マリンブルーの檻 | ナノ




 最近まともに眠っていない。ワタルは疲れで霞む目を強く閉じ、また開いてから整えてもいない髪を掻き上げた。
 後ろに流し、整髪剤で固めた常の髪型とは全く異なり、そのまま流しっぱなしにしている。というのも、最近は全く挑戦者も来ないためにワタルにはこれでもかとばかりに書類が与えられ、格好など気にしている余裕も無くなってしまったからだ。
 ジョウト、カントーリーグ双方のチャンピオンを務めるワタル――何故かワタルに勝った挑戦者は悉くチャンピオンを辞退していく――は、普段から他のチャンピオンよりも仕事量が多い。それだというのに更に書類を持ち込まれ、ワタルはここ数日、手洗いに行くか、簡単にシャワーを浴びるか以外に椅子を立ってすらいなかった。
 凝り固まった腰が、酷く痛む。
 ペンを握りすぎて赤く腫れた手指もじんじんと痛んでいるが、しかしワタルはそれを投げだす事が出来なかった。手を付けていない書類が、まだ山とあるのだ。
「…死んでしまいそうだ」
 書き上がった書類を脇へと積み上げ、新たなものを目の前に置く。終わりが見えない作業に、思わず普段ならば絶対に吐かない弱音を洩らすとそれを聞き咎めたシルバーが顔を上げた。
 シルバーは、ワタルの執務机から少し離れた場所に据えてあるソファに腰を降ろしている。少し前から同棲を始めた事もあり、シルバーもワタルに付き合いここ数日は執務室で寝泊まりしている。ワタルは、隣接しているプライベートルームで過ごしても良いのだと何度もシルバーを促したが、シルバーは頑としてワタルの傍を離れようとはしなかった。
 結果、互いにずっと姿が見えるところにいられるため、ワタルとて悪い気はしないのだが。
「死ぬ前にそれ、終わらせろよ」
 ワタルの嘆きを耳にしたシルバーが口を開いたが、その言葉は辛辣だった。リーグ本部から山と書類を渡される直前にワタルから預けられたミニリューを膝に乗せ、ゆるゆるとその背を撫でている。ひんやりとした鱗や、嬉しそうに腕へと体を巻きつけてくるのが気に入ったらしい。とても微笑ましい光景であったが、今のワタルにはそれを愛でるだけの元気も無かった。
「酷いな、シルバー君…」
 力無く言いまた書類と格闘し始めたワタルを見やりシルバーは眉根を寄せる。髪は額や耳にかかりぼさぼさ、トレードマークのマントも皺になって床に放られ、衣服も縒れたワイシャツにスラックス。
 一目でチャンピオンのワタルだと気付ける者は少ないだろう。それだけ疲れているのだ。撫でる手を止められたミニリューがシルバーを仰ぎ見、その視線を追って本来の主人であるワタルを見て小さく鳴き声をあげた。
 どうやら心配しているらしい。ワタルは必死の形相でペンを走らせているが、目の下の濃い隈が睡眠を欲している事を示し、見るからに効率も下がってきている。
 このままでは近いうちに倒れるに違いない。ミニリューの頭をそっと撫でてあやした後ボールへと戻し、シルバーはソファを立ってワタルの机へと足を向けた。
 短い距離を歩きながら窓の外を見ると、厚い灰色の雲から大粒の雨が絶え間なく降り注いでいてどことなく物悲しくなった。そういえば、今日は。

「…ええと、何だい?」
 シルバーの行動にワタルが首を傾げる。それもそうだろう、シルバーはワタルの背後に回り、その背に掌と頬を押し当てていた。シルバーはそれを黙殺して窓を眺め続ける。閉め切られた窓からは一切外の雨音は聞こえてこなかった。
「シルバー君、これじゃあ仕事が出来ないよ」
 ぺたりと背に張り付かれ、心底困ったのだろう、ワタルが首を捻りシルバーを窺い見る。その際にぼき、と大きく首が鳴り、ワタルは痛そうに手を首へと当てた。
 窓から目を離したシルバーと、ワタルの視線が絡み合う。互いを見つめあっていた時間はそう長くはなく、やがてワタルが腰を捻り上半身ごとシルバーへと向けて腕を伸ばす。その腕に顎を掬われ、シルバーは抵抗せずワタルに導かれるまま唇を重ねた。目を閉じて啄ばむだけの口付けを受けていると、ここ数日全くワタルに触れていなかった事を思い出す。それはワタルも同じだったようで、口付けは徐々に深いものへと変わり、ワタルはシルバーの口内へと侵攻しその舌を吸った。

 長い口付けの後、呼気を整えたシルバーは暫くワタルに凭れかかっていたが、仕事へと向かっていた意識が完全に途切れたのだろう、疲労と眠気に支配され始めたらしいワタルの瞼が落ちかかっているのに気付いて目を瞬かせた。
「ワタル、」
 呼ぶと遅れて返事が返ってくる。腰を後ろへと捻ったままでは辛かろうとシルバーはワタルを机へと向きなおらせ、その背を軽く押した。ワタルは力が抜けたように机へと突っ伏す。
「今日は七夕だって気付いているか? 七夕は本来、仕事に追われる農民が自分たちへの慰めに話を作ったらしい」
 遠い記憶の中で、矢張り仕事に追われる父から聞いた事を告げると、不鮮明な声が返ってきてシルバーは溜息を吐いた。姿も仕草も、まるで普段のワタルとは違う。
「……、今のおまえみたいだな」
 今度はもう、返事は返ってこなかった。代わりに深い寝息が聞こえてくる。死にそうだと言ったくらいなのだ、相当疲れていたのだろうとシルバーは再度嘆息して夏掛けの毛布を取りにソファへと戻る。
 どう見ても書類は終わりそうになかったが、少しくらい休憩させても誰も文句は言わないだろう。常とは逆に保護者のような気分になったが、それも悪くないとシルバーは人知れず笑った。
「死なれたりしたら、おれが困るだろ」
 背に毛布を被せつつ言うと、ワタルの口に微かに笑みが浮かんだようだった。



END
マリンブルーの檻


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