震える指は | ナノ



 カントーとジョウトの間に位置するポケモンリーグ本部の周り、美しく作られた花壇には、この時期紫陽花が咲いている。関係者用の裏口に回るには花壇の間に作られた小道を行かねばならず、その日も通い慣れた道を通りワタルの執務室へと痩身を滑り込ませたシルバーだったが、しかしそこにいたのは見知らぬ男だった。
「誰だ、小僧」
 勝手知ったる廊下を歩いた奥、部屋のドアを開けて室内に入った途端に中にいたその男からきつい声音で問われ、挙げ句にフライゴンの鋭利な羽を首元に突き付けられ、シルバーは面喰って目を見開いた。
 抗議の声を上げる事も忘れてシルバーは男を見つめる。男は白鬚を蓄え初老の域に入ってる風貌を持っており、黒地に金縁の豪奢な造りの上着を羽織っていた。咄嗟に記憶を辿るも見覚えがなく、じっと黙ったままのシルバーに痺れを切らしたのか男はもう一度誰だと問うた。
「お前こそ、誰だよ。ワタル、は?」
 フライゴンを嗾けつつ高い上背から自分を見下ろす男は見えぬオーラを放っているようでシルバーは言い知れぬ恐怖を抱いたが、それを表に出すのは意図するところではなく敢えて平静を気取って問い返す。
 きっ、と上目で男を見返し腰のモンスターボールに手を伸ばしたシルバーを男は暫く観察していたが、やがて軽く手を上げてフライゴンを己の傍に戻すとふと口元を弛めた。しかしそれは純粋な笑みではなく、相手を挑発する類のものに似ている。
「ワタルをそう気安く呼ぶという事は、部外者という訳では無さそうだな」
 シルバーの問いには答えずそう言った男は片手でドアノブを握ったまま立ち尽くすシルバーを室内へと手招いた。その様は子供を扱う仕草に似ていたためにシルバーは眉根を寄せる。自分がまだまだ子供だという事は自覚していたが、あからさまな子供扱いは好まないのだ。
「小僧、いつまで其処にいる気だ?」
 シルバーの心境を知ってか知らずか男は重ねて言う。いつもシルバーが座って執務をするワタルの姿を眺めたり、本を読んでいたりとしているソファに深く腰掛けた男は未だ口許に笑みを刻んでおり酷く癇に障った。
「小僧じゃない、シルバーだ」
 男に気押され知らずと強く掴んでいたドアノブを手放し、ソファの体面に位置する一人掛けのイス――常ならばワタルが好んで使っているものだ――の肘置きに体を凭れさせ、シルバーは男を睨む。男はほう、と笑みを深くしシルバーの名を二回繰り返した。
「わしを知らんのか」
「知るかよ。だから誰だって聞いたんだろ」
 誘導のように名を言わされてしまったことにシルバーは眉間のしわを深くしたが、それは男の笑みを誘うだけだった。
 居丈高な口調に反発を繰り返すシルバーの視線は男から離れない。否、離す事を許されていないのだと気付かされてしまい、シルバーは内心慄いた。ワタルはいない。震えそうになる体を叱咤し何があっても良いように手を腰に伸ばしかけた所で、金属の擦れる音と共に先刻シルバーが入ってきたドアが開かれた。
「ゲンジさん、お待たせし…、シルバー君?」
 ドアから姿を見せたのはこの部屋の主であるワタルだった。ワタルはソファに座る男を見た後にシルバーに気付き瞠目する。そして己の居なかった部屋を支配していた張りつめた空気を感じ取ったらしく、苦笑の表情を作るとそれを男へと向けた。
「彼を試していたんですか、貴方はそういうところで意地が悪い」
 ワタルが言うと男はシルバーに向けていた挑発的な笑みを引っ込め、何事も無かったかのような真顔に戻る。男の表情は乏しかったが、決して悪人の気配ではなかった。寧ろ男の纏う空気はポケモンとの信頼を築きあげた者特有の強者然としたもので、その差にシルバーは驚き、男から逃げるようにワタルの元へと向かいマントを掴んで後ろへと回った。
 己を盾にし、完全に男を警戒してしまったシルバーの頭を何度か撫で、ワタルは男へと呆れた視線を向ける。
「怖がらせてしまったようだな。しかしワタルが来る前とは随分と態度が違う」
 男の出すプレッシャーに負けじときつい視線を絡ませ続けていた先刻からは考えられない、ワタルに甘えるシルバーを見て男は目を細める。
 シルバーにとってワタルの背に縋ったのは半ば無意識の行動であったため羞恥から来る憤りに頬を染めて慌ててワタルから離れようとしたが、それはワタルが許さなかった。
 ワタルはシルバーの肩を抱き、そっと髪を撫でる。
「傍にいて欲しいな」
 シルバーの行動がが無意識であろうとなかろうと、助けを求めてワタルに縋ったのは事実だ。しかし、だからといって傍にいていいよと言えばシルバーの性格上突っぱねてしまう事だろうとワタルは考えた。故に敢えてこちらの願いなのだと言うと、シルバーはじっと黙りこみながらももう、ワタルから離れようとはしなかった。


「わしはゲンジという。ドラゴン使いのホウエン四天王だ」
 改めてそう名乗った男――ゲンジをまじまじと眺め、シルバーは隣のワタルを仰ぎ見た。
 先とは違い、ゲンジは椅子に、ワタルとシルバーはソファに腰を降ろしている。ドラゴン使い、その単語に反応したと悟ったワタルはシルバーに頷いて返した。
「彼はフスベの出身ではないけれど、リーグに所属しているから面識があるんだ。立場 上は俺が上だけれど、トレーナーとしてもドラゴン使いとしても、彼の方が目上だよ」
ワタルの補足を聞き、シルバーはそういえば敬語を使っていたと思い出し目を瞬かせた。
ワタルの言葉を脳内で反芻して記憶しようとしたシルバーだったが、引っかかりを覚えて首を傾げる。
 ワタルは上、ではなく目上といった。トレーナーとしても、ドラゴン使いとしても。しかし、実力については触れていない。それ以前に、そもそも目上と上は言葉の意味合いがと異なるだろう。
 竜王と称されるワタルのプライドなのか、それとも深い意味はない発言なのかこの場で追及する気はなかったが、恐らく前者だろうとシルバーは考えた。ワタルはきっと、トレーナー歴にどれだけの差があろうとゲンジに負ける気は更々ないのだろう。小さく笑ったシルバーを見てワタルはどうしたのかと顔を覗き込んできたが、シルバーはなんでもないと首を振り、ゲンジに視線を遣った。
「此処へと入れるという事は、ただのトレーナーではあるまい?」
 シルバーの視線を受けたゲンジは、服の中から取り出したパイプに火を付けつつワタルとシルバーを交互に見遣りそう問いかけた。シルバーはワタルと懇意になってより、リーグの裏口から入りこの部屋へと訪れることを繰り返しているため気にしていなかったが、本来一般トレーナーが立ち入れる場所ではないのだ。リーグ関係者ではないために疑問を抱かれるのは当然の事だったが、それはシルバーには予期せぬ質問であり、咄嗟に言葉が出ず視線を彷徨わせた。
 助けを求めて傍らのワタルを仰ぎ見ても、ワタルは笑ってシルバーの髪を撫でるばかりで口を開こうとはしない。
「…ワタルの気に入りのトレーナーと言ったところか。それにしては贔屓が過ぎる気もするがな」
 ゲンジは、うろたえ遂には下を向いてしまったシルバーを見て、深く追求することを止めたようだった。ほう、と一息吐いたシルバーは頭を数度振って髪を弄ぶワタルの手を外すとそのままソファをも立つ。行き場をなくした手を所在なく膝に降ろし、ワタルは顔ごとシルバーの行動を追った。
 ゲンジがただお喋りをするためだけにリーグ本部まで来たとは思えず、また、あの場にいてもゲンジに詰問され続けるだろうと踏んでの行動だったが、ワタルは気にもしていなかったらしい。この場にいても良いのだと首を傾げられたが、シルバーは目線でそれを辞退する意を伝えて執務室のドアを開けた。
「仕事なんだろ、だったらおれは居づらいし…。外に、いるから」
 退室の際ちらとゲンジを見ると、予想外にもゲンジはシルバーに視線の先を合わせていた。


 リーグを使用するものが共通で使える談話室やレストランに行っても良かったが、そういう気にはなれずにシルバーは一人、傘を手に数十分前に通った花壇をゆっくりと歩いていた。
 胸を占めるのはワタルではなく、ゲンジと名乗った男。トキワに住んでいた幼い頃は、グレンのカツラやセキチクのキョウとも話したことこそなかったが面識はあった。
 けれどトキワを離れてからというもの、そういえばワタル以上に年齢が離れた人物と接触する機会がなかった気がする。もう一度ゲンジの姿を脳裏に思い描いて、シルバーは目の前の紫陽花の葉を意味も無くつついた。
 ゲンジに何をされたという訳では無いが、強者の圧倒感に呑まれていたという事実が悔しくシルバーは小さく舌を打ち水溜りを蹴った。
 それに、ゲンジは明らかにシルバーがワタルの元にいる事を訝しんでいた。探るような眼つきを思い出して二度、三度と水を蹴って靴を濡らす。疑問に思われた理由は、ゲンジがシルバーのトレーナーとしての腕を見抜いたからなのだと分かっていた。ワタルとまるで釣り合わない、決してゲンジはそういう素振りを見せなかったが、そう思われたのだろう。
 強くなりたい、ゲンジに中てられたのが一番の原因ではなかったが、シルバーはそう思ってしゃがみ込んで膝を抱えた。己の見ている世界は小さいものなのだと最近気付いたのだ。狭く、自分で壁を作って見ていた世界には、まだまだ知らない事がたくさんある。
 ゲンジはホウエンから来たと言っていた。シルバーはホウエンを直接見たことがない。ホウエンどころかシンオウも、そしてカントーもジョウトも口で言えるほどに見聞したかと言われれば首を横に振るしかなかった。
「…強くなりたい」
 腰につけたボールをぎゅうと握り口に出して呟くと、益々その想いが膨れてシルバーは泣きたくなって膝に顔を埋める。
 透明な傘を叩く雨が耳に煩く、苛つきを紛らわすべくワタルの執務室を仰ぐと、窓からは誰の姿も見る事は出来なかった。



END
震える指は何を掴むのだろう


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