黒の大階段を伝って入った城の内部は、驚くほど豪奢な造りだった。天井は高く、壁のランプが廊下に灯をともし、床の大理石には繊細な細工が施されている。まさに王と呼ばれる者の居所に相応しい場所だった。そのプラズマ団が築いた巨大な城に、ラフでカジュアルなトウコとトウヤは、あまりに場違いにも思われた。未だ英雄でも大人でもない少女に、何ができるだろう。そんな不安とはやる心から、トウコは手持ちたちと息をきらして長い廊下を駆け抜けた。戴冠したNの宣言を聞いてしまっては、ゆったりと歩けるわけもない。トウヤもそれに続き、チコリータが横に並んでいる。彼は兄でありながらも、もうトウコの前を歩みはしなかった。



階を三つほど進み、室内に流れる水路の景色にも慣れた頃、柱の影から女の声が聞こえて二人は足を止めた。


「おいでになりましたね、理想のひと」
「ダークストーンを御持ちに為った方」

淑やかな古代ギリシア様の衣を纏った二人の女性、彼女らは先刻、Nに王冠を被せローブを纏わせ祭り上げた女達だった。


「英雄のたまご。あなたを迎えに参りました。どうか恐れず、わたしたちのことばを聞いてください」
「決戦の前に、貴方々を万全にして差し上げなければ。それはNの望みでもあります」


その柔らかな物腰と邪気の無さから、少年たちは警戒をほどいた。すると金髪の女性はチコリータに歩み寄り、労うように掌をかざした。他のどんな女性よりも白い肌が柔く光り、ポケモンの疲れと傷を癒した。

「驚いた。こんな力を持ってる人がいるなんて」

「わたくしどものことなど、どうでもよいのです」
「大事なのは、英雄の事、Nの事」
「あの子を、わかってやってくださいませんか」

ブロンドとストロベリーブロンドの女性たちは代わる代わる語り、トウコをある部屋へと導いた。その部屋へ通せるのは英雄の片割れだけとのことで、トウヤは部屋の前で待つことになり、そのことについてトウヤは何も言わなかった。

「ここはNの育った部屋」
「10年の刻を過ごした世界」

「英雄となるべき貴女に、識ってもらいたいのです」
「Nと敵対する貴女に、視てもらいたいのです」

部屋の錠前が回され、軽くはない扉が開く。








トウコがこの罠のような指示に従ったのは、「Nを理解する」ことで、この戦いがどうにかなるのではないかと思ったからだ。有利に戦闘に臨んだり、或いは、彼を説得できる鍵になるかもしれない。そんなふうに理由付けをしなければ、彼女は、「Nを知りたい」と思う気持ちがあることを、誤魔化すことはできなかった。










Nはたぶん、頭の良い青年だ。しかしその思想が普通ではないことは判っていた。
それなのにトウコは、Nのことを微塵も理解していなかったと、この時思い知らされた。

「なんなの…!?この部屋は…!!」

その部屋は、広く、統一感のない色で雑然としていた。どこまでも続く青空柄の床を、所狭しとおもちゃが埋め尽くしている。不器用に繋がれたカラフルなプラレールの上を、電車がのろのろと往復している。部屋の中央には、スケートボード用の大きなハーフパイプ。左手にはバスケットゴールがあり、部屋の奥には不思議な絵と、ダーツ、雑然とした玩具箱。

「この子供部屋は、Nが昔使っていた所なの?」

女神たちは何も言わず、トウコからも目を逸らしている。部屋には、トウコ達以外は誰もいない。部屋に響くのは、電車の玩具が虚しく行き来する音だけだ。トウコは蠢くその玩具を手に取ってみた。埃ひとつ纏わぬそれは、電池で動くもののようだ。

電池で動くものが、今、誰もいなかった部屋にあって、動いている?
それはつまり、この部屋に入る者が、遠くない時期に、使っていたということ。

よく見れば、バスケットゴールのネットにも、玩具の電車が引っ掛かっている。天地がひっくり返らない限り、それは人の手によるものだろう。壁の絵は無様に角を上げ、金属のダーツ矢に磔にされている。鍵のかかる扉のほかには窓ひとつない。ざわつく心に任せて、トウコは部屋の奥へと進んだ。スケート用のハーフパイプの中央には、小さな何かが落ちている。それは食べたポケモンを叩き伸ばす麻薬、不思議な飴だった。周囲には、いくつかの包み紙も転がっている。これを、誰が食べたのかが、気になった。


トウコの部屋にはWiiがある。ベッドがある。デスクがある。お母さんの置いた観葉色物に、お気に入りの服が詰まった箪笥がある。部屋というのは、多少なりとも棲む人の人となりを見せるものだ。しかしこの部屋からは、Nの息づかいも年齢もわからない。几帳面だとか、ずぼらだとか、根暗だとか、活発だとか、語彙の単語では到底表せないと思った。ただ逆説的ではあるが、不可解なゆえに、「彼」らしい部屋だとも思われた。

「この部屋で、Nは暮らしているの?」

トウコは答えを期待していたわけではなかったが、呟きのような問いに女神は応えた。

「はい、10年程。あらゆるポケモンを愛で、彼らと寝食を共にしておりました」
「人との接触を持たず、只代わる代わる容れられたポケモンたちと話し、この部屋で育ちました」

それはつまり、Nは此所で監禁されていたということか。若しくは飼育されていたと、言う方が正しいのかもしれない。部屋には、幼児の一人遊びを満たしてくれそうな物ばかりだった。そして恐らく今をもってして、彼はこの部屋に棲んでいる。一人で、又はポケモンと過ごしている。他の人間と話すことになったのが最近のことだとすれば、会話に不慣れなのも頷ける。トウコは目頭に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。それは彼を哀れんだからではない、切なさに胸を穿たれたからだった。

「それなのに、ポケモンを解放しようなんて言っているの。唯一の拠り所を棄てようとしているの。」

かつて聞いたNの一言一句が、トウコの胸に突き刺さるようだった。





――君は友達を閉じ込めるのかい?


じゃあ、あなたもまた、トモダチと別れるの?

―――そうだよ。いつもしてきたように、ね






「自分とその周りの幸せだけでは我慢できないの。総てのポケモンを不幸から救いたいというの。」


そんな、強欲で、身勝手で、エゴイズムに満ちた願いは、聞いたことがない。そしてそれでいて、なんて純粋なのだろう。純粋と繊細と狂気を孕んだその心は、まさにこの部屋の様子ではないか。

トウコが太陽の許を駆け回っていた頃に、家族と手を繋いでいた間に、友人を作ったり失ったりしているうちに、彼はその信念を育んでいたのだ。

心を砕いて、身を粉にして求める結果は、彼の自己満足でしかないのに。彼自身の幸せとはほど遠いのに。人は本当に、それを願えるのだろうか。何かが頬を伝うのを感じた。




――トウコ、ボクを、止めてみせろ…!


あの言葉は、挑発なのか。或いは。
いずれにせよ、私は彼を止める。それが、私自身のエゴだとしても、貫き通してやる。



――君が英雄の器であるならば、伝説の竜がキミに力を貸すだろう


「私は、彼を」


いや違う。彼がどうこうじゃない。彼が善い人であろうが、悪い人であろうが、私の心は変わらないんだ。条件なんていらない。いくら理解できようと、信念は、曲げられないんだ。大義からでも正義からでもなく、私は私がしたいことを願う。


鞄の中、あれが脈打つのがわかった。五感ではない何かで、鼓動を感じた。指先で、あれを手繰り寄せる。そして、胸の前に掲げた。


「私は、人とポケモンが共生する世界がいい。これからもそんな世界で生きていきたい!」




それはさながら、願いを聞き届けたランプの魔神のようだった。

ダークストーンのヒビの間から光が漏れ、眩しさが部屋を包み込んだ。空色の壁は稲妻のような青色に塗り替えられ、空気は突き刺さるように尖った。
視界は青色だけではなく、中央の視界を切り取るように青を映した黒い丸が膨らんでいった。視界が欠損するかのように黒は広がり続け、果実が弾けるように、竜が姿を現した。

黒鉄の、鍛え抜かれた筋を青い電磁が彩っている。トウコは眼前の竜の脚を見、胸を見、首を見、真上を向いてやっとその竜の顔を見ることができた。やっと開かれた眼は、意思の強さを示すかのように深紅だった。


二人の女神は跪いて胸に手を合わせた。
「ゼクロムが、あなたの理想を認めたのですね」
「貴女が英雄足り得ると、認めたのです」


シュー、と目覚めの呼吸をしたゼクロムに、トウコは語りかけた。

「ゼクロム、私と一緒に、戦ってくれますか?」



首を屈めたゼクロムを、トウコはそっと撫でた。








37.英雄の部屋






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