芍薬

お借りしています。
ヤシンさん宅(@Ys_gakusen)御幡先輩
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 息が、出来ない。
 窒息して、死んでしまう。死んでしまいそう。どうしよう、死んでしまいそう。

 桝井は壁にぴったりと背をくっ付け、今にも荒くなって激しく音を立てそうな呼吸を抑えるために左手を胸の上に置き、右手で喉のあたりを軽く抑えた。左手がブレザーをギュッと握る。
 この角、壁を真っ直ぐに曲がると、彼が居る。
 そして知らない女。
 欲は分からないが仲が良さそうに話しているのだ。何故だろう。同級生?今回の作戦で一緒に行動する人?親しげに笑みを浮かべる先輩に、女が軽く触れる。スキンシップだ。そんな所を見てしまった。
(都三子の先輩やのに)
 桝井は壁に背をぴったりとくっつけたまま俯き、そんな事を考えていると呼吸は厭に正常になっていく。その代わりに今度は脳味噌が熱くなりすぎて逆に冷えて感じるほどだ。沸騰しているはずなのに氷を詰め込まれたみたい。
(何を話しとるんや)
 桝井の耳は常人の其れよりも性能が遥かに劣る。
 壁の角から体を出さないように体を少し斜めに傾け、左手でスカートを横から軽く持ち上げる。深緑の手袋が嵌められた指先が、腿のベルトに括り付けられた短銃の銃把に触れた。
 けれどすぐにハッとしてスカートの裾をおろし、急いで首にかけてあるインカムを持ち上げ頭に装着し、つまみを少しいじる。音を拾いやすくするもの。
 限界まで上げたそれはあたりのノイズばかり拾って、先輩と女の声は聞き取れないままだ。役に立たないと桝井は再びインカムを首にかけて、両手を後ろにし壁に凭れる。俯いたその顔には長い睫毛の影が落ちる。
(今すぐに殺してしまいたい。都三子の先輩やのに、なんじゃあのアマ調子こきおって……。流石にバレてまうけん、そのうち……顔は覚えたから……何時かの作戦で……)
 暫くして、御幡が角を曲がって、桝井に驚いたような表情を浮かべた。
「都三子くん、どうしたんだ?」
「……別になんもないです、けど……」
 背の高い御幡の顔を見るには自然と桝井は顎を持ち上げ、見上げる格好になる。そうしないとこの耳で拾いきれない言葉を補えない。
「そうか……、それならいいんだが」
 御幡は不思議そうにしながらも、ならいいんだと軽く頷いた。そのまましばらく考えるように視線を逸らし、再び桝井を見詰めて少し背を丸めしっかり桝井にも聞こえるように「都三子君、寮まで一緒に帰らないか」と少しばかりはにかむように笑って言うのだから、ああ。
(あの女は先輩に感謝すべき)
 冷え切っていた脳内が溶けていくような気がする。先輩がそうやって笑うだけでどうしようもなく、嬉しくて、その笑顔は自分にしか向かないという自信を付けさせてくれる。
「勿論、です、御幡先輩!」
 桝井もきっとはにかんだ笑みを浮かべているだろう。
 何時まで経っても、好きな人。一緒に変えれると思うだけで、心が浮足立ってしまうのを止められない。この人を好きになってよかったと思える。そしてこの人が自分を好いてくれて、本当に良かったと。

 呼吸はもう元通り、彼が傍に居れば、もうなんの狂いもない。
 

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