アリス、帰ってきてよ | ナノ




 ここ数日しとしとと降り注ぐ雨が止まず、湿気と暑さからくる寝苦しさでルビーは寝付けないでいた。
 冷房をかけてしまおうかと何度も思ったが、この時期にはまだ早いと父親であるセンリから言い渡されているためにそうもいかない。自分だって寝苦しいくせに、とルビーは隣に位置する両親の寝室を睨みつけ、また一つ寝返りを打った。
 もう何回目になるだろうか、熱いと思っては体勢を変え、体がじっとりと湿気に濡れる不快さに眉をしかめては反対を向く。そうしているうちに枕元の時計は二時を指してしまっていた。ベッドに入ってからもう四時間が経っている。
 体は眠いというのに眠れない現状に、ルビーは苛々を通り越して悲しさを覚えていた。辺りに明かりがなく、ポケモンの声も聞こえない時分だからだろうか、意味も無く泣きたくなる。
「…だめだ、寝れない」
 そう口に出すと益々眠れなくなってしまい、涙は全く出ていないが泣きそうな時と同じような胸の内の遣る瀬無さに思わず目元を擦る。ベッドの上で体を起こし布団を見つめていると、ぽん、という微かな音と共にラグラージ――ZUZUがボールから姿を現した。
「ZUZU?…キミも眠れないのかい?」
 真夜中という事を分かっているのだろう、ZUZUはルビーの問いかけに鳴き声ではなく頷きで答えるとそろりとベッドの傍へと近寄ってきた。おいで、と手を伸ばしたルビーに擦り寄り喉を鳴らしたZUZUは、ルビーの腰から下を覆う掛け布団に顔を押しつける。
 眠いが眠れないのは、ルビーだけではなかったようだ。
「ちょっとだけ、外に出ようか」
 項垂れるZUZUを見、ルビーは目を細めて悪戯を思いついた時のように笑った。外、と聞きZUZUの頭の鰭がピンと反応する。こんな雨の日にポケモンを外に出すことはルビーの性格上滅多にない事だったが、眠れないまま部屋の中にいては余りにも気が滅入ってしまうと思ったのだ。
 毛並みが乱れてしまったら、また整えれば良い。気候と眠気にぼんやりとした頭でそう考え、ルビーはベッドから降りると窓を開けた。途端に部屋を満たす雨特有の湿気に眉を寄せる。しかし傍らのZUZUは水タイプだからだろうか、湿気を受けてどことなく嬉しそうにしており、ルビーはZUZUが喜ぶなら良いかと窓枠に足をかけた。幸いにしてホウエンを揺るがした事件が起きる前に部屋を抜け出した時に使ったロープは手元にある。
 以前と同じように音を立てぬようロープを使い二階の部屋から地へと降りたルビーだったが、地へと足を着いた時に水と泥の感触をまじまじと感じて天を仰いだ。
「Amazing…、ボクとしたことが…」
 思考能力が鈍っている頭は、裸足である事を見事に忘れさせてくれていた。しかし幾ら靴をはいていようとも、雨を凌ぐものを持っていないためにパジャマ代わりに着ていたTシャツもズボンも濡れてしまっているのだ。今更どうしようもない事だと早々に諦めたルビーは、己の後に続いてロープを降りてくるZUZUを待った。濡れた土を踏む足の裏も、慣れてくれば心地が良い。暑さに負けていた体が、全身雨に打たれることで冷やされていく。
「こういうのも、何だか楽しいかも。ね、ZUZU」
 ロープを降り切り足で水溜りを叩き遊んでいるZUZUに笑いかけると、小さな鳴き声が返ってきた。お互い声を潜めて、こんな夜中に外に出ている。まるで秘密の場所を探検しているような心地になり、ルビーはZUZUの背を軽く叩くと家の周りを歩き始めた。
 普段これ以上ない位に見慣れている自分の家も、夜中に見るとまるで新しいものに見えてくる。玄関の前に立ち、じっと家を見つめていたルビーだったが、ふとZUZUにつつかれ首を傾げた。
 ZUZUに視線を移せば右方を示し、どこか怯えた素振りを見せている。右方には、家の裏口があった。
 もしや泥棒でもいるのでは、若しくは危険なポケモンか――ZUZUの様を見てそう身構えたルビーが家の外壁に張り付きながら恐る恐る裏口の方を覗き見ようと角から頭を覗かせる。
 と、急にその頭を掴まれると同時に口も塞がれ、ルビーは眼を見開いた。
 裏口には一切の明かりがないため、薄明かりの中にいたルビーには己に起きている状況を把握することが出来ない。突然の事にパニックに陥り裸足の足を振り上げ己を拘束する存在を幾度か蹴ったところで、その存在が知った気配、それはもう恐ろしいオーラを放っていることに気付き抵抗を止めた。
「…む、うう……!?」
 漸く暗闇に慣れた目で上を仰ぎ見ると、そこには額に青筋を乗せたルビーの父であるセンリの姿があった。片手でルビーの頭を掴み、他方では口を塞いでいる。
 薄ぼんやりとした視界の中でもセンリが怒りの眼光を向けていることが分かり、ルビーは顔色を青へと変える。行儀や規則に厳しいセンリのことだ、夜中に出歩いていたルビーに腹を立てていることは想像に難くない。
 しかもルビーは泥まみれの足でセンリを蹴ってしまったのだ、完全に自分に非がある状況にルビーはどうする事も出来ずただセンリを見つめていた。
 センリはルビーから厳しい視線を離さないまま、口を戒めていた手を退けるとそれを上へと掲げる。殴られるものと思いぎゅうと目を瞑り衝撃に備えたルビーだったが、腕を振り下ろす風を切る音が聞こえず更にセンリの溜息が降ってきたのを聞き目を開ける。ルビーの視線の先で、センリは額に手を当て深々と溜息を吐いていた。

 ルビーがセンリの行動に戸惑っている中、センリは拘束の手を解き、ルビーの部屋から持ってきたのだろうボールにZUZUを納める。ボールに吸い込まれる瞬間ZUZUはルビーに申し訳なさそうな視線を送っており、ルビーはそれに苦笑で応えた。
 後で、慰めないと。ルビーは頭の片隅でそう考えながら、怒りの気配は若干ではあるが薄れたものの一言も発しないセンリを窺い見て眉を提げる。
「…ごめんなさい」
 唇から洩れた謝罪は自分でも驚くほど情けない声色で、怒られるであろう恐怖と己の行動への後悔とに胸を突かれルビーは項垂れた。そんな実子を見てセンリは再度溜息を吐く。それは己を落ち着かせるためのものだったが、ルビーは怒られているのだと考え体を縮こまらせた。雨に濡れた髪や顔から絶えず水が滴っている。普段は跳ねている頭頂部の髪も力を無くしており、センリはそこへと手を伸ばすとルビーの頭を数度撫ぜた。それは撫でるというよりは叩くに近い行為だったが、ルビーは驚いた表情でセンリを見んと顔を上げる。
「お前はどうやって家に戻るつもりだったんだ」
 センリとて言いたい事は多々あったが、それだけを言うとルビーははたと動きを止め、困り顔をした。確かに降りるのは簡単だが、登るには難しい。それを失念していたルビーはうう、と小さく呻き再度謝罪を口に乗せた。しかし暫く視線を泳がせるとセンリを見つめ先刻とは種の違った困惑顔を作る。
「じゃあ、父さんはボクを家に入れるためにわざわざ来てくれたんですか?」
「そうだ」
 怖々と口にした問いに、センリは間発入れず答える。澱み無い答えにそれが本当のことであると知り、益々ルビーは困惑した。センリの性格上、こんな事をしたルビーを一晩外に放っておく位の事はしそうだったからだ。
 なぜ、と口にすることも出来ずにいる、己を見つめるルビーの頭に置いていた手を下に降ろしながらセンリは口元に微かな笑みを乗せた。
 それはほんの微かなものであったし、センリ自身も無意識であったために何と思う事も無かったが、それを受けたルビーは面喰っておろおろとうろたえる。ルビーは混乱する頭の中で父親に笑みを向けられた記憶を探し、ここ数年は全くなかったことであると再確認した。何を考えているのか分からないセンリをただ呆然と見つめるしかない。そんなルビーを気にするでもなくセンリは口を開いた。
「我が子に好んで風邪を引かせたがる親などいるものか」
 センリの口からその言葉が出たという事を頭が認識した時、ルビーは咄嗟に目の前のセンリに抱きついた。腰から背に腕を回し、ぎゅうぎゅうと力を込める。顔を胸に押しつけた事でセンリの匂いを嗅ぎ、成長してからというものしたことがない父親に甘えるということに対する恥ずかしさに苛まれたが、それでも驚愕と嬉しさが胸に込み上げ腕を解く気にはなれなかった。
 センリもルビーを咎めようとはしない。その腕がルビーを抱くことはなかったが、それでも甘える事を許されているのだという事実がルビーには嬉しさを与えていた。
「ボク、嬉しいです。まさか父さんが心配してくれると思わなくて」
 思うままに告げてルビーはセンリを見上げる。暗闇に加え逆光のせいでセンリの表情は分からなかった。

 センリは暫く沈黙し、やがてルビーを纏わりつかせたまま裏口のドアを開いた。入れという事なのだろう、ルビーも素直に従いセンリから離れて屋内に入る。そこにはタオルが数枚用意されていて、ルビーはまた嬉しくなった。
 蛍光灯の元で見ると泥と水とで悲惨な状況のルビーに眉を寄せ、早く拭けと命ずるセンリが手ずから用意したものなのだろう。粗方汚れを拭き取りルビーはセンリに礼を述べてバスルームに入っていく。
 煩くならないよう細く湯を出してシャワーを浴び、そして脱衣所を出るとそこにはまだセンリがおり、ルビーは首を傾げた。待っていたのだという事は分かるが、理由が見当たらなかったのだ。シャワーを使いたいのだろうかと考えたが、センリは泥で汚れた服を既に着替えてしまっていた。
「父さん?」
 呼びかけると珈琲を飲んでいたらしく手にカップを持ったセンリはそれを流しへと置き、ルビーに歩み寄りその手にZUZUのボールを落とす。ボールを渡すために待っていたのだろうかと再度ルビーが首を捻ると、センリは寝室のある二階へと続く階段を昇り始めた。ルビーは慌てて後を追う。
「眠れなかったのか」
 階段を上りきりその脇にある両親の寝室の前に来、センリがそのドアノブに手をかけつつルビーに声をかけた。センリはルビーを向いてはいなかったが、明らかに自分に掛けられた問いに首を縦に振る。
「暑いし、目が冴えて…」
 ルビーが小さな声で答えるとセンリは顎に手を当てて何事か考えているようだった。自室に帰るにも帰れずルビーはセンリの背中を見つめ続ける。やがて自分の中で答えを出したらしいセンリは、ルビーに向きなおるとルビーよりも先にルビーの部屋のドアを開け、中へと入っていった。
「え、ちょっと、父さん?」
 そのままセンリが寝室に入るものだと思っていたルビーは驚いて慌てて後を追う。センリはルビーのデスクの前に置かれていた椅子を引っ張り出し、ベッドの傍へと据えた。
「早く寝ろ」
 そのまま椅子に腰を下ろしたセンリを見てルビーは困惑する。どうやらセンリはルビーが寝付くまで傍にいるつもりらしいが、何しろセンリがそんな事をするのは初めてなのだ。父親の見慣れぬ姿に立ち尽くすルビーに焦れたのだろう、センリは鋭い眼光をルビーに向け寝るように促した。
 この状態の父親に何を言っても無駄だろうと諦め、ルビーは大人しくベッドに潜りこんだ。熱気と湿気は相変わらずルビーを蝕んだが、先刻よりは幾らかましのように思え目を閉じる。閉ざした視界の先でもセンリが自分に視線を据えているのが分かり、ルビーは意趣返しになるだろうかと手を伸ばして手探りでセンリの服の裾を握った。
 普段ならばこんな甘ったれた事は絶対にしないが、眠気もあり自制が緩んでいるらしい。それに、今ならセンリも咎めないだろうという自信があったのだ。現にセンリは何も言わずルビーの好きにさせている。
 服から微かにセンリの体温が伝わり、それはとろとろとルビーの眠気を誘う。やがて呼気が落ち着き寝息を立て始めても、ルビーはセンリの服を離さなかった。

 朝目が覚めたルビーが、一晩中センリに椅子に座った体勢を強いていた事に気付き蒼白になるのはまた別の話である。



END
アリス、かえってきてよ


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