ガードレールを | ナノ



 ワタルが久方振りに休日が取れたため、ワタルとシルバーは連れ立って買い物に出かけていた。
 消耗品や食べ物は、ワタルが執務に追われながらも折を見て買いに行ったりシルバーが気を利かせて買ってきたりとしていたために特別困る事はなかったが、ワタルはリーグに籠りっきりだったせいで夏用の衣服がほぼない状態だった。
 この時期、さすがに春用の私服――と言ってもワタルの私服はワイシャツが多いのだが――では過ごしにくいからと、ワタルは休日を利用して服を買いに行こうとしていたのだ。
 そこに丁度良くシルバーが訪ねて来て、ワタルは当然のように一緒に行かないかとシルバーを誘った。シルバーも拒む理由も無く頷き、そして今、コガネデパートに二人は来ている。
 シルバーの認識では、ワタルはタマムシデパートに行く事が多いと思っていた。名瀬今日はコガネなのかと問えば、タマムシの方は公の場で着る服を買う事が多いのだと言う。私服はコガネで買う事が多いと続けられ、シルバーは納得したのかしていないのか、いまいち腑に落ちぬ声でふうんと頷いた。
 兎も角、急ぐことも無いためのんびりとショッピングを楽しみ、時にワタルはシルバーに服を見つくろってやりながら久々の休暇を堪能していたのだが。

「あ、の!チャンピオンのワタル様、ですよね?」

 唐突にかけられた声は高く、甘い色を含んでいた。
 背後からかけられた声に逸早く振り向いたのはシルバーだったが、声の主である女性はシルバーには目も呉れずに遅れて振り向いたワタルに詰め寄り甘ったるい香水の香を振り撒きながら上目を作って見せた。
「そうだけれど、君は?」
 きつい香水の匂いと、あからさまなセックスアピールに思わず眉根を寄せたシルバーとは真逆に、ワタルは穏やかな笑みを女性に返し、首を傾げて問うた。
 声を掛けられ慣れているのだろう、慌てることなく余裕を持ったその態度にシルバーは慌てた己が馬鹿みたいだと内心溜息を吐く。
「アタシ、トレーナーなんです。ワタル様のことはずっと憧れで…お強いし、格好良くていらっしゃるし、もう憧れと言うよりはお慕いしているというか…」
「そうなのかい、嬉しいな。リーグに挑戦しに来てくれる日を楽しみにしているよ」
 女性がキンキンと高い声で捲くし立てようと、ワタルの表情は微々たりとも崩れなかった。風格と優しさを併せ持った声音で女性の弁に返答を返したワタルは最後ににこりと笑みを深める。
 シルバーは、今のワタルの一挙手一投足がテンプレートに沿ったものなのだと何となく察せられたが、それでも女性の“慕っている”という言葉にワタルが嬉しいと返した事がシルバーの胸中に陰りを落とした。
 女性の眼差し、そして声は明らかにワタルに恋愛感情を抱いているものだ。熱っぽい、その目にシルバーは覚えがあった。過去の己があんな目でワタルを見ていたのだと、自覚がある。
 告白紛いの言葉をぶつけてくる人間に、喩え社交辞令でも嬉しい、なんて返したら――。シルバーは知らずと奥歯を噛みしめていたが、それでもワタルが先の言葉で会話を打ち切ろうとしている事を察し黙したままでいる。
 しかし、女性が次に取った行動はシルバーの予想を、そして恐らくワタルの予想をも超えたものだった。
「ワタル様…」
 熱に浮かされたような女性の目が、腕がワタルに伸ばされる。ワタルが抗う間も無くワタルの胸に両手をついた女性は、口紅の乗った唇をワタルの頬に寄せようとパンプスの踵を浮かせたのだ。
 傍から見たらまるで恋人同士の睦みあいに見えるその様に、先刻から胸に込み上げる靄を必死に堪え展開を見守っていたシルバーの自制心が音を立てて振り切れた。
 社交辞令と本気の言葉の区別もつかない――若しかしたらわざとかも知れなかったが――女性の頭の悪さ、幾ら有名人とはいえ初対面の人間に色気を以て縋る図々しさ、それよりも。
 シルバーは多忙を極めるワタルの数少ない休暇に、共にいる事を望まれて嬉しかったのだ。二人で、まるでデートのようなショッピング、目が合えば笑い合う穏やかな一時。それらを遠慮も無く崩され、更に己の恋人であるワタルに直接的な行動を仕掛けられ、シルバーの怒りが沸点を超えた。
 女性の唇がワタルの頬に届くよりも、ワタルが女性を押し退けようとするよりも早く、シルバーはワタルの服を思い切り後方へと引き女性から引き離す。踏鞴を踏みよろめいたワタルに構うことなく、シルバーの存在に今気付いた、邪魔をするなと言わんばかりの鋭い眼光でシルバーを睨みつけてきた女性をひたと見据え口を開いた。
「人の恋人にべたべた触ってんじゃねーよ! いいか、ワタルはおれのものだ! お前なんかに用はこれっぽっちも無いんだよ!!」
 普段は何があっても決して言わぬような言葉を女性に叩きつけ、ワタルの右腕を確りと胸に抱き込んで女性を睨みかえしたシルバーは、これ以上用はないと踵を返しワタルを捕らえたまま走ってその場を後にした。
 頭の中は怒り一色で、他所事を考える余裕はない。シルバーに激昂された女性もそうだが、少なからず周囲にいた買い物客の唖然とした表情に気付くことも無く、暫く走り続けたシルバーはやがてデパートの屋上まで来るとその足を止めた。
 階段を四階分も駆け上がったために息が酷く切れている。隣からも乱れた息遣いが聞こえ、シルバーははたと我に返り抱きしめたままだったワタルの腕を解放した。
 怒りに任せての行動だったためにワタルをも気にかける余裕がなかったが、ワタルはあの場から一切の抵抗も無くシルバーに付いて来ていた。
 今更己の行動の恥ずかしさに苛まれ恐る恐るワタルの顔を窺ったシルバーだったが、その表情はすぐに驚愕のものへと変わる。
 ワタルはシルバーをじっと見つめていたが、逸そシルバーよりも恥ずかしそうな、赤い顔をしていたのだ。それは運動した後の頬の紅潮とは異なるものだった。
「あ、…その、…ワタル……」
 先刻とは打って変わり人気がない屋上は静かで、シルバーは予想外のワタルの姿に震える声を洩らす。
 呼ばれたワタルは気恥ずかしそうに、泣き出してしまいそうに眉を下げるとシルバーを強く強く抱きしめた。
 両の腕がシルバーの肩、腰に回り離さぬとばかりにぎゅうぎゅうと力が込められる。突然のワタルの行動と、感じる苦しさにシルバーは身を捩ったがワタルがシルバーを解放する素振りは全くなかった。
「有難う…」
「なに、が?」
 シルバーとの身長差があるために腰を屈めたワタルが小さく囁く。謝辞を述べられその真意を測りかねたシルバーが苦しい息の中問うと、ワタルはなんでもない、と笑ってシルバーに頬を擦り寄せた。紅潮しているために熱く熱を持った互いの頬が触れ合い、融けてしまいそうな気分になる。
「シルバー君、ねえ、もう一回聞かせて」
 人気がないと言ってもいつ、誰が来るか分からないこの状況を多少なりとも気にしていたシルバーだったが、ワタルに抱きしめられ体温が移る程に密着しているうちに懸念がどこかに消えていってしまっていた。とろんとした瞳を閉ざしたシルバーの耳にワタルの声が吹きこまれる。
 聞かせて、とは何をだろうか。ぼんやりとした頭で考えを巡らせていたシルバーは、ワタルの示しているものが何かに思い当り、急激な羞恥に駆られて渾身の力でワタルの腕の中から抜け出し距離を取った。
 恥ずかしい、恥ずかしい。そればかりがシルバーの思考を埋め尽くしている。
「もう言わない!…あんな、こと、もう絶対言わない!」
 拒絶を受けたワタルがどこか寂しそうな表情をしている事に気付いたが、それでもシルバーは首を横に振りワタルと目を合わせるのを避けた。
 そんなシルバーを見ているうちに平静を取り戻したのだろうワタルがくつくつと笑い声をあげる。
「酷いな、俺はとても嬉しかったのに。…でも、嫌な思いをさせたね」
 仕舞いには近くにあった備え付けのベンチへと腰を降ろし膝を抱えて顔を埋めてしまったシルバーの横へと座ったワタルは、緋色の髪をゆっくりと撫でながら言う。申し訳なさそうな色を含んだワタルの声音にシルバーは少しだけ顔を上げる。
「あれはあの女が悪いだろ、おまえ、立場上突き飛ばしたり出来ないだろうし。…本当なら、おれは男で、お前も男だから…そういうこと気にして悩むのかもしれないけど」
 極小さな声のために聞き取り難いシルバーの言葉を、ワタルは黙って聞いている。髪を梳く手付きは優しく、それに少しずつ感情の高ぶりが収まっていくのを感じたシルバーは一旦は切った言葉を続けるべく息を吸いこんだ。
「何か、最近はそういうの、気にならないんだ。だってお前、おれのことちゃんと好き、だろ…」
 要は独占欲だったのだと伝えたかったが、それを口にするのはどうしても恥ずかしくてシルバーはそこで口を閉ざした。しかし、ワタルにはそれだけでも十分だったらしい。うん、と肯定の返事と共に髪にそっと唇が降ってくる。
「じゃあシルバー君は、俺のもの?」
 ワタルはシルバーの肩を己の方に抱き寄せ、逡巡の後に問う。抱かれた肩から伝わるワタルの鼓動は普段よりも速く、シルバーはワタルも照れているのだと少しだけ可笑しくなり自ら体を広い胸へと預けた。
「そうだろ」
 返事を返すとワタルの鼓動がまた大きく跳ね、シルバーは人が来るまではこのままでいても良いかと考え人知れず笑った。




END
ガードレールを飛び越えて



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