進化の痛み | ナノ
試作品その1


 甲板で潮風に当たりながら、アクロマはじっ、と草叢で何やらそこに住む野生のポケモンと会話をしているらしいギギギアルを見詰めていた。
 先刻までは日課となっている観察の名目の元、ギギギアルを外に出していたのだが、今迄まるで飽きる事の無かったそれも、今日は唐突に然程興味が湧かなくなり、アクロマは船縁に頬杖をつきながら、ただぼんやりとギギギアルを眺めていた。
 何を話しているのだろうかと、躍起になってポケモンの意志を探ろうとした日々も今となっては懐かしい。何の意味もなさない回顧など柄ではなかったが、無意識に脳裏を巡ってしまうのだから仕方がない。そろそろ船内に戻ろうかと風に煽られ少しだけべたついた髪が乱れるのをかき上げ、草叢に向けていた目を何の気なしに急な海流へと向け――そこで、アクロマはおや、と僅かに唇を動かし声を漏らした。
 ダイケンキの背に乗り、こちらへと向かってくる人影がある。アクロマがその身を置いているプラズマフリゲートに、更に言うならば辺境の地にあるP2ラボへの来客すら珍しいというのに、その客人に見覚えがあるのだから尚更だ。
 否、寧ろアクロマがその少年を見付けたように、少年もアクロマを見付け、剣呑な眼つきをしたその人物であるからこそ、此処へと来訪したのか――。
 兎にも角にも、少年は決して海流に流され迷い込んだ訳ではなく、このプラズマフリゲートに用があるらしい。アクロマは神経質な手付きで再度髪を直し、甲板を離れその少年を出迎えるべく、ゆっくりと歩き出した。

 甲板から船の入口までそう歩かなかったが、少年がそこへと辿り着く方が僅かに早かったらしい。アクロマがタラップに着いた時には、行く先を決めあぐね、船に残ったプラズマ団員達は、それこそ見知った少年に色めき立ち、船に入れまいと躍起になっていた。
 退けよ、と少年が低く作った声に怖じ気づき、それでも少年を敵だと認識し虚勢を張る姿はいっそ感動さえ覚える。アクロマは暫くその光景を眺めていたが、どんなに揉めようとバトルを仕掛ける気はなさそうな少年を見、漸く事態に収拾を付けるべく団員の肩にそっと触れた。
「およしなさい、彼は客人ですよ」
 背後にアクロマがいるとは気付かなかったのだろう、極力驚かせぬようにとのアクロマの気遣いも無駄に、団員は大きく肩を跳ねさせ振り返る。そうした後、アクロマの発した言葉の意味を理解したのだろう、しかし、でも、と口の中でもごもごと呟きながらも団員の一人が道を開け、そうして次々に眉根を寄せつつも少年を受け入れる体制を取る。
「お久しぶりです、中へどうぞ」
「…いや、ここで良い、」
「中へお入りなさい」
 自ら訪いつつも、船室へと入る事を渋った少年は、アクロマが二たび言葉を重ねると、眉間に薄く皺を刻みつつもフリゲートへと足を踏み入れたのだった。


 招かれざる客とはいえ、一応持成すべき位置づけにいる以上茶の一杯でも出すべきかと思ったが、生憎アクロマに与えられていた部屋には珈琲しかなかった為に、少年に伺いを立てればそれで構わないと言う。
 アクロマはその反応に、好印象を抱いた。こちらは珈琲しかないと明言している、そして少年は曲がりなりにも客人である。客人を持成そうとしているこちらに、“わざとらしく”お構いなく、などど遠慮をする素振りを見せるのを、アクロマは好まなかった。少年がどう思っているかなどは知らないが、ただ日常に舞い込んできた“異質”に対応するだけだったアクロマに、少年への興味が生まれる。
 少し前――このプラズマフリゲートの持ち主がまだボスとして君臨していた時分に興味を持ったあの少年に話していた時と同様、棚に置かれたケトルに対面するアクロマの背後、椅子に座る少年に話しかけようとし、アクロマは開いた唇をそのまま閉じた。
 良く良く考えてみれば、少年の名前を知らなかった。さてどうしようかと思案しつつ、淹れたての珈琲を持ち少年と向き合えば、少年は僅かに口角を上げる。
「ビーカーとか、フラスコで出て来るかと思った」
 笑った、というよりは、嫌味を含ませた表情にアクロマが反応した事に気付いたのだろう、少年は素直にコーヒーマグを受け取りながらネタ明かしをする。
「ありきたりで、且つ非現実的な想像だとは思いませんか?」
「まあな」
 アクロマにとって珈琲は、水と変わらないただの水分でしかない。その香りを楽しむ事も、苦みをうま味と思う事もなくマグに口をつける。
 一方少年がマグを両掌で弄んでいるのは、果たして珈琲が苦手であったか、熱いのが苦手であったか、別の理由か。湯気をけぶる素振りをしながら、アクロマは目を細め、少しだけ好ましい少年を観察していた。

 珈琲を飲みつつ他愛のない話、という訳にもいかず、少年は暫くの後に口を開き、解散したプラズマ団はもうこれしか残っていないのかと問うた。
 少年曰く、“羽虫の様に湧いて出てきていた”団員が、僅か数名になっているのが気になるらしい。
「所詮虎の威を狩る狐、だろッ。ボスがいなきゃこんなもんなんだな」
 語気荒く肩を怒らせる少年は、挑発の意も込めているらしい。それに乗って逆に少年を言葉でやり込めてしまっても良かったが、アクロマは敢えて眉根を下げてみせ、そして、
「その前に、アナタのお名前をお聞きしても?」
 申し訳なさそうな声音を作れば、毛を逆立てる猫のようだった少年は一転し、呆れた顔を作った。
「…アンタ、あいつばっかだったもんな。オレは、ヒュウ」
 あいつ、はすぐに想像がついた。ヒュウと共にプラズマ団を壊滅に追い込んだ――寧ろ、ヒュウ“が”共にプラズマ団を壊滅させた少年だ。その少年はたまにP2ラボを訪れ、二言、三言アクロマと会話し、バトルをして去っていく。アクロマがプラズマ団のボスを演じている時には、ヒュウとは殆ど接触を取らなかったが、あの少年から聞いていたのだろう。
「ヒュウ、覚えておきます。それと、わたくしはプラズマ団に興味がないので、何を仰られてもどうしようも出来かねます」
 ヒュウ、その名を幾度か脳内で反芻しながら、アクロマは考えを巡らせていた。
 今後を決めあぐねているにしろ、敢えてプラズマフリゲートに残った以上、ヒュウのプラズマ団への怒りを受け止めるべきだったかと思ったのだ。それが自分の“役”であったかもしれない。
 少しだけたった今しがたの己の発言に訂正を入れようかと軽く息を吸い込んだところで、それよりも早くヒュウが口を開いた。
「そうか、」
 まるで、それじゃあ仕方ないな、と続きそうな声音だった。ヒュウとの直接の接触は少なかったとはいえ、ヒュウのプラズマ団への憎しみは知っている。それを、そうか、というたった三文字であっけなく収めてしまったヒュウの、心が読めなかった。
 開きかけていた口が無意識に動き、アクロマは考えるがままに喉を震わせる言葉を止められなかった。
「アナタはそれで良いのですか? 怒りは? 憎しみは? あるはずです、あれだけアナタを突き動かしていた感情が。わたくしの言葉に納得出来ない筈です、やり場がないと分かっていても、ぶつけたい筈です、それをアナタのような年齢の子供が、押し込められるとは思えません」
 突如捲くし立てるように喋り出したアクロマに驚く素振りを見せたヒュウは、一頻り話し終わりじっと己に視線を注ぐアクロマに苦笑した。それが諦めにも、切なげなそれにも見えてアクロマはふと、答えが自分の中に落ちてくるような心地に襲われた。アクロマが断片的に知るヒュウという人物は、ヒオウギ出身で、旅に出てまだ半年も経たない。パートナーはダイケンキ、そして、プラズマ団にチョロネコを奪われた妹がいる。――兄である。
 ヒュウはまだ、口を開かない。答えあぐねているのだろう、船室に静寂の帳が下りる。
「…、構いません、わたくしの中で答えが出ました」
 考え込む時の癖であるらしい、徐々に険しい表情になっていたヒュウは、アクロマの言葉に今度こそ苦笑した。
「アンタ、変な人だよな。…ホントは、プラズマ団はもういいんだよ。でもオレはアンタがいるって分かっててここに来た。オレが今怒りたいのはプラズマ団とかじゃなくて、オレなんだ」
 緩やかな苦笑を作っていたヒュウの口元が、言葉を続けるにつれ噛みしめられるのを、アクロマは止めなかった。歯と歯が擦れる音が聞こえてきそうな程に悔やみながらも、ヒュウはそれを話そうとはしない。他人に話して解決するのは、自分の中で潜在的にでも、答えがある時だけだ。決して解決しようのない事を他者に話したとて、それは負の連鎖を生む事しか作用しない。アクロマは、そしてヒュウも、それを分かっている。
「自分に怒るのは、とても難しい」
 自己愛はどうしようとも消せるものではない。痛みも、苦しみも、敢えて受けたいと思う者はほんの僅かで、それを回避したいのが普通だ。苦痛から逃れようとするのは人間の本能であり、誰にも責めることは出来ない。
 アクロマがそう言うと、ヒュウは俯けていた顔を上げて数度瞬いた。解決しないと分かっていても、誰かに話したいのも人間だ。
 アクロマを選んで話を切り出した以上、少なからず、ヒュウの怒りにアクロマが――プラズマ団が、関わっている。
 再度二人の間には沈黙が落ちたが、アクロマはそれを苦と思う事はなく、そして人間の持つ好奇心のままにヒュウの怒りに興味を持ちながらもそれを口に出す事はなく、珈琲を喉に流し込んでいた。
 ヒュウがP2ラボに来訪した時に丁度真上辺りに位置していた太陽が、ゆっくりと西に傾き始めている。



 ヒュウの手元にある珈琲はその半分も減っていなかったが、ヒュウはそろそろ帰ると言い、アクロマもそれを引き留める事はせずに見送りを申し出た。
 有意義な時間であったかと言われれば、明確な答えは出ない。ただ、“ヒュウ”という新たな情報を得る事が出来た点では、十分充実している。
「わたくしは未だ、決めかねています」
 ヒュウの来訪時にあれだけ騒いだ団員達は、全員船室に籠っているらしい。甲板には人影が見えず、落ちかけた陽光に煌くフリゲートは、どこか寂れた下町のような雰囲気であった。
 来た時と同じ様に波乗りで帰るらしく、ダイケンキをボールから出したヒュウに、アクロマはそう告げた。何を、とも言わなかったのは、ヒュウがそれを理解するのか、その上でどう行動するのかの選択肢をなるべく狭めたくなかったからだ。言葉と環境は、人を縛る。
 ヒュウはアクロマをじっと見た後に、踵を返してダイケンキの背に身を預けた。吊り目気味な瞳は、アクロマと視線を合わせる事に決してたじろがない。
 そのまま海流に乗りP2ラボから遠ざかりつつあるヒュウは、逡巡する素振りを見せ、そして上半身でアクロマを振り返った。
「またなッ」
 良く通る声に付随して、年相応にアクロマに別れの挨拶として手が振られる。軽く腕をひらめかせることでそれに応えつつ、ヒュウはポケモンを抜きに、興味深い存在だと考える。
 草叢で遊ばせたきり、長く放ってしまっていたギギギアルが主が戻ってきた事に気付き、抗議するかのように軽くその身をぶつけてくる。回転するギアの表面をそっと撫でてギギギアルを宥めながら、アクロマは遠ざかるヒュウの背をじっと見送っていた。



END
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