宇宙飛行士の淡水魚はトータチス号に乗り
【2010年より愛を込めて】




目が覚めたら、真っ白の天井。
そこに張り付くまあるい蛍光灯のシェードが目に入って、一瞬ここが何処だか考えた。辺りを見回して、ここは何処だろう、綺麗な家だなあ、と呑気に、窓の外に輝き揺らぐ緑に瞳を細めた。
きっとここまで穏やかな気持ちになれるのは、このふかふかでおおきいベッドのせい。枕がたくさんあって、そのいくつかは床に転げ落ちていた。
それにしても大きい。もっとよく考えてみれば、いつもある脚の位置よりもっと遠いところに足の指。動かしてみる。
あ、自分の足の指だ。いつの間に身長伸びたんだろう。髪は心なしか短いような気がする。いつ切ったっけ。 ああそれにしても、そんなことも忘れてしまうくらいいい匂い。白いシーツにベランダの外の光が反射して明るい。外には雪が降り積もっていて、今の季節が冬だと理解した。
そんな事を考えながら、夢のような世界に微睡んでいた。


「おはよう、お寝坊さん」

後ろから抱きすくめられて、覚醒した。誰の声だろう。不安になる。しかし体は自然と振り向いて、その声の主に腕を絡めた。

「おはよう、ニール」
自然と言葉が、名前が、咽喉から漏れた。
「ははっ声、枯れてる」

そう言って笑いながら声の主であるニールに、ぐっすり熟睡してたもんなあ、と頭を撫でられる。その一連の動作で一瞬にして先程の不安定な気持ちはどこか遠くへ行ってしまった。
そして同時に訪れる喩えようの無い幸福感。じわ、と目頭が熱くなる。息が詰まりそうで、抱きしめる腕に力を込めた。

「お前が寝てるから、久し振りに朝食作っちまったよ」

震える腕を柔く解かれて、両頬を大きな掌でつつまれて見詰められた。親指で目尻に溜まる涙を拭われて、見透かされてるんだと悟る。

「今朝はサンドイッチでいいかな?我が君」

そして子供をあやすように鼻先にキスを落とし、ニールはそのエヴァーグリーンの瞳を細めて微笑む。 落ち着いたらでいいから、歯を磨いてダイニングにおいで、と彼は部屋を後にした。一気に血潮が干いたかのように、高鳴っていた鼓動は穏やかになる。横たわったまま一瞬空を見詰めた。
しかし直ぐにでも彼の声が、笑顔が欲しくなって、弾かれた様にベッドから這い出る。
箪笥から適等にセーターとジーンズを選んで着替えて、脱いだものを掴んでバスルームへと足が向く。洗濯機はまだ動いていなくて、自分のをいれて回しておいた。
赤く熱を持った頬を冷やすように冷たい水でばしゃばしゃと冷やす。顔つきは記憶にあるものとあまり変わってはいなかったが、髪は特に前髪が短くざんばらになっていた。あまり記憶は定かでは無いが、自然と体が動く。
なにより、自然と漏れた彼の名がとても大切なものだと感じた。だからここは、危険な場所では無いのだと思う。カラン、とガラスのコップにオレンジの歯ブラシが横たわった。


「ほら早く、座れって。冷めるだろ?」

空調でぬくぬくと温まった清潔感漂うダインングには、二人用にしては大きな白い木目調のテーブルが鎮座していた。その上ではコーヒーが二つの白いマグの中で湯気をたてている。
マグの横に四角い皿には、食パンを半分に切った三角のサンドイッチがみっつ。
備え付けの椅子に腰掛けてぺろ、と食パンをめくってみると、ハムとこんがり焼けたベーコン、レタスにきゅうり、それとトマト、崩されてマヨネーズと和えたたまご。…美味しそう。

「お前の口に合うといいけど」

そう言って彼は大きな口をあけてサンドイッチを頬張った。彼のサンドッチから目玉焼きがちらりと覗いた。わざわざ自分の為に作り分けてくれたのだろうか。

「あれ?お前たまご潰す派で合ってたよな?」

どうしよう、嬉しい。嬉しさでただこくりと肯くしか出来なかった。何が嬉しいのか分からないけれど、とにかく嬉しい。よく知らない筈なのに、彼に自分の好みまで理解されている。
恥ずかしさを隠すように、彼の手作りのサンドイッチを口いっぱいに頬張った。勢い良く飲み込んだら咽喉に詰まって、慌てて近くにあったマグを手に取る。

「あっおい水がある……って!」

ぐい、と呷るが、思いの外熱かった。そりゃあ湯気が出るくらいだからあたりまえか。反動で噎せ返る。一息付いてから彼に手渡された冷たい水を飲み火傷した舌を冷やした。

「どれ、舌見せてみろ」

テーブル越しに彼が立ち上がって腰を曲げる彼に唇を触れらた。べ、と痺れる舌をさし出すと、こりゃ真っ赤だなーと指先で舌先をつつかれる。ひりひりして痛い。反撃だと、ぴりぴりと熱を持つ舌で指を包み込んで、ぱくっと魚のように食いついてやった。

「やめろやめろ、俺の指は餌じゃない」

くすぐったいのか、彼は笑いながら指を引き抜く。ちゅぽん、と唾液で濡れた音がした。
「お前のごはんはこっちだっつーの」

そう言って濡れた指を舐め取ってからサンドイッチを掴み、目の前に突き出す。これは僕のじゃなくて彼ので、少し躊躇したが悔しいので食らい付く。やっぱり見た目どおり、美味しかった。

「たまには目玉焼きも美味しいだろ?」

そして頬杖を付いて微笑む彼に、自分のサンドイッチを掴んで腕を伸ばした。すると彼は僕の様に戸惑いもせず、それを享受しぱくりと食べてしまった。

「ん、たまにゃあ潰したゆで卵も美味しいな」

口の端についたマヨネーズを拭って、彼は満足したように自分のサンドイッチにかぶり付く。僕も自分のサンドイッチを食べる。今度は咽喉に詰まらない様に、ゆっくり噛んで嚥下した。


「ねえニールそういえば、今日仕事は?」
「今日は会議だけーだからこんな時間でも大丈夫なんだ」
合間合間にコーヒーを啜る彼に訪ねる。今日が何日か解らなくて、ついでに日付も聞いた。
「3月1日だよ」

すこしはにかみながら、彼は答えてくれた。…何年のだろう。今の僕の年齢は解らず、ああ、そういえばと一昨日は自分の誕生日だったのでは無いかと思い出したが、残念ながらこの部屋にカレンダーらしきものは見当たらなくて、先程彼が付けたテレビには今日の天気を伝えるアナウンサーと晴れのマークしか映ってなかった。
彼は最後にもう一度コーヒー呷って完全に飲み終えたのを確認して席を立つ。ネクタイを握りバスルームへと向かった。そろそろ家を出る用意を始めるようだ。僕は彼に置いてけぼりをくらい、同じく彼に置いて行かれた食器を見詰めた。どうやら食器を洗うのは僕が担当のようだ。まあ朝食を作って貰ったのだから、それは当たり前か。
「じゃあ、行って来ます」

そう言ってつま先を整えながら玄関に立つ彼の横で、靴紐を結ぶ。あまり上手に結べなくて、結局彼に結んで貰った。駅前までなだらかな下り坂を二人で歩く。既に雪はギシギシと音を立ててて灰色に塗り潰されていた。公園には小さな雪だるまがいくつかあって、一個だけ大きな雪だるまがベンチに座っていた。
駅前の小さなカフェは茶色いレンガに土壁という少し寒々しい風貌で、しかし壁に力強くしがみ付く蔓草は、まるで何も知らずにここに立つ僕のようだった。二人は名残惜しくも別れて、彼は駅の改札を抜けてホームに消え、今頃寒そうに手をすり合わせている頃だろう。
かろんと木鈴の軽い音が鳴った。薄暗い、席も少ない小さな店。僕は迷い無くカウンターの奥へと消えた。
着ていたコートはロッカー奥のハンガーにかけて、隣に置いてあった黒いギャルソンエプロンを身に纏う。
そしてカウンター内の高めの椅子に腰掛けた。
何をするでもなく窓の外を見つめる。今朝と一緒だ。違うのは、今居る場所と窓の外の風景。人々が忙しなく行き来を繰り返す駅前は立地的には好条件だが、いかんせん狭い。とにかく狭い。
間接照明を多く使っているこの部屋の中は明るく、中からは綺麗に外の様子が伺えた。
視線を室内で回すと、探していたカレンダーが目に入る。まだ2月のページが残っていたので破いておいた。今日は2010年3月1日、月曜日。一昨日の日付にはアレルヤ、そして明後日の日付には赤い丸印の下に「ニール誕生日」と小さく書かれていた。
……誕生日なんだ。
生憎カフェには誰も来なくて、室内の掃除もしてしまいする事がない。思いつき半分で、ケーキを作ってみようと思った。
幸運なことにここには材料と器具があった。まるで誰かが彼に作るように、と置いていったかのように。ご丁寧に解りやすく書かれたレシピまで。
今の今まで穏やかなままだった鼓動が急に跳ね上がった。
レシピの下に手書きで、「明日こそ、ちゃんとニールに好きって言おう」の文字。
誰の字かなんてすぐに解ったのに、それがとても憎らしかった。ああ、何故。きっと字の主はずっとニールの事が好きだったのだ。
恐らくニールも字の主の事が好きだろう。ああ、何故。なぜ僕は、字の主の記憶を持たないのだろう。
ニールが誰だか知っている筈なのにその確証が持てないのが酷く辛かった。

「本当に貴方は、ニールでいいの?」

カレンダーの2010の文字は、腹立たしくも0も1も忘れてはくれなかった。
でももし僕がその字の主自身で無いと解ったら、果たして彼は記憶を無くした僕を許してくれるのだろうか。
僕ならきっと許せない。愛しい人の体にまったく知らぬ人間が入ってるなんて。
でも、僕はその2010の文字に少しだけ願いを掛けた。
どうか彼が、ニールが、僕の愛しい彼であるように。そして彼が、僕がニールを好きになってしまいそうな事を、どうか許してくれますように。と、
しかし今の僕には何もする術が無い。
あるとすれば、今はこの字の主、アレルヤの振りをする事。アレルヤの為にニールにケーキを作ってあげること。アレルヤの代わりにニールに思いを伝えること。僕も"アレルヤ"だけど、アレルヤがニールの事を好きな事を理解してあげることは出来た。
行き場の無い憎しみは水に溶けて、流してしまおう。
レシピを見つめながら悪戦苦闘する。料理は出来るけれどお菓子なんてまったく作ったことが無い。
それでも黄金色に焼けたシフォンに綺麗にクリームを塗りつけてホイッピングする。その上には少し早い苺を乗せて、溶かしてまた板状に象ったチョコレートに、ホワイトチョコでHAPPY BIRTHDAYの文字。
臨時休業の看板を下げていなかったカフェには5,6人程客が入ったが、作業の合間だったのでなんとか無事に完成することが出来た。
PM7:00、飾り付けに必死になっていたお陰で少し閉店時間が延びて、僕は急いで既に組み立てていた箱にケーキを崩れないように入れて店を片付けて出ようとしたが、扉の鈴が鳴る。
もう閉店、と言おうと出入り口を見れば、そこにはマフラーをしたニールが立っていた。
そういえば今日は、会議だけって言っていた。どうしよう。

「ごめん、会議だけだったんだけど色々あって長引いて…まだ開けてたんだな」
「ニール…、うん、今閉めようとしてたの」
「何それ、ケーキ?」

匂い立つ甘い香りに惹かれたのか、辺りを見回しながらニールはカウンターの前に立つ。お客さんなんて、夕方に来たっきりだった。カウンター内を覗かれて問われ、こくりと頷く。どうしよう、折角箱に入れて、こっそり渡そうと思ったのに。

「あー…聞くけど…誰に?」
指を指す。あなたにです、と。恥ずかしくて声は出なかった。顔も伏せたままで、じっと黙る
「!!! 嘘、まじで?!ありがとう!!」

彼のオーバーなアクションに、顔を上げると信じられないといった顔で彼は顔を押さえていた。あまり綺麗に出来なかったのは残念だけれど、喜んでもらえて嬉しい。なんせ1ヶ月も前から計画されていたものだ。…美味しくなかったら、僕のせいだけど。

「あのさ、御礼といっちゃなんだけど、今度は俺からお前の誕生日祝いたいんだ」

だから誕生日教えてくれないか?なんて彼に言われて、今度は僕が嬉しくなってつい笑顔が零れた。でも、ふとした疑問が浮かぶ。

「言ってなかったんですか?一緒に暮らしてるのに?」
「だってお前、変なとこ秘密主義なんだもん」

……たしかにそうかも、と思ってしまった。ああ、やっぱり"僕"はアレルヤ自身なのかもしれない。なんだか変なところで安心してしまい、ふふっと声を漏らすと、彼がなんだよ教えてくれないのかよ、とでも言いたそうに不服な顔をしていた。

「ごめんなさい。……2月、2月27日です。だからもう終わっちゃいましたけど」
「ええ、そうなのかよ……。・・・・・・・・あっ」

もう終わってしまったと伝えると、がっかりしたように彼は肩を落とした。しかし少し考え込んだ後、何か思いついたように声を上げた。

「じゃあ、今日。今、ずっと言いたかった事を言うけどいいか?」

少し改まって、彼は真剣な瞳でこちらを見詰める。
それまでカウンター越しで話していたがその真面目さに答えるように、エプロンを解きカウンターの向こうにいる彼の前に立った。二人の間に静寂が瞬間漂う。その静寂を押し切るように彼は言葉を繋いだ。
「なんだか、改まって言葉に出すの恥ずかしいんだけど。俺ずっとさ、お前のこと好きだったんだよ」
気付いてた?と聞かれ、うん、と答えてしまった。だって今朝始めて出逢ったのに、解ってしまったのだからきっとお互い以外は分かっているのだろう。

「"僕"は、あなたの事がずっと、好きだったよ……」

これは僕からの心の声だった。
心のどこかで彼が「ニール」であると理解している。しかしそれと同時に、ニールが彼であると判断できる材料は、僕の記憶にもこの街にも、何処にも無かった。その瞳だけが物語る、彼とニールの繋がりを掴み取ろうと僕は必死に足掻くだけで。

「本当か?じゃあこれからもずっと一緒だよな?」

そんな事を僕が考えてるなんて彼は知らずに、まるで子供のように喜びを表す。その笑顔は僕の朧げな記憶に翳る彼の笑顔と一緒で、僕はまた今朝のように目頭が熱くなった。

「……うん、だからこれから、も。よろしくお願いします、ニール」

朝目が覚めて、一瞬で。僕はまた彼に恋をした。




【if your end】




10/03/01 UP
過去より愛を込めて、現在の二人へ

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