息継ぎで構成する | ナノ


 竜の穴で修業をしていたシルバーの元へ、その知らせが届いたのは昼下がりのことだった。 

 最近ワタルは机上の執務が忙しく、シルバーの相手どころかワタル自身の手持ちとすら触れ合えていない。
 基本的に規則正しい生活をするようになったシルバーが朝陽に目覚める前から机について書類と顔を突き合わせ、日が暮れてシルバーが眠い目を擦る時分になっても、ワタルは難しい顔をしてライブキャスターに向かっている。
 顔に色濃く疲労が浮かんでいるのは傍から見ても明らかだったが、ワタルは泣き言は決して言わなかった。ただ、口数が異様に減っていたな、とシルバーは考える。それは、ふと口をついてしまいそうな弱音を漏らさないためのものだったのではないか。
 必要最低限の会話はするものの、文字通り仕事に忙殺される日々に、心身共に削られていたのだろう。何がそれ程忙しいのかシルバーには知る由も――シルバー自身ワタルを慮って聞こうとしなかったのもあるが――なかった、その矢先のことである。
 人工的な明かりなどなく、手持ちにフラッシュを焚いてもらって漸く辺りが見回せる洞窟の中、ドンカラスがシルバー目掛け一直線に飛んできたのだ。
 竜の穴には、ドンカラスどころか飛行タイプのポケモンすら生息していない。場にそぐわぬポケモンにシルバーは戸惑ったが、妙に懐っこいドンカラスを見、そしてその足に括り付けてある紙片を見て、これはもしやカリンの手持ちではないかと予想を立てた。
 果たしてそれは正解であったらしく、ドンカラスはカリンの名をシルバーが口にした途端にばさばさと羽をはばたかせ、手紙を取るよう促した。
 ライブキャスターという通信手段があるというのに、伝書鳩じみた行為を訝しみながら折り畳まれた手紙を解いたシルバーだったが、その表情はすぐに驚愕へ、そして不快感を顕著にしたものへと変わる。

――『ワタルが倒れたわ。出来ればすぐに戻ってきて頂戴』

 書き殴った走り書きの文字は、シルバーの眉間に深く皺を刻むに余りあるものだった。

 洞窟内の水辺にて、水タイプの技の強化を図っていたオーダイルを呼び戻し、シルバーはセキエイリーグへの帰路を急いでいた。
 空を飛べる手持ちの背の上でライブキャスターを開いてみると、不在着信を知らせる通知がたった今届いたようだった。メール機能もついたライブキャスターは便利ではあるが、竜の穴の中では圏外になってしまう。カリンもそれに気付き、手紙を寄越したのだろう。その気転に感謝を覚えながら、しかしシルバーの思考はすぐにワタルへの怒りで覆い尽くされた。
 人の心配ばかりするくせに、そう唇だけで文句を吐き、シルバーは溜息を吐く。
 ワタルの傍にいるようになって久しいが、これまでワタルが倒れるなどといったことは一度たりとてなかった。常に模範であらねばと、体調にも気を使っているワタルらしからぬ失態に、リーグも慌てていることだろう。
 そう考えながら眼前に見えてきたリーグの荘厳な建物を険しい表情で見つめるシルバーの目に、たった今そこから飛び立たんとしている鮮やかな緑色が映る。
 それが何者であるか確認し、それ――ネイティオが空へと浮かび上がる前にそこへと手持ちを急がせると、ネイティオの背にはイツキがおり、シルバーを見付け苦笑した。
「今、呼びに行こうかと思っていたんだけど……、早かったね。ワタルさんは医務室だよ、全く心配させるなって、君からも怒ってあげてよ」
 イツキは仮面の奥で困ったように笑い、医務室の方角を指差しながらシルバーを促した。ワタルと懇意であるシルバーを呼びに行こうとしたにしろ、チャンピオンを補佐する立場の四天王であるイツキがリーグを離れられるのならば、ワタルはそこまで重症でもないらしい。ただ、未だ医務室というのであれば軽微なものでもないだろう。
 眉間の皺を隠そうともせず、むっつりと押し黙ったままのシルバーを見、イツキは喉奥でくつくつと笑った。ワタルへの怒りと、心配と、その他の様々な感情が綯交ぜになっているシルバーの胸の内など、このエスパー使いには手に取るように分かってしまうらしい。そのイツキの態度も今はシルバーの癇に障ってしまっていたが、それはどうにか黙殺し、シルバーは御座なりな礼をイツキに返してリーグの裏手に回ると足音荒く廊下を歩き始めた。
 その背を見送りながら、イツキはネイティオと顔を見合わせ、笑みを深める。
 イツキとて、ワタルを心配していないわけではない。実際、ワタルが倒れた現場に居合わせたのはイツキなのだ。
 本部から次々と回されてくる書類の内、イツキを始めとする四天王で捌いてしまえるものも多かったが、それ以上に、チャンピオンであるワタルの確認、承認が必要なものも多かった。
 己に振られた書類を粗方片付け、それでは後は、とワタルの執務室に持って行ったその場で、書類を受け取ろうと椅子から立ち上がったワタルが床へと崩れ落ちたのだ。
 長い起毛の絨毯に散った赤い髪にぎょっとしつつも、長い間座ったままの体勢でいたため、立ち眩みを起こしたのだろうと予想をつけ苦笑でもってワタルへと手を差し出したが、ワタルは起き上がらなかった。それどころか、倒れたまま身動ぎ一つしない。
 それは時間にしてみればたったの十数秒であったが、イツキは背筋が凍る程驚き、恐怖した。職場を共にし、ワタルとて人間であることは分かっているというのに、イツキは、否、イツキだけでなくワタルを知る者は、ワタルを絶対的な存在だと思い過ぎていた。あのシバですら、ワタルが倒れたと報告した時には目を向き報告したイツキの言を疑ったのだ。
 震える手を叱咤しつつ、サーナイトを呼びワタルの体を起こし、イツキは緊急用の電話でリーグ医務室へと助けを求め――その結果、ワタルは数日間の安静を与儀なくされることとなった。


 人目を憚らず、ずんずんと医務室へと廊下を歩んでいたシルバーであったが、さすがに目的地が近付くにつれ、その歩は静かになっていった。
 医務室にいるのは決してワタルだけではない。勿論チャンピオンであるワタルは廊下の音が顕著に聞こえる一般の病室にはいないだろうが、それ以前にここは病院に似た機能を持っているのだ。病院といった場で騒音を立てることを理性と常識が諌め、シルバーはゆっくりとイツキに教えられたワタルの病室へと向かった。

 特別病室は、医務室の更に先の、長めの廊下の奥にあった。リーグの重役や役職者が利用する為、警備も厳重であるらしい。シルバーは、シルバーが持つ特別なトレーナーカードの為に簡単にゲートを通り過ぎることが出来たが、一般のトレーナーであれば瞬く間に警備員が来るだろう。
 清潔感のある真っ白な壁を見ながら、まるで隔離されているようだと嫌な想像を掻き立てられ、しかし強ちそれが間違っていないことにも気付き、シルバーは三度眉根を寄せる。
 二つ目のゲートを通り過ぎた先、漸く見えたワタルの名が記したプレートの下がった病室の扉の前で、シルバーは小さく深呼吸をし、恐る恐る引き戸に手をかけた。
 気付けば、知らせを受けた時に覚えたワタルへの怒りはすっかりなりを収めている。それは病院の雰囲気がそうさせたのかもしれないが、今シルバーの胸中にあるのは、ただワタルを案ずる思いだけだった。
 もし寝ているとしたら、起こしてしまってはいけないと無意識に息すら殺しながら病室の中を覗いたシルバーの目に、白い枕に映える鮮やかな赤が映る。
「………」
 広い病室にぽつんと置かれたベッドの上に、ワタルは身を横たえていた。その瞳は閉じられ、布団の掛けられた腹部がゆっくりと上下している。
 開けた時と同様、音を立てぬよう慎重に扉を閉めたシルバーは、枕元へと立ちワタルの顔を覗き込んだ。
 ここ何日かくっきりと目の下に浮かんでいた隈は、その濃さを増しているように思える。肌は乾燥気味で、少し、やつれているかも知れない。ワタルは偉丈夫であったが、いくらそうであったとはいえ、その両肩に伸し掛かる様々は重圧はシルバーには到底推し量れないものだ。
 しかし、ワタルはそれを何でもないような顔で支え切ってしまう。それがワタルがポケモンリーグ本部の二つのリーグチャンピオンたる所以でもあったが、だからこそ、周囲はそれに甘えてしまっている。
「………、馬鹿か」
 シルバーの口をついて零れ落ちたその言葉は、シルバー自身ですら誰に向けたものか分からなかった。それはごく小さな音であったが、空気が震え音が耳を打ったのだろう、ワタルは薄らと瞼を上げ、そして数度瞬いた。
 髪に黒い絵の具を混ぜた色をした瞳が周囲を見回し、次いでシルバーを捉える。
「シルバー君? ああ…心配掛けてしまったかな、ごめん」
 半日ぶりに聞くワタルの声は、思ったよりもしっかりしていた。無理をしている様子もなく、シルバーはほっと息を吐き、行儀が悪いかと頭の片隅で思いながらもベッドの端に腰かけた。ワタルの胸の横、その体にかかっている布団の上に座ったのは、ワタルが体を起こそうとするのを留めるためだ。
「………、…」
 シルバーの思惑に気付いたかどうかは分からないが、ワタルは困ったように眉根を下げ、大人しく身を横たえている。ワタルの手の届く位置に下げられた、壁へと繋がるナースコールが薄ら寒く、シルバーは掛ける言葉を探しあぐね、ワタルから視線を逸らした。
「…そう、大事ではないそうだよ。ただの疲れと、睡眠不足から来る貧血、だったかな。何だか恥ずかしいな、こんな大袈裟に寝かされて」
 しっかり寝ろ、そして手軽に摂れるビタミン剤ばかりでなく食事をしろ、それはいつだったかワタルがシルバーに説教をしたことだ。それが不意にシルバーの脳裏を過り、そしてそれはワタルも同じであったのか、どこか気まずそうな口調が症状を語る。
 病室への道程の中、ワタルに言いたいことが多々頭を巡っていたが、今それは何一つとしてシルバーの口から出ては来なかった。
 代わりに足元から這い上がるような不安と、相対して力が抜けるような安堵感に、シルバーは己が思っていた以上にワタルを案じていたのだと知る。
 説教は、恐らくシルバーがここを訪れる前に、ワタルを見舞っていたであろう四天王の面々から嫌という程言われたに違いない。こうやってワタルが不本意そうな顔をしながらも、大人しく寝ているのがその証拠だ。
 シルバーはわざとらしく大きな息を吐いて見せ、そして手を伸ばしてワタルの髪に触れた。普段ワックスで固めている髪は今は額へと落ち、その艶も少し失っている。
「…シルバー君?」
 その行動が思いもよらなかったのだろう、ワタルはシルバーからの罵声の一つや二つも思い描いていたのかもしれない、珍しくもぽかんとした顔でシルバーを見上げるその顔は、何だか可笑しかった。
「心配したに、決まってるだろ」
 シルバーの言にワタルは眉根を下げて笑い、布団に収めていた腕を出して、髪へと置かれたシルバーの指へと触れた。まるで“恋人同士”のような包み込むように握る手は気恥ずかしかったが、振り払う気にはなれない。
「すまなかったね」
 先刻までの気弱な表情はどこへやったのか、どこか満足げにシルバーの手を握るワタルを視界の端で見ながら、シルバーは果物などの見舞いの品を持ってくるべきだったのかと、取り留めもないことを考えていた。



END
息継ぎで構成する


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -