正義とエゴ | ナノ



 ワタルにしてみれば、大人の立場からシルバーを諭したつもりだった。出会い、時を経て最近恋人と言える仲になって後もシルバーの心身の成長を見守り続けてきたワタルだったが、その日、シルバーが手持ちのオーダイルにかけた言葉がワタルの胸に引っ掛かりを残したのだ。
 ――何で負けるんだよ。
 そう、オーダイルに向かってシルバーが放った言葉が如何にも不機嫌にポケモンを責めていて、ワタルは机の書面に向かってペンを走らせていた手の動きを止め、シルバーを呼んだ。
「そんな風に言うものじゃ無いよ。バトルの勝敗はトレーナーの技量にも関係しているだろう?」
 どうやらシルバーが野良試合に負けたらしい事を悟ってワタルは言う。その声には咎めるような険が籠っており、それを受けたシルバーはあからさまに眉を寄せた。シルバーが日々りゅうのあなで修行をしている事は知っている。しかし幾らポケモンを強くしたところで、トレーナーと心を通わせなければバトルには勝てないのだ。そういう事をシルバーはまだ分かっていないらしい、とワタルはシルバーの険しい目を受け止め溜息を吐いた。
「俺の言っている事は間違っているかい?」
 先刻から不機嫌ではあったが、ワタルの言葉で更にその指数を増したシルバーの後ろでオーダイルが少し困った顔をしている。ワタルが嘆息しつつ問いを重ねると、シルバーはワタルを睨んだまま立ち上がり腰のベルトに手持ち五体のボールを付け、もう一つオーダイルのものらしい空のボールを持つとそれはポケットに納めた。
 ワタルもシルバーから視線を外さない。問いかけた後に引き結ばれたワタルの唇が、返事をしろとシルバーに雄弁に語りかけている様で、シルバーは下ろした手を握り締めて口を開いた。
「おまえの言う事はいつも正しいだろ」
 シルバーの声は低い。シルバーが面と向かって説教をされれば、それを頭で素直に受け止めているにしろなんにしろ反発してしまう性質であることをワタルは分かっていた。分かっていたが、しかしポケモンとの在り方を真剣に諭したというのに嘲るように返され、ワタルに苛立ちが走る。語気も荒くシルバーを呼ぶと、シルバーはワタルの鋭い眼光を受け一瞬たじろぎを見せた。
 シルバーの胸にもどうしようもなく苦しくさせるような靄が去来している。普段優しく慈しみの視線と言葉を向けてくるワタルから唐突に――シルバーにとってオーダイルにかけた言葉はオーダイルを咎める意図ではなく、寧ろ――理解している事を尤もらしく説教されて平静でいられるわけがないのだ。
 勘違いで怒られても、大人しく謝れるはずがない。しかしそれを言ったところで、ワタルは言い訳をするなと更に詰るに違いない。そう考えると堪らなく腹が立って、ワタルの視線を受け止めていることすら辛くなった。目を逸らせばワタルの叱責の声が飛んでくる。
「…黙れよ!!」
 もやもやと怒り、そしてまた違う感情にも支配されていく胸を押さえることが出来ず、シルバーは遣る瀬無さを声に出してワタルへとぶつけるとワタルの元を訪れた時に出された珈琲のカップを咄嗟に掴んで振りかぶり、ワタルへと投げつけた。中身がまだ入っていたため濡れた音が床を叩く。
 カップが手から離れると同時に走って部屋を後にしたシルバーは、ワタルが何事かを言っているのを聞き取ることが出来なかった。どうせ怒っているのだろうと、シルバーは悔しさに歯を喰いしばった。


 避けることも出来ず、ただ反射的に顔を庇ったのみに留まったため、全身は濡れ投げられたカップは床に無造作に転がり珈琲は机一帯を汚している。書きかけの書類も凄惨な有り様になっておりワタルは思わず頭を抱えた。驚きの余りシルバーに向かっていた苛立ちは消えうせていた。ワタルの頭に残っているのは、シルバーの悔しそうな表情と、出ていく直前にうっすらと目に浮かんでいた涙だけだ。
「……泣かせてしまったな」
 悲惨な状況の机から極力目を逸らしてワタルは一人ごちる。思い返せば、きつく言いすぎたかもしれないとワタルは後悔の念を抱いた。どこかでバトルをしてから此処を訪れた事は分かっていたし、シルバーの言葉から負けた悔しさを分かってやるべきだったかと反省し、先刻とは種の違う溜息を吐き出す。自分のポケモンにああ言った言葉をかけるのは確かに間違っている事だが、シルバーの性格上仕方がない事だったとワタルは考えた。
 シルバーとて、バトルに負けた事をいつもいつもポケモンの所為にしていた以前とは変わってきているのだ。
 洗面所から雑巾を持って来て机を拭き、使い物にならなくなった書類をおざなりにごみ箱に放り込んでから、ワタルは簡単にシャワーを浴び服を着替えた。頭から湯と混ざった珈琲が流れ排水溝に吸い込まれていく。
「酷いな、これは」
 シルバーが物に当たったのはこれが初めてのことで、そんな事をさせてしまう程怒らせてしまったのだと考える。ワタルは大人の立場から咎めたつもりだったが、逆に大人げなかったかと苦笑を洩らした。
 最早執務をする気にはならず、そのまま私服に着替えたワタルはカイリューを窓から空に放ちその背に乗った。シルバーを探しに行こうと思ったのだ。まずは普段シルバーが行きそうなところを回ろうかとカイリューに指示を出す。カイリューは頷き風を切って羽ばたいた。



 リーグを出てから人にぶつかろうと止まることなく走り続けたシルバーは気付けばトキワの森に来ていた。欝蒼と木々が生い茂り、木漏れ日が差さない場所は暗く影が落ちている。その一角に腰をおろし、シルバーは乱れた息を整えようと膝を抱えて顔を埋めた。ぎゅうと目を閉じて深呼吸を繰り返すと体の火照りも静まっていく。遅れて隣に気配を感じて顔を上げると、懸命に追ってきたらしいオーダイルがシルバーの顔を覗き込んでいた。オーダイルの息も荒い。シルバーにならって腰を下ろしたオーダイルを横目に、シルバーは俯いて足もとの雑草を引きぬいた。
「…ワタルの、馬鹿。馬鹿だろアイツ。勝手に怒って説教して」
 雑草は微かな悲鳴をあげてシルバーの掌へと収まる。それを投げ捨て、シルバーはまた草を千切った。
 ワタルの言う事は、いつも正しい。強くて、ポケモンと信頼しあい、結果チャンピオンに君臨している。そんなワタルだからこそシルバーは惹かれ、何時しか恋い慕うようになったのだ。
 言い方は何にせよ、あの場でワタルに返した言葉はシルバーの本心だった。
 ワタルが、ポケモンを道具のように使うのを嫌っている事は良く分かっていたし、シルバー自身も良くない事だと思っている。ポケモンを持ったばかりの頃、勝つために強いポケモンを強いポケモンをと躍起になっていたシルバーを諭したのは誰でもないワタルだったからだ。
 ポケモンと共に喜び、悲しむ。それが出来てこそ一人前のトレーナーだとワタルはシルバーに説き、その見本となった。気恥ずかしさとそれまでの在り方が残り、中々ワタルのようにポケモンと接する事は出来なかったが、シルバーはワタルの正しさを信頼していたのだ。ワタルはその信頼に応え、ゆっくりとシルバーを育ててくれた。
「馬鹿。…馬鹿ワタル」
 もう一度声に出してみると怒りよりも悲しさが募り、シルバーは出てもいない涙を拭おうと袖で目を擦る。オーダイルを咎めたつもりはなかったのだ。バトルに負けたオーダイルは、当然相手のポケモンよりも怪我を負っていた。勝てばそんな怪我を負う事も無いだろうと、シルバーにしてみれば精一杯の心配だったのだ。
 分かってくれ、というのは無理な願いだと分かっていたが、それでも頭ごなしに咎められるとは思わなかった。しかも、感情に任せて珈琲まで浴びせてしまった。
 自分のポケモンは何となく意を汲んでいるようだったが、確かに他者には分かりにくい心配の仕方だったかとシルバーは己を顧みる。ワタルにちゃんと伝えれば良かったのだ。そうすれば今、こんな後悔をしなくてすんだというのに。
 ずるずると落ち込んでいくシルバーを心配したのかオーダイルがシルバーの服を引く。それにつられオーダイルと視線を合わせ、シルバーはじわりと滲んだ涙を瞬きで振り払った。
「おまえ、もう怪我は平気なのか」
 一刻ほど前に負った怪我は処置はしたもののまだ消えてはいない。ポケモンの怪我は治りは早いが、人間と同じように痛みはあるだろう。シルバーがおずおずとオーダイルの怪我に触れるとオーダイルはシルバーの手に擦り寄ってきた。
「嫌じゃ無いのか、ろくに心配もしてやれないよう、な、…主人、で」
 滲んだ涙は次第に粒となってシルバーの頬を伝い落ちる。悔しくて、悲しくて、不安だった。ワタルを見ているうちに、ワタルのようなトレーナーになりたいと少なからず思うようになった。でも自分にはまだそれが出来ない。努力をしても、上手くいかない。ワタルに咎められた事が悲しい。反発してしまった自分に後悔が圧し掛かる。
 嗚咽で喉が引き攣り途切れ途切れとなった言葉にもオーダイルは鳴き声で答え、じゃれつく様にシルバーの涙を舐め取った。


 涙も渇き、その場を動く気にもならずオーダイルにじゃれつかれながらシルバーはぼんやりと木漏れ日を見つめていた。
 そんな折、シルバーに視線を向け甘える仕草を見せていたオーダイルがぴくりと体を震わせ視線を彷徨わせる。そのまま一点に据えられた視線に、シルバーは何事かと目をこらした。
 トキワの森の入口に人影が見える。徐々に近付いてきたそれがワタルだと気付きシルバーは息を呑んだ。慌ててオーダイルをボールにしまう。
探しに来たのだろうという事は察しがついたが、また怒られるのではないかという不安にシルバーは俯きワタルから顔を背けた。
「…探したよ、シルバー君。まさか此処にいるとは思わなかった」
 左右を見回しながら歩いてきたワタルはシルバーを見つけると大股で近づいてくる。 シルバーは膝に顔を埋め地面を見つめていたためワタルの表情を見る事は出来なかったが、その声が疲れと安堵を含んでいる事に気付き眉を下げた。
怒っては、いないのだろうか。
「さっきは俺の意見を押し付けてしまったね。ごめん、反省したよ」
 ワタルが草を踏む音が間近に聞こえ、服が擦れる音と共に気配が近づく。隣に腰を下ろしたのだと分かりシルバーは横目でワタルを窺った。ワタルの顔は見えなかったが、手が伸びてきてシルバーの髪をそっと撫でる。
 シルバーがその手の暖かさに顔をあげてワタルを見ると、ワタルはシルバーの目元に手を伸ばして瞼をつついた。
「泣いていたのかい」
 言われ、シルバーはワタルの手を払ってまた膝に顔を埋める。恥ずかしさに顔が熱くなっているのが分かる。耳が赤いよと今度は耳に触れられ揶揄する声が聞こえてシルバーはワタルの手を掴んで顔を横に向け睨めつけた。
 その際にワタルの手首に紫色になった痣を見つけシルバーは眉を寄せる。普段着ている服ではなく、ワイシャツにスラックスというラフな私服を着ていたからこそ気付けた痣だ。それが先刻シルバーが投げつけたカップによって出来た怪我だという事は想像に難くなく、シルバーは無言でそこに触れてワタルの顔を見上げる。
「…おれの事、嫌いになったか?」
 謝ろうと思ったのに、シルバーの口をついたのはそんな言葉だった。その上自分で聞いても情けないと感じる程の震えた声で、シルバーは予想外の事にうろたえる。そんなつもりはなくとも、一度口をついて出てしまった言葉は取り返しがつかない。ワタルも驚いたようにシルバーを見つめており、どうすることも出来ずシルバーは痣を見つめ続けた。
「すまなかったね、シルバー君」
 やがてワタルが口を開き、両腕を広げてシルバーを包み込む。君にそんな事を言わせてしまうなんて、と続けられた言葉にシルバーは今度こそ満面を赤くし、ワタルの腕の中で身じろいだ。すぐに腕を解きシルバーを解放したワタルは優しく笑んでいる。

 帰ろう、と差し出された手を逡巡した後に掴み、シルバーは立ち上がる。諍いの原因となった事に釈明をしようと座っていた時よりも格段と高さを増したワタルを見上げると、ワタルはシルバーの言葉を促すよう、穏やかに笑って首を傾げて見せた。


END
W*SR様に提出いたしました。


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