輝く涙
白いリノリウム一面の室内に、軽やかな言葉と声は紡がれた。
それは静かに僕の耳に届いて、両隣りに腰掛け穏やかな表情で瞳を閉じる二人に続いて僕も瞼の裏を闇に染め、そして思い出していく。
現実と塗り替えて、まずは匂いから
淡い石鹸の匂いと、汗、周囲から感じる冷たいアセチレン。
咽喉に残る苦い香りの正体は、目の前に腰掛けるお伽話の語り手がよく好むものだ。
肌で感じる回りの香りだけは、今も昔も変わらない。
しなやかな白い肌から僅かに残る石鹸の匂いは左から、鍛え上げる青年期独特の汗のかおりは右から、苦みの中に甘ったるさを含む、けむる煙草は前方から。
少しソファに深く腰掛け、眼を瞑ったまま上を向いた。
次は、声
静まる一室は物語りの語り手の声と、紙を捲るさらさらと乾いた音だけ。
聞き手は三人、静寂に呼吸を合わせて思考に沈んだ。
旋律に奏でられる物語りは甘く切ない恋物語で、少女が矛盾の罠にはまって廻廊を旅するという童話だった。
さあ次は、姿を
徐々に拓いて行く瞼は一度光に眩んで綴じ掛けるが、無理矢理にでも開けた。
ああ此所は、お伽の世界じゃなくて現実で、僕は今にも押し潰されそうになる。
もしまた彼に会えるとすれば、僕は一体どんな顔で彼に謝ったらいいのだろう。
透き通るような髪と、少しごわついた髪に頬を埋めて、隣りに座る二人を抱き締めた。

覚悟が出来る筈が無かった。
退化して行く脳は最早止められなくて、獣に戻る前の自我が闇から制止の声を叫ぶ。
二人もどうか、同じ気持ちであるように、その物語りの終焉りを聞き届けよう。
そう思う事でもっと語り手の事を受け入れられる気がした。
しかしお伽話はまだ中盤にもかかわらず、急な終わりを迎えてぱたりと本が閉じられる。

「…ごめん」

空色の輝く瞳から雫を零して、語り手はそう言い残し押し黙る。
その姿を、記憶の彼と塗り替えようと必死に瞳に焼き付ける。

「何故止める?」
「聞かせてくれ、続きを」

二人が口々に言うが、語り手は続きを物語るのを頑なに拒んだ。

「無理だ。……俺に続きを語る資格は無い」

そして一度、息を吐いて掠れた声で呟く。

「お前らの気持ちが、痛い程流れ込んで来るんだ」

だからもう、愛するのを止めてくれ。
最愛の兄はもういないのだと青白い光が告げるように。
悲痛な声を零す語り手は、もう既に何もかも無くしてしまった。
これ以上押し付けないでくれ、これ以上構わないでくれ。
何かに怯えるように、そう俯いた。

「今更……今更だ。与えられてばかりで、俺は何も」
「彼もそうだったんじゃないかな」

僕がそう応えると、語り手は瞬きを繰り返す。
その様子から動揺と驚倒がよく理解出来た。

「夢を壊すようで悪いけど、彼だって欲望に忠実だった」

だから死んでしまったんだ。
憎しみにあるがまま体を任せて、生きる事への執着はとうの昔に捨てて仕舞ったと。


「でもね、何故彼があそこまで生きれたかというと、憎しみもあるかもしれないけれど
……きっと、君を愛して、」
「お前を愛していたからだ」

言葉を濁す僕の声に被さって、今まで黙っていた二人がまた語り手を諭すように言葉を投げ掛ける。

「彼に僕達が出会えたのは、お前が生きていたからだ」
「……だから、ありがとう」
「なんだよ、それ……」

大粒の涙が語り手の頬を伝い、ぽたぽたと本のカヴァーにまるい染みが産まれた。

「重いんだよ……兄さんの愛は」

はらはらと零れる涙を拭う事すら忘れ、語り手は微笑みながらそう言い放った。
ははは、と少し笑い声を洩らして、また本を拓く。

「読んでやるよ、兄さんが終わらせられなかった物語りを」

そう高らかに、物語りを紡いだ。
その姿は荒々しくも記憶にある彼以上に生きる気力に満ち溢れ、そして気高かった。
彼の愛が今、僕達を介して語り手に触れた。
そんな気がしたんだ。




【if your end】




10/04/24 UP

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