血身泥セレネイド
(寂しい、寒い、ハレルヤ、ハレルヤ、)

 ずっと神に祈っていた。弟の名前であるそれを何度も繰り返す。僕の弟。僕が殺した、最愛の弟。
何故ハレルヤを殺したのか分からない。ハレルヤが、愛しい彼女を奪ったから?でもその癖僕は、捕まった時ハレルヤの名前を名乗っていた。ハレルヤに罪をなすりつけたかった?自分を殺したかったから?今ではもう分からないけれど。
すぐにDNA鑑定で嘘だとばれたから。
 出所して、一からやり直そうと思えたのは多分、新しい依存先を見付けてしまったから。見付けてしまったから、彼から離れようと思った。
 自分の中にある凶悪な部分がまた牙を剥いて、彼が手に入らないと気付いた瞬間に、彼を殺してしまいそうだったから。
誰も僕知らない遠い場所まできて、住む所も無く、金も底を尽きて。
(あ、あの人なら、スレそう)
 狭い本屋の一角で立ち読みをしている男が目に付く。フードを被り、そのフードからはマフラーが出ていた。ジーンズのお尻のポケットから、無防備に晒された財布を目で確認する。
僕は初めてスリをしようとしていた。
 生きる事への執着心だけは立派にあって、罪を犯す前に貯めた金が全て無くなった今、僕は生活に困っていた。
路上生活は案外簡単に慣れた。バラエティ番組で見ていたゼロ円生活をまさかこの身で体験する事になるとは思ってもみなかったが。
 食事はコンビニの廃棄を狙ったりしていたが、流石に顔写真のビラが配られる程の犯罪歴であった為にすぐにマークされてしまった。
 人間空腹にだけはどうやっても勝てずに、もう前科持ちなのだから捕まろうが関係無い、といった、そんな軽い気持ちで。
男と同じく僕もパーカーを被り、マフラーで口元を隠した。そして男の背後に立って、ゆっくりと財布に手を掛ける。人差し指と親指で、その薄い長財布をつまむと案外簡単にずるりとポケットから引き抜けそうになった、その瞬間。
がしり、と腕を掴まれた。
「……男に痴漢しようだなんて……もうちょっと相手選んだ方がいいぜ?お嬢さん」
 甘い声。低くて、でも何処か癖のあるその声の主は、僕が人生で初めて恋しいと思った男性。一瞬で思考がフリーズした。
 動けない。指先も何も動かせず、瞳をただ見開くしか出来なかった。声だけじゃない、その柔らかそうに揺れる髪をとても懐かしく思う。
 以前は帽子でいつも隠れていたので記憶がはっきりとしないが、あの頃より少し伸びているようにも見える。
しかし見間違うなんて事ある筈無い。
「…っと、男でさらにスリか。悪いが俺と一緒に警察行って貰おうか」
 彼の名前を僕は知らない。毎週水曜日の午前中に、僕の収容された牢獄の前に配備されるだけの、まるでミルクティみたいな茶髪の男性。だけどその声が好き。
 模範囚でいられたのは、きっと彼に褒められたかったから。

――よくやったな、E-57。今月の模範囚もお前さんだ――

 重い鉄のような扉の向こうからそう言ってくれた。
 毎週水曜日は、お昼になると彼に牢屋の鍵を開けて貰う。収容された棟の他の囚人達と共に食堂へ連れて行かれて、その後は自由時間だった。他の囚人達は運動場に出たり、図書室で本を読んでいたけれど。
 僕は二階の渡り廊下で、ずっと貴方を見ていた。有刺鉄線越しに、建物の裏で食事を取る貴方。たまに本を読んだり、そのままそこで昼寝をしたり。
 たった一時間、彼の遅い昼休みを眺めていた。
「ん……?」
 腕を掴まれて逃げる気配も見せないのを怪訝に思ったのか、彼のその綺麗な顔が此方を覗き込む。
何かを言おうと僕の口がぱくぱくと動く。
その動きでマフラーがずり落ちるが、何の音も、息も出なかった。
 彼に呼び掛けたくても声も、名前も出て来ない。
好き、好き、…好き。ただそれだけだった。
「……E-57?」
(覚えていてくれた!)
 一気に胸の鼓動が五月蝿くなる。
 その声がとても近い事に歓喜した。
二人の間にはもう鉄格子は無い。
「え、なんで……お前さんがここに?」
 彼の綺麗なエメラルドグリーンが見開かれる。
いままでは遠目にしか見られなかったその瞳の輝きに魅了されたまま立ち尽くした。
ああなんて透き通った瞳の色をしているのだろう。
手を伸ばせば触れられる。手に入れられる。
「俺の財布、え……?」
 その彼の言葉で僕はやっと今この状況を理解した。
慌てて彼の財布から手を離すが、もう既に彼に腕を掴まえられている。
 もうだめだと思った。再犯だ。
いや別に人を殺した訳じゃ無いけれど、また捕まるのが怖い訳じゃないけれど、僕は、僕は!
(その甘い声で、今度は、一生……!)
 彼に再び廻り逢えた喜びが全身を駆け巡る。そして彼に逮捕されて、また毎週水曜日に、彼の顏を眺められる。
また彼に優しく褒められる。
 そんな事を頭の片隅で考えた。
「ああ、クソッ…今回は見逃してやるから、ちょっと待ってろ!」
 そう言って彼は立ち読みしていた文庫本の入っていた所の数冊を取ってその場から消えた。
多分会計を済ます為にレジへと向かったのだろうけれど、待っていろと言われたけれど。
 色々な考えが頭の中を蠢く。見逃して貰えた?もう捕まらない?逮捕して貰えない?足元が暗くなり汗が背中を伝った。
駄目だきっと彼の居場所を割り出して、彼に付き纏って、彼を僕のものにしようとしてしまう。自由を奪い、それでも彼が手に入らなくて、僕は彼を殺してしまう。
 それだけは駄目だ、僕の内なる魔獣が叫びをあげる前に。
本屋を飛び出て、必死に走り出す。
一刻も早く此処から離れなければ。
少しでも彼から遠いところへ。早く。早く早く早く早く!
「あ、待て、……!」
 僕が逃走したことに気がついたのか、後を追い掛けるように小さな紙袋を抱えた彼が走り出す。
閉じ掛けた自動ドアに一度阻まれながらでも、彼は僕を追い掛けてくれた。
 嬉しい。ああ早く掴まえて、また監獄に押し込めて欲しい。
毎週水曜日、扉の前に貴方を感じて、一時間遠目に貴方を見詰めるだけで。全力疾走しながらも僕の頭の中は幸せで満ちていた。このまま振り切って逃げ切れる。そしてもう二度と彼に遭遇しない場所へ行こう。
 覚えていてくれた。それだけでいいと自身に思い込ませるように、ひたすらに走った。
「待て、E-57、Eー……」
 後ろで彼が叫んでいるのが見えた。
街行く人々が奇異の目で此方を見ていたけれどすぐに駆け抜けてしまう。
 何もかもかなぐり捨てて、このままどうにかなってしまいたい。ぜいぜいと息が上がる。酸素が足りていない。
頭の中が次第にぼうっと霞んで行った。
「……ッ、アレルヤっっ!」
 霞んでいく思考の中で、大声で名前を呼ばれ僕の視界が一気に拓ける。びくりと体が跳ねて、逃げ切ろうとしていた体は止まってしまった。
 アレルヤ、…ハレルヤ?
僕の名前だ。弟の名前だ。
今彼が呼んだのは?叫んだのは?
「っはぁ、は…っ、アレルヤ、お前、走るの早過ぎだろ…!」
 息を切らしながら彼は歩み寄り、僕の手を掴んだ。
その手は今しがた走ったせいか、熱く脈打っている。
 アレルヤと。今そう呼ばれた。
知る筈の無い囚人の名前を、どうして彼が知っているのだろうか。
「どうして僕を追い掛けるの…?」
 嬉し過ぎて涙が出そうになった。
ついに彼と触れ合ってしまったのだから、初めて彼に名前を呼んで貰ったから、もう、もう訳が分からなくなる。
「待てって言った、のに、逃げるからだろ…!」
「そ、そりゃ逃げますよ!こんな所で囚人番号で呼ばれたら、普通…っ」
 至極真っ当な事を述べる。本当はもっと違う理由で逃げ出したのだけれども。彼に逮捕されるのなら本意だった。だけど、貴方が、見逃すなんて言うから。見逃したらどういう事になるのか、この人は解っちゃいないのだ。
「……っ悪ぃ、お前にとっちゃ沢山いる刑務官の一人だもんな。…覚えて無いっか……」
 彼はバツが悪そうにその柔らかな髪をかきあげた。
ため息交じりにぽつりと呟く。
 覚えて無い筈ない、と叫びたかった。
 けれど彼が僕の名前を知っていても、僕は彼がどんな人なのか知らない。毎日食べていたお弁当の内容も、読んでいる本のタイトルも。ましてや彼の名前なんて。
 ずっと遠目でしか、貴方を見ていられなかったから。それが現実だ。同じく彼も、僕がどういう人間なのか、知らない。僕がどういう想いで、罪を犯したかなんて。そしてどういう想いで貴方から逃げるように走り出したかなんて。
「っ……、ふ、ううっ」
 堪えていた涙と嗚咽がついに決壊する。
握られている自分の手が熱い。今ならもう死んでいい。
むしろこんな事になるのなら、僕は死刑でよかったんだ。
そうすれば彼に出逢わなかった。彼に恋する事なんて無かったんだ。
 根本的な問題を本心の奥へと追いやる。
どうすればいいのか解らない。
どうしたいのか解らない。
……どうすれば、どうしたら最善の解決策が見付かるのだろう。
「あ、アレルヤ、アレルヤ…?」
 戸惑ったように彼は僕の名前を呼び続ける。
 そのきらめく宝石のような瞳をじっと見詰めながらも、僕の涙は止まらなかった。
どうすれば彼から離れられるのだろう。
どうすれば彼の傍にいられるのだろう。
矛盾した事ばかり考えてしまう。
どうしたら彼に好きになって貰えるのだろう。
どうしたら彼は僕の手を離してくれるのだろう。
何が一番大事なことか分からなくなって、涙は更に止まる事を知らなかった。
「……、?!」
「泣くなよ…どうしたらいいか、分からなくなっちまう…!」
 ぎゅ、と彼に抱き締められた。
 驚きで目を見開き、最後の一粒のように涙がぽとり零れ落ちる。抱き締められる腕の強さが心地いいと感じてしまう。
少し息苦しい、だけど、彼に征服されているような感覚にさえ陥る程に。
「びっくりさせて、ごめんな?」
 そして腕の強さが弱まったと思った時、僕を覗き込んでふっと彼は笑った。
柔らかなその微笑で心を貫かれる。
頬が熱くなるのが分かった。だから俯いたまま首を横に振る。
「こんな事急に言うのはなんだけど。……金、無いんだろ?お詫びに飯くらい、奢るよ」
 そういって、彼は笑顔で僕の手を引っ張った。



*****




「あらぁ、こんな時間に誰かと思ったら。ニール。珍しいわね」
「ああすまん。人が居ないから定休日かと思ったぜ」
「んもー子憎たらしい!夜だけ来てなさいアンタは!」
「そんな事言うなよ、ミス・スメラギ。今日の俺は客寄せパンダじゃなくて、ただの客!」
「客ぅ…?あら、あららら…本当に珍しい、貴方、友達いたのね」
 有無を言わさずにアレルヤがに連れられて来たのは、店舗の半分が地下になっていて少し薄暗いカフェだった。
階段を降りて店内に入ると繋いでいた手は離されて、彼はミス・スメラギと呼ばれる若い女性のマスターと言葉を交わす。
(なまえ、ニールっていうんだ……)
「俺の行き付けのバーだから。なんでも頼んでいいぜ」
「昼間はただのカフェよ」
 夜だけじゃ稼げないから昼間も開いているだけだろ、とニールの言葉にスメラギはぷんぷんと分かりやすい怒りを表現して、軽口を叩き合っていた。
……まるで、恋人同士のように。
 それにアレルヤは気付いて、のこのこと彼に付いて来た自分が恥ずかしくなった。
この様な場所に、自分は似合わない。
「……っ僕、やっぱり帰ります!」
「え、おい、アレルヤ!?」
 背を向けて店を出ようとすると、またニールに腕を掴まれる。
けれども今度はそれを振り払ってしまう。
ニールは振り払われた手の行き場を失って、アレルヤと手を交互に見ていた。
「見逃してくれてありがとうございます、ここまでついて来てあれですけれど、貴方にそこまでして貰う程僕は…貴方と親しくない…!」
 みっともない、とアレルヤは自責の念を感じながらも、また泣きそうになっていた。今度は、悲しくて。
彼が僕を覚えてくれていた、それだけで十分に僕は嬉しくて。
追い掛けられて、抱き締められて、手を握られて。もう十分、舞い上がった。だからこんな形で突き落としてなんて欲しくない。ニールの顔が見られない。
 振り払った手をぎゅっと握り直して、アレルヤは店の扉に手を掛けた。
「ちょっと待ちなさい、そこの貴方!」
 何事か、とそれまでを見ていた筈のスメラギに店を出ようとするのを阻まれ、女性とは思えない力で背中を押されてアレルヤは無理矢理カウンター席に座らされる。
驚いたのはニールの方だった。引きとめようとして振り払われ、呆然としていた所をスメラギによってさらに言葉を失う。
「何があったか知らないけれど、人の好意は素直に受け取るものよ」
 スメラギに首根っこを掴まれ着座させられて、両肩を掴まれたままじっと睨まれる。
身動ぎも出来ない程に彼女の眼力は強力だった。
「貴方、ニールの事が好きなんでしょ、見て分かるわ」
「「……なっ」」
 図らずも二人の声が重なり合う。
アレルヤの驚きの声は、彼への感情を当てられてしまったから。
しかしニール驚きの声は、アレルヤの感情を知ったからなのか、それとも恋人である彼女に理解不能な事を言われたからなのか、アレルヤには分からなかった。
「好きだから、優しくされて困ってる。好きなのに、そんなに仲良くないからその好意が受け取れない。……何か間違っている?」
 間違ってなんかなくて、反論が出来なかった。あまりのその正解の近さに唾を飲み込む。
 どうしよう、彼にこの想いが伝わってしまったら。
 きっと軽蔑される。いいやそれ以上に、彼は怯えて僕から離れてくれるかもしれない。少し、アレルヤは期待した。
「ニール、あんたもあんたよ」
 アレルヤを押さえ込んでいたスメラギの視線が今度はニールに向けられる。
彼女の矛先が変わってアレルヤは少し安堵の息を吐いた。
まるで蛇に睨まれた蛙のような気分だった。
正当な事を正面から突き付けられて、針の筵のようだった。
「この子が好きで仲良くなりたいのは分かるけど、善意を無理強いしちゃ駄目じゃない。店に入って、この子が戸惑っているの分からなかった?」
 同じように、彼もぐっと何かを飲み込んでいる。
「二人がどういう関係か知らないけれど。…お互い友達になりたいんでしょう?もうちょっと、ゆっくり話し合ったら?」
 ああ、好きってそういう意味の好きか、と内心ほっとした。
彼に本心は、伝わっていない。
それはそうだ。男が男を好きだなんて、本来なら有り得ない感情なのだから。
そんな考えに至る事なんてまず、有り得ない。
「……ふぅ、ごめんなさいね。お節介が過ぎたわ。ええと、アレルヤ…だっけ?私はリーサ・クジョウ。みんなには、スメラギって呼ばれてるけど。ニールの古い知人よ」
 スメラギは一息つくと、その視線を柔らかいものへと変化させる。知人、という部分をかなり強調させて。
その言葉がアレルヤの動揺を誘う。
「え、彼の…恋人さん、じゃないんですか?」
「やだもー変な事言わないで!こんなやつの恋人だなんて!好きな人を追い掛ける事も出来なくていつもうじうじしてる意気地無し、こっちから願い下げだわ」
「うわ、わわ!ミス、ミス!」
 スメラギがニールの恋人だと早とちりしたのを悔やんだ。
ああ早とちりして店を飛び出そうとして、恥ずかしいことをしてしまった。
かっと頬が熱くなって、一筋汗が流れる。
「…いえ、すみません。それに、入っていきなり…変な事を言って…」
 スメラギの話を途中で遮ったニールは彼女に耳打ちをして、内緒話を始める。
何を話しているかアレルヤには聞き取れなかったが、その後スメラギはいいのよ、いいのよ、とアレルヤの謝罪を受け流してしまった。
「……私、お邪魔みたいね。まぁ、いいわ。冷めても美味しいもの奥で作っておくから。お話終わったら呼んでちょうだぁい」
 内緒話で何かを思案したのか、スメラギはひらひらと手を振って、カウンターの奥へと消える。
 二人でその先を見詰めて、少ししてからニールはアレルヤの隣の席に腰掛けた。夜はバーだと言っていたこの店は、普通のカフェよりカウンターが高く設定されている。しかし二人とも身長が高い部類の方の人間だったので、カウンター席でも無理なく座った。隣に座ったニールが、カウンターテーブルの上で握られているアレルヤの手を取る。
「アレルヤ、その、一日に何度も……ごめん……」
「あ、謝らないで下さい、僕が悪いんですから……っ」
 むしろニールの方が萎縮してしまって、お互いに謝り合う。
以前の二人が刑務官と囚人という関係だったなんて、こんな様子の二人を見て一体誰が分かるというのだろう。それ程までに奇妙な光景だった。
「……まさか、こんな所で会えるなんて思ってなくって」
「僕も、です。……あの、どうして僕の事が分かったんですか……?」
 何故覚えていてくれたのか。アレルヤにはそれが不思議でならなかった。
アレルヤにとってニールは、少なからず特別な人だった。
彼に褒められたい、声を掛けられたい一心で模範生を演じていたというのに、気が付くと刑期がとても短くなっていて、模範生だった事も有り釈放されてしまった。
 だが、ニールにとっては監獄の中の、数いる犯罪者の一人にしか過ぎない筈。
釈放された日は、とても憂鬱な日々のはじまりであった。
「――あの日お前に伝えなくちゃいけない事があって、……」
 そう言うとニールは少し苦い顔をする。
 あの日、というのは、二人が最後に言葉を交わした日。
そして初めて向かい合って、お互いの顔を見た日。
 ……アレルヤが釈放された日の事だった。
「別に、俺の口から伝えなくてもいい事だったんだ。後から連絡が行くだろうと思っていた。だけど、後になって弁護士からアレルヤが失踪したって、こっちまで連絡が入って……」
 いくら釈放されたとはいっても、しばらくの間は監視が付く。
それらを振り切ってアレルヤは、着の身着のままで住んでいた街を飛び出した。
「お前の刑期。随分短かったと思わないか?あれな、奇跡的に息を吹き返したしたお前の弟さんがな、弁護士に頼んでたんだよ」
 ニールがあの日、伝えるべきだった事。
それはアレルヤが殺そうとした弟が生きていたという事だった。アレルヤは愕然とニールを見ていた。
「でも俺はこれを伝える為にここにいるんじゃない。アレルヤに今日逢えたのも、偶然」
 そのアレルヤの視線にどう応えていいか、ニールは悩んだ。
どうしてあの日伝えられなかったのだろう、とニールは悔恨する。伝えてさえいれば、もっと違う道をアレルヤは進めたというのに。
「やっぱりまだ、知らなかったんだな。」
「でも、僕、僕、あれ……?」
 確かに僕はハレルヤを殺した筈だった。アレルヤはそう回想する。ナイフの柄の感覚、肉を刺し貫く感触。全て覚えている。一生忘れる事は無い、罪の記憶。
 目の前がグルグルと回る感覚がアレルヤを責める。
「忘れられる筈無かったんだ。お前はいつもぎこちない笑顔を俺に向けてくれていたのに、最後の最後だけ。なんであんなに悲しそうな顔をしていたのかって」
「どんな囚人だって、最後だけは俺ら刑務官にも笑顔を向けてくれる。なのにアレルヤは、お前だけは……寂しそうな顔で、俺を見るから、……」
 手を握り締められる。痛いくらいのそれは、指と指の間に指を差し込んで、神に祈るような形となった。
ニールは言葉を続ける。
アレルヤはただ、それを聞くしか出来なかった。
「俺は刑務官を辞めた」
「もう一度出会う事が叶うなら、今度はアレルヤを助けたい。そんな一心で、お前を追い掛けたんだ」
 そんな、とアレルヤは言葉を洩らす。
違う貴方のせいじゃない、とアレルヤは訴えようとした。
たとえハレルヤが生きていたってあの街にはもう住めない。
生きていようが、本当に殺してしまっていようが、どちらにせよ出奔して身をくらませた。
だけどニールのように、言葉には出来なかった。
「でも、もし、さっきミス・スメラギが言ってる事が当たってるのなら。俺はアレルヤと仲良くなりたい……って思うんだ」
「……僕、愛されてなきゃ駄目なんです」
 なんとか振り絞って出た言葉は、とても重苦しいものだった。声に出して、アレルヤはその言葉の意味を履き違えていたのだと気付く。
始めから、自分は彼女に愛されてなどいなかった。
家族愛という無条件の愛ですら、自身には無かった。
「だからいつか貴方が離れて行ったら、きっと貴方を殺してしまうよ」
 それ故の犯行だったから。自嘲しながらアレルヤは笑う。
 受け入れてなど貰えない感情だと最初から解り切っている。
ならば言葉にすることで、傷付くことで、諦めることが出来るのだろうか。
「……僕はずっと貴方を遠ざけて、こんな所まで来たというのに」
「でもあの時の笑顔が忘れられなくって……ずっと貴方の事を想ってた。名前も知らない、貴方の事を」
 アレルヤ、とそう耳元で呼ばれたような気がした。
抱き締められている、とアレルヤが気付いたのは、いつの間にか溢れていた涙をニールが口付けで拭った時だった。
「今のうちに謝っとく。……俺のスキは、こういう意味の好き。」
 思わず彼の唇が触れた頬を指でなぞる。
胸が高鳴り鼓動が早くなって、人間らしい感情が舞い戻ってくる。ただ好きという、その言葉だけ。
「……謝らないで下さい、って、さっき言いました」
「ごめん、ってまた言っ…」
 謝る彼の頬をアレルヤは両手で包み込む。
立ち上がる勢いで、そのままニールの唇と重ね合わせた。
「僕の好きは、こういう意味のスキ、なんです」
一秒にも満たないキスだった。
それでも頬を染めるのには十分過ぎて、アレルヤはすぐに顔を伏せる。
「……おんなじ、だな」
 伏せていた顔をニールに両手で持ち上げられる。
軽く顎を掴まれて、そしてキスをされた。
ニールの頬もまた、アレルヤと同様に朱がさしていた。
「……っふ、は、…ァ、」
 口付けはやがて深いものへと変わり、ちゅくちゅくと水音を立てて舌と舌が絡まり合う。こんなキスは生まれて初めてで、アレルヤの身体の芯が熱く震えた。
キスしているだけなのにとても気持ちが良くて、息が詰まりそうだったけれど離したくは無かった。
だけど名残惜しくも唇同士は離れてしまい、その間繋いでいた唾液の糸がぷつりと切れる。
「これでも、やり直したい、ですか?」
「はは、これじゃあ無理だ」
ニールはアレルヤを抱き締めて微笑う。

「もし俺がアレルヤから離れた時は、それは俺の罪だ。お前に殺されるのが、罰なんだろうな」

――どうせなら、いっしょにしのう。
嫌がる君の頬を撫でて、そう僕は呟いた
君の頬が赤く濡れる。ぼくと同じ遺伝子で。
君は何かを叫んだけれど、僕には通じなかった。
たくさんの刃物が磔刑にされたぼくを見て、君は言葉を失った。
何も怖がる事はないよ。
僕たちはずっと一緒さ。
そう、三人で、ずっと、ずっと――


 懐かしい夢を見た。
何処かバーチャルのようにも思えるその夢は、確実に僕の過去だ。
酷く遠い過去のようにも思える。
汗が滲む。鼓動が早い。頭痛がする。
 ベッドから上半身だけを起こし、頭を抱えた。
その夢を、過去を感じる事で僕は現実に引き戻された。
まだ朝も早く、カーテンの向こうは薄暗い。
 伸びた髪のぶんだけあの時から引き離されて行く。
なのに記憶は鮮明に僕に夢としてフラッシュバックさせた。
「アレルヤ……?」
 隣で眠っていた筈のニールに声をかけられて、アレルヤの身体が跳ねた。
びくりと大げさなその動揺は隠す余地も無くニールに伝わってしまう。
「ご……ごめんなさい。起こしちゃいましたよね」
「汗、すごいな。」
 ニールもまた上半身を起こして、アレルヤの顔を覗き込んだ。
やさしく頬を撫でられる。
ニールに汗に濡れた髪を掻き上げられながら、アレルヤはほっと息を吐いた。
 もうあんな事にはならない、なりはしない。
愛しい人を手にいれて、今自分は新しい道を歩んでいるのだ。
後ろ指を差されるだけだった未来が、慎ましくも幸福な日々を描いている。
それだけでいい。彼がいればいい。
「…………………………あんまり、触ら、ないで……」
 セミダブルのベッドで二人は密着して眠りについていた。
はたから見れば交わり合った後のようにも見えるかもしれないが、二人の間には未だそういった行為は見られなかった。
共に暮らし始めて三ヶ月ほど経つ。
 お互いの事をあまりよく知らない。
だけれど一緒にいる間はただ肌を寄せ合い、二人で眠りについた。嘘ではないと、偽りでもないと、ニールは毎夜アレルヤに言い聞かせるように愛を唱え語ってくれた。
 男同士でよくそれが成り立っているなあ、と時々アレルヤは思う。しかしそういう事にならないということは、やはり自分は彼の性的な対象ではないのかとやるせない気持ちになった。
「……あ、ああ……シャワーでも浴びて来いよ。二度寝しなおそう」
 その言葉に甘えてシーツを這い出る。優しく背中を見送られる。
僅かに熱を持つ中心に気付かれたのか、それともまだ雪のちらつくこの季節に、こんな冷や汗でびしょびしょになった自分に気を遣ってくれているのだろうか。
 恋人の筈だ。ただ、まだ時期ではないだけだ。
 そう自分に思い込ませる。
 冷え切った浴室でシャワーのお湯を頭から被った。冷たい水でも浴びたい気持ちだったが、こんな季節にそんな事をして彼を悩ませる訳にはいかない。
 ぬるま湯のような、幸せな一日が始まる。
ただ、まだ時期ではないだけ……。

*****

「――今日は遅くなるんでしたっけ」
 二度寝というほど二度寝は出来なかったが、シャワーのお陰でか少しすっきりした。
 まだ心の中にわだかまりは残るが、それは彼の責任ではない。自分自身の都合だ。
 毎朝二人で簡単な朝食を済ませてニールは出勤する。
玄関でお弁当と鞄を渡して、今日の予定を確認した。
「ああ、送別会があったんだ。忘れてた……」
「……忙しそうですね」
「んーそんなデカい飲み会じゃないから、終電にはちゃんと帰るさ」
 出掛けようとするニールのネクタイの歪みを最終確認する。
玄関まで見送るのは、きっと、少しでも彼のそばにいたいから。
 じゃあ行って来ます、と革靴の爪先を調整する仕草をしたあと、ニールは仕事へ行ってしまった。
「いってらっしゃい」
 ニールがいないと寂しい一日だな。
幸せだけど、どこか物足りない。
この街にはアレルヤの知り合いはいない。
ニールだけが全てで、他にはもう何も無かった。
すっからかんになった財布は捨ててしまった。
 だから、アレルヤをアレルヤだと証明するものは何もない。
だからアレルヤにしてあげられる事がニールには何も無くて、ただこうしてこの部屋で共に暮らす他無かった。
「かいもの……どうしよう……」
 ニールがいないのなら、食事はあり合わせでいい。冷蔵庫の余り物でなんとかなる。
あまり外に出たくないな、とアレルヤは思う。
 というのも都心・沿線から離れた寂れたこの街には、アレルヤの顔写真付きの指名手配書が少なからず残っているからだ。
 猟奇的殺人の容疑者としてかつて自分はこの国を騒がせた犯罪者なのだから。
そんな自分が、いくら釈放されたからって簡単に町をうろつける訳が無かった。
 マスクをして眼鏡をかけて変装して、やっと買い物に行ける。
前は自分の行動に対してそんなに深く考えたりもしなかったが、今はニールの家にやっかいになり、定住している。
 ニールに迷惑を掛けたく無いから……アレルヤはあまり外出をしなかった。
たぶん、この家だって一人暮らしのままの契約だろう。
そもそも戸籍が移せない。
やっぱり財布捨てるんじゃなかった……とアレルヤの思考は今朝の夢のこともあり、負のループとなってしまいそうだった。

 陽もとっくに暮れ果てて、深夜。
どうやらニールは終電に間に合わなかったらしい。
携帯にメッセージを送っても既読サインすら現れず、電話もまた出なかった。そもそも終電に乗り遅れるという事自体が初めてので、アレルヤはどうすればいいか手を拱いていた。
ニールがいつ帰って来てもいいように風呂は先にシャワーで済ませてある。
 部屋着になってキッチンの椅子に腰掛けていた。あり合わせの食事を作ったのはいいものの、もしかしたら早く帰って来てくれるかもと期待をして少し待っていたのだが、時間が経つ程とても喉を通らなかった。
 終電に間に合った日であったなら、帰って来たのを確認してから共に布団に入る。家主のいないベッドに一人横たわって眠れる程アレルヤの神経は図太くは無かった。
 刻々と時計の針は進む。息苦しい。白熱電球の光がやたらと眩しく思えた。ぎゅうぎゅうと外部から押し迫られているように感じるのと同時に、内部はぽっかりと暗い穴が空いていた。
その余白が辛い。
 どうしようもなく部屋の隅にと追いやられる。
まるでここが本当の居場所では無かったのだと暗に示されているようで、膝を抱え蹲る。暗い部屋の隅に、ひとりきり。
 時計の秒針の音と、電車が線路を軋ませる音。外の喧騒。
夜はまだ長い。部屋の中なのに、少し息が白かった。
 どうせ帰って来ないのなら、このまま部屋の隅で眠ろう。
きっとニールだって何処かのホテルに入っている。
カプセルホテルならいい。ネットカフェやカラオケは嫌だな、とアレルヤは思った。見ず知らずの女性と横に並んで寝るのは嫌だな。そこは僕の場所なのに。
 抱え込んだ膝がほんの少し濡れた。目蓋を押さえるようにさらに、膝に頭を擦り付ける。
こんな気持ちになる自分も、嫌だった。

*****

 アレルヤがニールへの負の感情でいっぱいになった頃、ニールはやっとその姿を現した。
ニールがタクシーを降りてマンションを見上げてみれば、自分の部屋の窓は真っ暗で。
 少しでも早く家にと思いエレベーターも使わず階段を駆け上がってみれば玄関の鍵は開けっ放しで、泥棒や暴漢が入ったらどうするんだ、とニールはアレルヤの身を案じた。
しかししんと静まった我が家にほっと一息ついて、短い廊下を進んですぐの扉を空けた。
 キッチンの電気を付けるとアレルヤはもう寝てしまったのか、いつも二人で食事をするテーブルにいつもより少し少な目の夕食のがラップを掛けて置いてあった。
ニールの好きなかぼちゃの煮付けがあったので、明日の朝が楽しみだと悠長な事を考える。
 可愛らしいアレルヤの寝顔が見られるなと頬を緩ませながら、もう既にネクタイの意味を成さないそれを完全に解いた。折角アレルヤが結べるようになったのに、と少し名残惜しい気もするが、それよりも早くアレルヤを抱き締めながら眠りたい。
 そう思いながらキッチンから寝床に繋がる部屋の引き戸を開けると、アレルヤが部屋の隅でひざを抱えて座り込んでいた。
「……アレルヤ?」
 慌ててアレルヤに駆け寄ってすぐにでも抱き締める。
ベッドにも入らず、着替えもせず、部屋に暖房はかかっていたがアレルヤの体は少し冷たかった。
 一体どうした、何があったんだとニールは声を掛けるが、アレルヤの体からいつものシャンプーの香りと一緒に最近新しく買ったボディソープの果実の香りがした。
 風呂にはちゃんと入ったようで少しだけ安堵する。
「ご飯は?ちゃんと食べたのか」
 まだ少し湿った髪は、いつもの髪よりさらさらしている。
アレルヤの赤らむ頬に手を添えると、体の冷たさに反して涙を堪えていたせいか少し熱い。ニールの質問にアレルヤは首を振って、おずおずと口を開いた。
「もう少しで……」
 死んじゃう所だった、とアレルヤは溜息と共に言葉を落とす。
せつなげに眉を寄せるアレルヤの頭を、ついニールは撫でてしまう。しっとりと指通りがいい髪だ。
なんて可愛い事を言ってくれるんだこの子は……とついつい頬を緩ませてしまうと、アレルヤが怪訝そうにこちらを睨んだ。
「何笑ってるんですか、貴方、殺されそうになるところだったんですよ」
「へ、」
「もう少しで、貴方が死んじゃうところだったっていってるんです」
 主語が抜けていた。その意味を理解して、肝が冷える。
「ご、ごめ……」
「ばか、ばかにーる」
 殺したくないのにとアレルヤが呟くと、堰き止めていた何かが決壊したのかアレルヤのその左右で色の違う瞳から大粒の雫が溢れ出す。
「アレルヤ。なんか食べよう?お腹が減ってるから悲しいんだよ」
「…………もう、早く、寝ましょう?」
 すんすんと鼻を啜りながら、アレルヤは懇願した。このような姿をあまり、見られたくない。
 これではまるで自分が彼にわがままを言っているようで、はたから見て見苦しいとアレルヤは苦渋の色を浮かべる。
彼の重荷にはなりたくない。
 だけれど、どうしても彼に頼ってしまう。依存してしまう。
「だーめ。ちょっとでいいから、なんか胃にいれとこう。な?」
 そう言ってニールはアレルヤの頭を撫でて宥めた。
テーブルに置いてあった夕食は、いくら少な目に作られているとはいえアレルヤが食べていないと分かる量だった。
ニールはアレルヤを引き連れてキッチンへと戻り、少し箸をつけただけで残してしまっていた夕食のおかずを温め直した。
ついでにアレルヤが食べやすいようたまご粥をつくり始める。
そんなニールにアレルヤは何もせず座っているのが気まずくて、ニールが使った後の料理器具を洗おうとした。
 ふと、アレルヤの手が止まる。
「……ニール、」
 手にしたのは包丁だ。いつも料理をする時に使っているそれは安物で、肉を切る時に少し苦戦させられる。……肉を、切るとき。懐かしい感覚がアレルヤの中に蘇る。
 それは、今朝見た夢のように。或いはかつての事実のように。あれはナイフだった。切っ先はとても鋭利で、何度も、何度も、狂ったように突き刺した。
 不思議とその時の感覚とダブったが、今はそうしたいという感情よりも、別の何かがアレルヤの腹の底から這い上がった。
 切り落としてほしい。……何を?
 刺されたい。……誰に?
 殺して欲しい?いいや、そうじゃない。
 これはもっと純粋で、そして単純な性愛だった。
アレルヤはたった今理解した。
あの夢から脱却するには、こんな生易しい幸福だけでは足りない。全てを忘れる程の、極限の状態へ登り詰めなければならない。ニールに愛されなければ、全ては始まらない。
 それなのに。
「ぼくは、あなたの恋人にはなれない?」
 コトコトと、一人用の土鍋が音をたてる。
ああ焦げてしまうかもしれないとアレルヤは思ったが、アレルヤが次の言葉を紡ぐ前に、ニールの方が先に動いて火を止めた。
「どうした?……今朝から、なんかおかしかったよな」
「……僕、普通にしてたよ?」
「普通にしてた、って事は、やっぱり無理してたんだ」
「…………」
 揚げ足を取られたような気持ちになる。
だが同時に解ってもらえていたのだと少しだけ安心した。しかしそれは愛されている、という感情へ繋がってくれなかった。
アレルヤにはそれが明確な疑問として今、胸の内に潜んでいる。
 他の女が羨ましい。
ニールに愛される資格と肉体を持っているから。
「…………取り敢えず、俺としてはその包丁を下ろして欲しいかな〜、なんて」
「……ああっ、ごめんなさい」
 アレルヤがはっと我に返ると、自分は泡だらけの包丁を握りしめていた。
はたから見れば恐喝しているようにも見えたかもしれない。
街に貼られたビラのように、僕の顔は凶悪だったかもと慌てて包丁を下ろす。
元々目付きの悪い自覚はあるが、どうしてあの写真はあんなに怖い顔なんだろう……と自分でもびっくりしたのだ。
 女のように、柔らかな頬や唇、体が欲しい。
狭い肩、細い腰、そしてニールを包み込む胸と……
「……ん、やっぱり、ご飯食べて落ち着こう。話はそれから。」
「はい……」
 少し不安定なアレルヤの言葉を確認して、改めてコンロの火をつける。
 簡単な食事を終えた後、ニールはシャワーを浴びに浴室へと消えた。
食事中何度も美味しいと言いながらアレルヤの作ったものを食べた。いつもと変わらない味付けにしかアレルヤには感じられなかったが、ニールが美味しそうにしているだけで食欲まで満たされそうな気がした。
 だがやはり、ぽっかり空いた心の空白は埋められそうに無い。
埋めて欲しい。
ニールになら、それを望んだ。

*****

 ほかほかに温まったニールに抱き締められながら、やっとの事で二人はいつものように布団にくるまる。
暖かいと感じるのと同時に、アレルヤは自分の冷たさに酷く狼狽えた。
まるで彼の暖かさを貪るように、冷たく凍えた心が、彼の温もりを侵食していくようにすら感じる。
自分の心と体が一致しない。
「さて、何から話そう?」
 明日ニールの仕事は休みだ。
夜更かしする事には気兼ねしないのか、ニールはアレルヤの頭を撫でて言葉を促す。
 しかし布団に入った時にニールはアレルヤに背中を向けてしまったので、アレルヤの表情がニールには解らなかった。
身長はそう変わらない。しかし小さく縮こまるアレルヤをニールは背中から抱き締めた。
とても抱き心地がいい。
 男同士だという事を忘れてしまうほど、アレルヤはニールの腕の中にぴったり収まってしまうのだ。
はたからみればサイズオーバーかもしれないが、ニールにとって不足は無い。
 今はこの背中が何より愛おしい。
触れているだけで、この腕の中にあるというだけで、今のニールにはこの上無く幸福を感じる瞬間であった。
ニールが口を開く前に、アレルヤはたんたんと言葉を連ねる。
「貴方が帰って来るまでに、色んな事を考えたの」
 もし朝まで帰って来なかったらどうしよう。
このまま帰って来なかったら、僕はどうしたらいいんだろう。
帰って来ても、女の人と一緒だったらどうしよう。
恨み言を唱える自分の愚かさや醜さがアレルヤの胸を締め上げる。
それでも言葉を紡ぎ終える事は出来なかった。
「ニールがいなかったらよかったのに、って」
 そうしたらこんな幸せを知らなくて済んだ。
苛立ちの原因をすり変えてみても、やっぱり彼が好きだった。
しかし今の自分の中にはかつての嫉妬と憎悪しかない。
「でもそれも仕方ないかな。だって僕は、貴方に愛される努力を怠ったんだから」
「アレルヤ……?」
 努力なんて、とニールはやっとのことで会話に戻ることが出来ようとした。
その時アレルヤはベッドの上に上体を起こして、膝をついてニールににじり寄る。
 あちらを向いている間にアレルヤは揃いのパジャマのボタンを全て外していたのか、ベッドに入る前は衣服に包まれていた筈の肌が薄暗闇の中晒された。
片手でアレルヤは下をずらし始める。
「ちょっと待てって……!」
 初めて見るアレルヤの素肌に、ニールの心臓は飛び跳ねる。
思わずニールは後ずさるがアレルヤは膝立ちでニールをベッドの端まで追いやった。
「ぼくが女になれば、ニールはぼくを抱いてくれますか?」
 いつの間に枕に隠してあったのか、下着ごと掴んで下肢を晒す反対の右手に包丁が握られていた。
 それをどうする気なんだ、と言わなくても分かっていた。
アレルヤは自らの性器をその包丁で切り落とそうとしていた。
慌ててニールはアレルヤの手から包丁を奪って、遠くへ投げ捨てる。
「おちつけ!こんな深夜に救急車なんて呼びたくないぞ!!!???」
 アレルヤの肩を抱き寄せ、本日何度目か分からないが宥める様にニールはアレルヤの頭を撫でる。
 その行為はいつもしている事とあまり変わりは無い。だがアレルヤの肌に直に触れているという事だけでニールの心臓は高鳴ってしまう。
必死にアレルヤを落ち着けさせようとするニールの行動とは裏腹にアレルヤはわなわなと震え、また涙を流し始めた。
「だってこんなのがついているから、僕はニールに愛されないんだ……」
 ニールは忘れていた。自分の恋人が、恋慕に苛まれ人を殺してしまいそうになる程の、歪んだ愛情の持ち主だったという事を。幸い今回は自分が被害者になる訳でもなかったが、それでも酷い。殺される方がよっぽどマシだ。
 抱き締められて震えるアレルヤの耳にニールは口付けを落とす。耳から頬に、おでこに、鼻先にキスをすると、アレルヤはくすぐったそうに体をよじる。すると腰がニールの腹部に触れてしまい、アレルヤの体はびくりと跳ね上がった。
「キスだけじゃ、足りなかった……?」
 わざとらしくニールは尋ねる。
据え膳食わぬはなんとやら。しかし、この流れで事に及ぶつもりは無い。
 震えるアレルヤの身体をニールが愛おしく感じている事がアレルヤには伝わらなかった。
「……俺を殺す?」
 アレルヤに愛されていると感じさせてあげる努力をしなかったのは俺の罪だ。ニールはそう続けた。
アレルヤに殺されるのなら構わないと、再会した時に告げた言葉でもある。
 しかしそんなニールに、アレルヤは首を振って否定した。
新しい未来を進んでいるというのに、自分は。
「殺すわけないじゃないか」
「アレルヤが全然普通だったから、満足してくれてるって思い込んでた。……ごめん」
 その素肌のままの背中に腕を回して、ニールはアレルヤを再び抱き寄せた。
アレルヤの肩口に顔を埋め、鎖骨の窪みに唇を押し当てる。
「ぼくを、貴方のものに、して欲しいんです」
 苦しそうに眉を寄せ、アレルヤは吐き出すように呟いた。
女という性に憧れる。ただ無邪気に彼に抱かれるその身体がアレルヤには羨ましかった。
 神話のように、凹凸を埋めるその行為が。
せめて凸を無くしてしまえば、彼に抱かれても許されるかもしれないと、その一心での出来事だった。
「だから包丁なんて持ち出したの?」
 呆れたような、困ったような、ニールは眉を下げてアレルヤの顔を覗き込む。
真っ赤に染まったアレルヤが可愛らしい。
だって分かり切った事をニールは聞いて来るのだから、恥ずかしくて仕方がなかった。
「嫌なこと、もう考えなくていいから。アレルヤだから、アレルヤのことが好きだから」
 アレルヤの耳元へ吹き込む。
そのまま首筋にもう一度キスをした。
赤いはなびらをアレルヤの皮膚に縫い付ける。
胸の間にも同じように口付け、赤い花を残す。
少しずつ下降しながら印をつけていくと、ぴくぴくとアレルヤの腹筋が揺れ動いた。
一番下の、微かな茂みの境目の近くに最後の一枚を刻んだ後、ニールはアレルヤに衣服を着せる。
 本当はぱくりとそこにあるものを口に含んで、アレルヤを蹂躙してしまいたい程愛おしさが込み上げて来ていたのだが、こんななし崩しに抱きたくない。
ひとつひとつボタンを閉じていき、アレルヤの唇で締め括った。
「こんなぼくで……いいの……?」
「どんなアレルヤだったらいいっていうんだ?」
 戸惑いながら尋ねると、ニールは迷い無くそう答えた。
それがなんだかアレルヤには気恥ずかしく思えて、ニールのその透き通った瞳から逃れるように視線を逸らすと、ふと時計の針が眼に映った。
 もう草木も眠るという時間だ。
日付はとうに変わっているのに、自分のきょう、は続いている。
たとえこのまま起きていても、あしたはきょうになって、あした、は永遠に訪れない。
その先へ彼となら、行けるのだろうか。
 明日へ。
いいや、いきたい。彼とならいける。
――そう思いたかった。
「……夢を、見たんです」
 過去の夢を。
 寝物語にするつもりは無いけれど。
「俺を殺す夢?」
「……そうなら、よかったかもね」
「そこは嘘でもそうだよ、って言って欲しかったな」
 ニールの戯けた声に、アレルヤは安堵する。
夢でも、見なくて良かった。
 たとえ本当にニール離れてしまった時、彼を殺してしまっても、今はそんな事を考えなくていいのだとニールが言ったから。
 もし本当にニールが離れてしまった時、笑顔で彼とお別れできると思えるようになりたい。
 誰かを殺すとか、自分が死ぬとか、そういうのを終わりに出来るように。
「でもね、あの日、あの事件を僕が起こさなかったら……」
 あなたとはであえていなかったから。
 だから。
「今日ね、目覚めてあなたが隣にいて、すごく安心したんだよ」
 再び巡り逢えて良かった。
 それだけは嘘じゃないから。
 明日がある。
 心を通わせている今がある。
 そばに寄り添う、未来がある。


「明日も、明後日も、ぼくはずっと、あなたがすき」

「明日はもっと、愛してるよ」

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