Sink deeply

 
主の決断に文句をつけるつもりは毛頭ない。

だが、これは明らかにミスではないだろうかと思う。


「ブラッド様っ!おはようございます!」


最も優先すべき主を最早居ないものとしているそれにぴくりと眉根が動く。

挨拶をされれば当然、挨拶ぐらいは返す人間であると自負していたが、この時ばかりは言葉よりも視線が向かってしまった。


「嗚呼っ、やはり夢ではないのですね……私を蔑むようなその瞳……最高ですっ!ありがとう神様!」


他人を理解しようなどと、これまでに一度とて思った事はない。

したがって、今、目の前で満面の笑みを浮かべている彼女の言動について触れる気も更々ないのだが。


「やだわシャルロットったら。私を笑い死にさせる気かしら?」

「はわああ!キャット様!おはようございます!本日もお美しい!!」

「あらありがとう、シャルロット。キミのその、思考を隠しもせずにぺらぺらと口語してしまう愚かなほど素直なところが私はとても好きよ」

「嗚呼っ、神様!ありがとう!本当にありがとう!もう私は……っ……いつ死んでもいいっ!!」

「あら。出勤初日で殉職は困るわ。コーヒをお願いしたかったのだけれど」

「はっ!お任せをっ!!」


一応、という前置きを盾に。

確認の意も含め、キッチンへと走り出した女から主へと視線を移した。


「言いたい事は分かるわ、ナイト様」


途端、くすりと柔らかなそれが宙を舞う。


「すごく個性的で扱い難いというのは同感よ。あと少し騒がしいわ」

「……」

「けれど、主が誰であるのか、あの日屋敷に来ていた女達の中で理解していたのは彼女だけ」

「……」

「あとの女達は皆、ナイト様に言われた通り、帰宅していたわ」


主はキミではないのに、と。

それを言われてしまっては、返す言葉など永遠に見つからない。

元より返させるつもりはないのだろうが、こうも選択肢を根刮ぎ奪われてしまうと邪推してしまうのが性(さが)というもの。


「…………それは、自惚れてもいい、という事でしょうか?」


ソファに身を沈ませた彼女の耳元へと身体を屈ませ、ゆっくりと囁けば己の元へと向かう"キャット様"の視線。

鼻先が触れるか否かのこの距離で、真っ先に重なった先のライトブラウンが僅かにでも揺れてしまえば、これは任務なのだと己にいくら言い聞かせてもそれらは無駄に終わる。

赤く艶やかなそれが弧を描く前に塞ぎ、緩い癖を纏う柔らかな髪を掬くように指を滑らせ後頭部を捕らえた。


「……っ……ん、」


角度を変える度に口端からもれる吐息は恐ろしいほどに欲を駆り立て、脳内から弾き出される自制心。

身体を強張らせながらも応えようと拙く動く彼女の舌は、他よりもある方だと自負していたはずの理性を跡形もなくドロドロに溶かしていく。


分かっていた事だ。

己が既に、溺れているのは。


「……っ!?」

「……ん……っ…………あら、シャルロット」

「きききききキス!?おおお二人は、いっ今、ききキスを!?」

「……そうね、とりあえずもう一度、コーヒーをお願い出来るかしら?」


少なくとも、コーヒーカップを落とした彼女の気配に気付くのが遅れたくらいには、深く。
 

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