退化の安寧 | ナノ


 アクロマの日常は変わらない。睡魔に襲われるがままに眠りに就き、船に残った団員達が起床し辺りが騒がしくなれば自然と目が覚める。そして何をするでもなく船室か、ラボで日中を過ごし、訪問者があればバトルをして、また眠りに就く。
 全くと言っていい程に目的が無く、無為に日々を過ごしている。今後を決めあぐねているのだと公言してみても、それが言い訳に過ぎぬのだと誰よりもアクロマ自身が分かっていた。フリゲート内にある機械も、今となっては無用の長物であるためメンテナンスなどする必要はない。フリゲートに身を置く意味もない。
 やりたい事が無ければ、どこかの研究所にでも行き、そこで誰かの元に就き働いても良かった。選択肢は多々あるというのに未練がましくフリゲートに残っているのは何故なのか、アクロマは自分自身ことながら未だ理解が及ばない。それでも、今日もアクロマはフリゲートにて、悪戯に時間を過ごしている。

 船室の空気が籠ってきたのを感じ何とはなしに甲板に出てみると、空が重く灰色に淀み、今にも雨が降りそうであった。フリゲートが停泊している海辺に打ち寄せる波も荒く、元々急な海流は渦さえ巻かんとしている。
 雨だけでなく、嵐になるのだろうか。海にするポケモン達も海面近くに姿を現し、空模様を確認し慌てて海中深く潜っていくものもいる。そんな様子を観察していると、ふと一段と空が翳り、突風が吹いた。
「…アンタ、またここでぼーっとしてたのかよ」
 風に煽られた髪が眼鏡にかかり、視界が狭まる。反射的に目を閉じ、そして再度開いた時には、アクロマの目の前にはケンホロウとヒュウの姿があった。
 成程、翳りは鳥影であり、突風は羽ばたきによるものだったらしい。
 言葉こそ挑発的であったが、ヒュウの表情に悪意はなく、アクロマはヒュウの言を聞き流しつつ僅かにずれた眼鏡を直した。
 ヒュウを一瞥し船内へと入るよう促せば、素直にアクロマの後をついてくる。


 ヒュウがアクロマの元を訪れるのは、これで二回目だ。と言っても、アクロマはヒュウが何を思ってここへと足を運ぶのかを知らない。ヒュウから言い出さない限り知る必要はなく、そして根掘り葉掘り聞く程に興味が無かった。
 考える事を放棄しここに留まっている自分と、ヒュウとは然程変わらない気がしたのだ。
 先日と同じ様に珈琲を出すと、ヒュウは小さく礼を述べ、珈琲を口に運ぶ。先日は話す事を躊躇っていた、自分自身への怒りとやらを話しに来たのだろうと見当付け、わざとらしい程に椅子の軋む音を立てて深く腰掛けてやると、ヒュウは視線を珈琲に落として口を開いた。
 訥々と始まったそれは、旅についてであるらしい。まだ記憶に新しい夏の初めに、ヒュウと、そして年下の幼馴染は旅に出た。パートナーとなるポケモンを伴い街の外に出た第一歩、幼馴染の希望に満ち溢れた顔は自分にも経験があった。
 だが、ヒュウはその幼馴染の旅を、何もかも縛ってしまったのだ。幼馴染と共に我武者羅にプラズマ団を追っている時は微塵も思い及ばなかった後悔が、今になってヒュウの胸を埋め尽くしていると言う。
 旅の初めに『オレをサポートしろ』と言い、プラズマ団の出現情報が出れば『一緒に倒しに行こう』と言い、まるでプラズマ団を追い、奪われた妹のチョロネコを取り戻し、ついでにプラズマ団を壊滅させるのが“幼馴染の目的”であるように錯覚していた。
 明るく溌剌とした幼馴染は、ヒュウに対し何の文句も言わなかったし、そもそも自分がプラズマ団を壊滅させた事は、当然だと思っているだろう。
「おかしいだろ、プラズマ団を追うのはオレの旅の目的であって、アイツはそんな面倒な、悪事に関わる事無く普通のトレーナーとして旅が出来た。それを、オレはいの一番からあいつの選択肢を奪っちまったッ! あれはアイツの旅じゃなかった、あれは、オレのッ…!」
 話を続けるにつれヒュウの感情は逆立ち、無意識に握りしめられた拳にも力が込められていく。爪が掌を抉っても、その痛みさえ怒りに変わっていくようだった。
 年齢にそぐわぬ自責に苛まれ、皮膚を破らんばかりにヒュウが唇を噛み締めたのを見、黙って話を聞いていたアクロマは漸く口を開いた。
 先日邂逅した時にも感じた、ヒュウへの評価の確信が出る。ヒュウがこれまで過ごしてきた環境から鑑みると仕方のない事かもしれなかったが、ヒュウは“兄”であり過ぎた。
 本人は気付いていないだろうが、ヒュウは酷く“我慢”をし、“納得”し、己の感情を昇華している。頼れる兄であろうと、懸命に努力している。
 アクロマは、それが気になった。元来のヒュウは、どのような人物だろうか。
「全ての事象に後悔は付き物です、悔やむのは大いに結構。ですが、アナタの言い分には一つ、間違いがあります」
 この話をする事により、ヒュウがアクロマにどの様な反応を求めていたかは、きっとヒュウ自身にも分かっていない。しかし、間違いだと断言されたヒュウの眉間に深く皺が寄り、どういうことだと俯かせていた顔を持ち上げた。
「アナタはその幼馴染の旅が、敷かれたレールに沿い、主体性に欠けたものだと仰る。しかし、わたくしから見ればアナタの旅も同様です。アナタの旅の目的は、ポケモンを奪還する事だとお聞きしました。では、そのポケモンが奪われていなかったら? アナタの前にも幾つもの選択肢があったに違いない」
「それをお前が言うのかよッ!!」
 今のヒュウに言うには聊か説得力に欠けるかと思ったが、ヒュウの話を聞き、要らぬ後悔だと感じたままにアクロマは言葉を紡ぐ。
 時折P2ラボを訪れるその“幼馴染”は己の旅に全く後悔も疑問も抱いておらず、寧ろ誇らしげに旅の成果を語るのだ。本人が納得し満足しているものに対し、第三者がとやかく言い、本人になったかのように悩み、苦悩するのは愚の骨頂だ。
 続けてヒュウにも分かり易くそう伝えようとした矢先、ヒュウが拳を強く机に打ちつけ激高した。親の仇の如くアクロマを睨みつけ、拳は怒りで震えている。弾みで椅子から腰を浮かせた際、コーヒーカップが震動で机から転げ落ち、かしゃんと悲鳴のような音を立てて床に砕ける。
「…そうでしたね、申し訳ありません」
 アクロマがプラズマ団とは目的を異にしていた事を、ヒュウは知っている。それでもプラズマフリゲートにその身を置き、幼馴染の敵になりバトルをした以上、ヒュウの中ではプラズマ団の人間に相違はないのだろう。その二つが綯い交ぜになり昂った感情を抑えきれず、ヒュウはアクロマに掴みかかった。
 ただ、掴みかかった、とは言えども机越しにアクロマの肩を掴んだ、その程度だ。
 ぜいぜいと肩で呼吸し己を落ち着かせんとするヒュウに、アクロマは静かに謝罪を述べた。
「謝ったって…どうしようもないだろ…」
「では、どうすればよろしいですか? どう償えば、アナタは納得するのでしょう」
 アクロマの肩の上で、ヒュウの掌が惨めな程に震えている。怒りと、悲しみと、そういった感情の発露が涙となりそうなのを、堪えているらしい。
“ここで幾ら怒鳴ろうとも、過去はどうしようも出来ない”――ヒュウの考えている事が、手に取るように分かってしまう。
 この少年はまた、我慢と納得を強いられている。
 ヒュウに対する感情が憐哀に傾き、アクロマが左肩で震えるヒュウの右手にそっと触れると、ヒュウは肩を跳ねさせ僅かに手を浮かせたが、引き戻そうとはしなかった。そのまま包み込むように手の甲から握ると、漸くヒュウの身体から力が抜ける。
 然程広くもない、一人用の机だ。糸が切れたように脱力したヒュウは、右手をアクロマに預けたまま椅子へと崩折れた。力無く項垂れたヒュウの目元は髪に隠れて濃く影が落ち、その表情を窺う事は出来ない。
「…カップを割ったこと、許してくれればいいにしてやるよ」
 泣くのを堪えた、か細く上擦った声だった。船室のドアの、細く開いた隙間から吹き込む風の強まった、悲鳴にも泣き声にも似た細い音に似ている。
 リノリウムの床は零れた珈琲を吸わず、荒波に船が揺られる度に、その範囲を広めていった。
 風の音が激しさを増しているのを見ると、外はもう嵐になってしまっているかもしれない。
 幾片にも割れてしまったコーヒーカップを一瞥し、アクロマは、眼前の少年が嵐のように感情を乱しきり、形成してしまっている“ヒュウ”という殻を割ってしまっても良いのではないかと考えていた。



END
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