かみさまこわい | ナノ



 入梅し、雨が降ったり止んだりと落ち着かない天気が続いていた。
 湿気と暑さに辟易するのかこの時期は挑戦者も少なく、その分チャンピオンであるワタルには雑務が回されここ数日、ワタルは机に齧りついて書類と格闘する日々を送っている。
 降っては止み、眩しいほどの晴れ間をみせ、また雨が降る。そんな天気故に湿気が肌に纏わりつき不快感は上昇していく。ワタルは垂れ落ち額に張り付いた髪を掻き上げ、窓の外を眺めて溜息を吐いた。
 眼下のリーグ裏庭では大粒の雨に打たれ紫陽花が揺れている。息抜きも兼ねてぼんやりと裏庭に視線を遣っていたワタルだったが、ふと視界に動くものが映り数度瞬いた。
 リーグの裏にはポケモンは生息していない。しかし今ワタルの目に映ったのは確かにポケモンであった。不思議に思ったワタルが窓を開けて外を覗き見るとそこにいたのはニューラで、どうやら必死にリーグの裏口のドアを開けようとしているようだった。
「ニューラ!どうしたんだい、シルバー君は一緒じゃないのかい!」
 ワタルはそのニューラに見覚えがあることに気付くと声を張り上げる。小さな手で懸命にドアを叩いているシルバーの手持ちのニューラは、上から見下ろすワタルには気付いていなかったようで声をかけるとびくりと震え顔を上げた。
 上にいるのが己の主の慕い人だと分かったのだろう、途端にニューラはドアから手を離しワタルの部屋の傍に生える樹に爪を立て上り始めた。するすると樹を昇っていく様はまさしく猫のようでワタルは口に笑みを刻んだが、すぐにニューラの様子がおかしい事に気付き眉を寄せる。
「ニューラ?」
 ニューラが樹の頂上へと登りきり近くなったところで再度ニューラを呼ぶと、ニューラは鳴き声をあげてワタルに何かを伝えたいようだった。ワタルは窓から腕を伸ばしてニューラを室内へと招き入れる。間近で見ると、ニューラは全身に泥がこびりついており、また細かな傷を幾つも負っていた。
「もしかして、シルバー君に何かあったのか」
 ワタルはシルバーとニューラが別行動をしているのを見た事がなく、またシルバーがこんな状態のニューラを放っておくはずがないと考え問いかける。その問いに首を縦に振り窓の外――シロガネ山の方角を指し示しニューラはワタルの服を引っ張った。
「シロガネ山にシルバー君が?君はそこから一人で来たのか」
 ぼろぼろのニューラを腕に抱き服が汚れるのにも構わず頭や背を優しく撫でつつも、ワタルの行動は素早かった。机の上の書類をそのままにマントを羽織り、腰に手持ちのボールをセットする。そこから一つ、カイリューを窓から外に放つとその背へと飛び乗りシロガネ山へ行くよう指示を出した。
「ニューラ、案内を頼む」
 ワタルに会えて安堵したらしいニューラはぐったりとワタルの腕に凭れていたが、ワタルの言葉に一鳴きし、シルバーが辿ったであろう道を示し始めた。

 上空を旋回しながらシロガネ山を見下ろし目を凝らし続けて十数分が経った頃、ワタルの目に遠目からも鮮やかな赤が映り込んだ。
 カイリューも気付いたらしく、ワタルの指示を待たず方向をかえ赤へと向かう。ワタルはシルバーを見つけられた事に息を吐いたが、しかしその場所は崖の中腹辺りで岩肌がごつごつとしており、人が歩けるような場所ではなかった。
であれば。
「足を踏み外したのか…!」
 シルバーがいる崖の上には細い道がある。普段ならば足を踏み外すことも無かっただろうが、雨で濡れた砂利や石が凶器となったのだろう。一目で分かる状況にワタルは焦りを感じカイリューを急がせ崖へと滑空した。


 漸くシルバーの傍へとカイリューを寄せたワタルだったが、その様を見て息を呑む。崖から突き出た鋭い岩に腕一本でぶら下がっているシルバーは全身鮮血にまみれていた。岩に頭をぶつけたのだろう、夥しい量の血が顔を赤く染めており、また破れたズボンからも裂傷が覗いている。だらりと力なく下に降ろされている左腕は、折れているようだった。
「シルバー君!」
 羽が空気を叩く音でワタルの存在に気付いていたのだろう、ワタルがシルバーを呼びその体を抱き上げて胸に抱くと、シルバーは微かに笑みを浮かべた。血に染まり震える唇がワタル、と掠れた声を洩らす。
「良く頑張ったね、もう大丈夫だ。病院に連れて行くから、眠っていていいよ」
 体を支えていたシルバーの右手は無理矢理岩を掴んだのだろう、掌が切れていてワタルですら目を背けるほどだった。感覚が麻痺し痛みを感じている様子がない事が唯一の救いだろうか。
 ワタルは傷に触らないようシルバーを抱きしめ、動揺する頭を叱咤しカイリューに指示を出す。カイリューも分かっているのだろう、なるべく振動を与えぬよう、それでも速く羽根を羽ばたかせリーグ付属の病院へと向かった。
 ワタルは何度もシルバーの呼気を確かめ、胸に手をあてて鼓動を確認する。張りつめていた糸が切れたシルバーは意識を失っており、ワタルは凄惨な姿にどうする事も出来ず唇を噛んだ。



 シルバーを抱き病院へと駆け込んだワタルは、すぐに担架に乗せられ集中治療室へ運ばれたシルバーを見送りソファへと腰を下ろす。
 シルバーのほかの手持ちはどうしたのかとシルバーが前日泊っていたというポケモンセンターへと連絡を入れると、部屋にボールがあるという事だった。シルバーはどうやらニューラしか連れていなかったようだ。クロバットがいればどうにかなっただろうに、とワタルは眉を寄せたが詮無い事だと思い直し、ただ治療室を見つめていた。
 もし何かあったら、と考えるだけでも身震いするほどの恐怖がワタルを襲う。
 もし、崖から落ちた時にシルバーが気を失ってしまっていたら。もしあの場所に掴めるだけの岩が出ていなかったら。もし自分がニューラに気付かなかったら――。
 過ぎ去った事を考えても意味がない事だったが、その“もし”がありえなかったとも言い切れないのだ。崖下まで落ちなかった事は奇跡としか言いようがない。


 結局シルバーは幾日か入院することになった。
 打ちつけた頭に異常はなかったが、念のためということらしい。酷く出血していた額も想像よりも軽度で、痕も残ることはないという。
 それよりも両の腕の怪我が酷く、シルバーは今、一人で食事も出来ない状態だった。
「迷惑、かけたな…」
 病院に運び込まれた日から一日半経って目を覚ましたシルバーは、横にワタルの姿を見つけると眉を下げた。点滴が珍しいのだろう、じっと落ちてくる薬液を眺めながら謝罪を口にする。
 普段とは比べ物にならないシルバーの憔悴した様子を見て、ワタルは首を横に振り上から覆いかぶさるように包帯だらけの痩身を抱いた。
「こうして無事でいてくれただけで良いんだ…。良く頑張ったね」
 シルバーを助けた時と同じ言葉をかけ、乾いてかさかさになっている唇に水差しを含ませる。上からワタルに抱きしめられたままシルバーは大人しく水差しを加え喉を鳴らしていたが、やがて小刻みに肩が震え出しぼろぼろと大粒の涙を零し始めた。
 引き攣る呼気にこれ以上は水を呑めないだろうと判断し、ワタルは水差しをサイドテーブルへと置く。シルバーは泣きながら辛うじて動く右手でワタルの肩を掴もうとし、しかし掌が痛んだのだろう、小さく悲鳴を上げて手を下ろした。
 シルバーは嗚咽と共に何度もワタルの名を呼ぶ。怖かったのだろう、死ぬかもしれないという恐怖に直面していたのだ。呼ばれる度にワタルはうん、と返事を返しシルバーの頬と腕を撫で擦った。
 点滴で冷えた腕が痛々しい。そのまま苦虫を噛み潰した表情で腕を擦り続けるワタルを見て、シルバーは泣くのを止めて笑みを作った。ワタルが自分以上に痛そうな顔をしているのが可笑しかったのだ。
「おまえが助けに来てくれるって、自分に言い聞かせてた。…怖かったけど、でも」
 崖の中腹でワタルに助けられた時に笑った理由はそれらしい。シルバーの言葉に漸く”もし”を考える事を止めてシルバーが生きている事が揺ぎ無い事実だと納得したワタルは、込み上げてくる感情のままにシルバーを強く抱きしめた。
 痛い!と険の籠った抗議の声が上がる。シルバーが動けないのを良い事に、そのまま痛い痛いと喚く声を無視してぎゅうとシルバーを抱きしめ続けた――勿論傷を悪化させるまでの力ではなかったが――ワタルは、シルバーにニューラがポケモンセンターにいる事を伝えた。
 シルバーを病因に連れてきた際、隣接するポケモンセンターにニューラを預けたのだ。ニューラも見た目以上に憔悴しており、数日は安静を余儀なくされた。それもそうだろう、シロガネ山からチャンピオンロードを超えてきたのだ。
 兎も角ニューラが無事な事知ったシルバーは安堵の息を吐き出す。
「いい加減離せよ。おれ、眠い」
 怪我以外は心配することも無くなって気が緩んだのだろう、シルバーは右腕でワタルを押し退けると手の甲で目を擦り枕へと顔を埋めた。表情が見えなくなってしまったが、耳がうっすらと赤みを帯びている。
 ずっと抱きしめられ、心配をされたことが恥ずかしかったのだと言葉よりも雄弁に語るそこにワタルは笑い、指先で耳殻に触れた。途端シルバーから横目で睨まれたが、ワタルが背を屈めて瞼に唇を落とすとシルバーは慌てて瞳を伏せる。
「……おれが寝たら、帰るのか?」
「いいや、ずっと此処にいるよ」
 小さく問う声にワタルが決まり切った事だと言わんばかりに返すと、シルバーは無言だったが決して拒否はしなかった。
 切った掌が痛まない程度に手を繋いでやると、やがてシルバーは寝入り薄く開かれた唇から規則正しい寝息を漏らし始める。
 ベッドサイドに置かれた椅子に腰掛けてあどけない寝顔を眺めながら、次にシルバーが目を覚ましたら色々と状況を聞かなければいけないなとワタルは苦笑した。


END
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