンのプライベートルームのベランダ、シルバーはそこに立つワタルの背をじっと見つめていた。
 久々のチャンピオン防衛戦を終えて帰ってきたワタルは、帰宅を出迎えた半同居状態になっているシルバーにおさなりな挨拶を返してすぐにベランダに通じる窓を開け放ち、そしてもう小一時間もじっと黙ったまま空に視線を向けている。
 防衛戦には、苦戦もすることなく勝った筈だ。シルバーはモニターでバトルを見ていたが、シルバーの目には少なくとも苦戦を強いられているようには見えなかった。実際ワタルの手持ちは一匹たりとて瀕死になる事はなく、負けた挑戦者もすなおにワタルの強さを認めていた。
 では、何だと言うのだろう。今すぐにでもワタルを問い質しそのセンチメンタルさは何だと詰ってしまいたいが、そうもいかない。ワタルの背中は何も語らず、シルバーさえ拒むようだった。
「……、」
 ワタルの帰宅に合わせて淹れた珈琲はとうに冷めきっている。窓を開け放している為に未だ冬の気配を残した風が舞い込んだ部屋も寒く、シルバーは時折思い出したように身ぶるいし眉根を寄せる羽目になっていた。
 ワタルが微動だにしないのを確認し、シルバーは一歩、二歩と後退りし退室を試みる。実際にワタルがシルバーを拒んでいるとは思っていないが、それでも今は同室すべきでないと思ったのだ。高く柔らかな起毛の絨毯はシルバーの足音を飲み込み、ワタルに届くことはない。



「馬鹿ね、あの人は」
 足音は届かずともシルバーの気配は感じるだろうに、結局ワタルは退室するシルバーを振り返ろうともしなかった。ワタルの腰でカイリューのボールがカタカタと動いていたような気もしたが、それも黙殺してワタルのプライベートルームから出たシルバーがさてどうしようかと宛てもなく廊下を歩いていた所、丁度良くこちらも部屋から出てきたカリンに拾われシルバーはリーグ併設の休憩所で夕飯を摂っている。
 カリンはイツキと待ち合わせをしていたらしく、休憩所で三人落ち合って一角のテーブルに腰を落ち着けた後にシルバーがワタルの様子を話すと、カリンは開口一番そう言い放った。
 ぱちぱちと目を瞬かせたシルバーに対し、イツキもカリンに同意し苦笑してみせる。
「まあ、分かる気もするけどね」
 大きく溜息を吐いたきりそっぽを向いてしまったカリンに代わり、イツキがシルバーに向き直った。一人話に置いて行かれたシルバーがどういう意味かと問えば、イツキはひら、と袖をひらめかせる。
 前触れもなく突如イツキの掌に現れたのは、バトルビデオだった。イツキは苦笑の表情を崩さぬままそれの電源を入れ、記録されているバトルの様子を見るようシルバーに促す。話の脈絡が掴めずきつく眉根を寄せながらもシルバーがそれを覗き込むと、小さな画面の中で繰り広げられているのは強靭な鋼色をした髪色の男性と、シルバーと然程年齢が変わらぬ少年の壮絶なバトルだった。
 互いの手持ちが激しくぶつかり合い、倒し、倒されバトルは展開を見せていく。鋼色の男性と少年の表情もきつく、しかしその瞳は爛々と耀いている。やがて最後の一匹同士が折り重なるように地に伏せてトレーナー同士が握手を交わしたところで、その映像はぷつんと途切れた。
「…それが、どうかしたのか」
 じっ、とまるで己がバトルをしているかのような心地さえ覚えながら映像に見入っていたシルバーだったが、映像が途切れたことで我に返り首を傾げる。ワタルの話をしていた筈が突如バトルビデオを持ち出され、全く脈絡が掴めなかったのだ。
「それ、その男。ホウエンリーグのチャンピオンよ、言い換えればワタルと同じ立場ね」
 いつの間にかカリンもテーブルに向き直っていたらしい。指先を落ち着かなくテーブルにぶつけながら、カリンは一度足を組み換え天井を――否、ワタルの自室がある方向を睨みつけた。
「今日の防衛戦は見たわよね、ワタルは簡単に勝ったわ。あの調子じゃあ何年経ってもワタルを超す挑戦者は現れない、ワタルはそれが悔しいのよ」
 苛立ちを隠そうともせずに語調に乗せたカリンは言うだけ言うと、運ばれてきたディナーを口に運び始めた。しかしその瞳は苛立っているどころか悲しげに揺れ、普段の勝気な様子の欠片もない。
 美人だと称されて余りあるかんばせを歪ませるカリンを見ながら、シルバーは料理に手を伸ばす気にもなれずカリンの言葉の意味を考えていた。
 ワタルは、バトルに勝った事を悔しがっている。バトルに勝つのは嬉しい事の筈だ、では何故か。先刻見たバトルビデオ、そこでは同じくチャンピオンがバトルをしていた。バトルに興奮し爛々と輝く瞳、繰り出される数々の戦法、バトルは引き分けだった。――ワタルは、バトルに勝って悔しいと嘆いている。
「……ああ、そういう事か」
 暫く思案すれば納得がいき、シルバーは深く嘆息した。ワタルがシルバーに何も言わなかったのも、カリンが苛立つのも、イツキが言葉を濁しシルバーに直接理由を説明しなかったのも仕方がない事だった。
 端的に言ってしまえば、ワタルは己の強さを嘆いているのだ。

 元々セキエイリーグのチャンピオンだったワタルがジョウトリーグチャンピオンをも兼任するようになって、その中でワタルに勝ったのは僅かに三人だ。
 その三人はワタルも、きっと他のどの地方のチャンピオンも勝てないであろう強さを持っているが、たった三人、この世にいるポケモントレーナーの中の一握りにもなれないほどに少ない。
 加えて言ってしまえばその内の一人はもう恐らくワタルとバトルの機会はないだろうし、もう二人には、逆にワタルでは歯が立たない。血沸き肉躍るような、さっきのバトルビデオの中の二人のような、ワタルとそんなバトルが出来る様なトレーナーは、存在しないという事だ。
 チャンピオンとは確かに頂点に君臨する象徴だが、その前に一介のトレーナーでもある。思わず童心に戻ってしまうような、期待と興奮に胸が躍るバトルを求める事には、何の不自然さも無かった。
 だが。
「悔しいのはこっちよ」
 剣呑な眼差しを作ったカリンを、イツキが苦笑で宥めている。しかしそのイツキの顔にも隠しきれない感情が浮かんでいるのは、やはりカリンと同じ思いを抱いているからなのだろう。
 ワタルが己の強さを嘆くという事は、逆にそれだけワタルに勝てないトレーナーがいるという事だ。決して手を抜いている訳でも、コンディションが悪い訳でもないのにワタルに勝てない。ワタルの手持ち一体すら倒せず、こちらのポケモンは悉く地に伏せさせられてしまう。
 イツキもカリンも、ワタルに勝てないからこそ四天皇の座に就いているのだ。そのワタルに嘆かれては、さぞや遣る瀬無いだろう。
 それを分かっているからこそ、己が贅沢な悩みを抱えていると分かっているからこそワタルは何も言わなかったのだ。結局簡単に悟られている為に、黙っていた意味も何もなかったが。
「ドラゴンタイプが元々強い、それだけじゃあないんだよね、ワタルさんの強さは。弱点を突いたって何をしたって僕には倒せない」
 イツキはやれやれと肩を竦め、そして椅子を立つとカリンを伴って休憩所を出ていった。シルバーが思考に耽っていた時間はそんなにも長かったのだろうか、見ればイツキの前の皿も綺麗にたいらげられており、手つかずの冷めきった料理があるのはシルバーの前だけだ。
 訝しげな顔をしたウェイターがシルバーの料理を残して皿を下げても、シルバーはまだ腹を満たす気にはなれずにワタルの事を考えていた。テーブルの上、イツキの腕があった場所にわざとらしく残されていたバトルビデオを再度起動し、幾度も幾度もバトルを見ながらシルバーは考える。
『でもね、僕らはそんなチャンピオンだからこそ、その下にいられるのさ。ワタルさんを一番尊敬しているのは僕ら四天王、それは確かだね』
 去り際にイツキが残して言った言葉も、シルバーの脳裏を駆け巡っている。カリンも不機嫌そうではあったが、その言葉に頷いていた。
 強いからこそ――恐らく“中途半端に強すぎる”からこそ思い悩む事もあるのだろう。それは言葉にすれば冒涜になりかねないため、ワタルは孤独に悩まねばならない。
 シルバーも確かに悔しさを覚えてはいたが、そこまで感情に波は立たなかった。ワタルが強いのは当たり前と思っていた節があるからだ。寧ろ防衛戦に“苦戦”するワタルを見た方が、シルバーの感情は揺らいでいただろう。
 何を考えればよいのか分からず、シルバーはぼんやりと目の前の料理を眺め続ける。
「……一緒に食べよう。それ、半分分けてくれないかい」
 背後から伸びてきた大きな掌が瞳を覆って、その掌を濡らした水滴が頬を濡らし返して、シルバーはそこで漸く自分が泣いているのだと気付いた。見覚えがあり過ぎる掌はシルバーの目元を何度でも拭い、涙が零れ落ちるのを防いで軅ては腕がシルバーを抱きしめる。
 ウェイターさえいなくなった休憩所で、一人手つかずの料理を前に自分でも分からぬままに泣いていた事を認識すると、そんな己が情けなく、またとても惨めに思えてシルバーの目からは余計に涙が零れ落ちた。
 自分が何故泣いているかさえも分からなくなったシルバーは、頬を撫でるワタルの掌を叩き落とすと嗚咽に震える腕を伸ばして隣の椅子を引き、ワタルを座らせる。
 特に抵抗もなく座ったワタルは今度こそ正面からシルバーを抱きしめたが、シルバーはもうそれを払い除けようとはしなかった。
「食えよ。おれも、腹減った」
 代わりにワタルを抱き返すことなく料理を指し示し言うと、頭上でワタルが微かに笑う気配がする。
 スプーン片手に冷めて固まったチーズに苦戦するワタルの顔をこっそりと窺い見ている内に気分も晴れ、シルバーはワタルの胸元に頬を擦りつけて涙を拭いた後、大きな手からスプーンを奪い取った。こういう事は、実はシルバーの方が長けている。
 シルバーが差し出したスプーンに乗った料理に唇を寄せるワタルの顔は、何度見直しても歴代最強を誇るチャンピオンそのものだった。



END
流星群、頭上に降りそそげばいい


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