小説 | ナノ


▼ 土方十四郎 / Ag


Norwegian Wood

寒い。
屯所の縁側なんて、冬場の深夜に歩くもんじゃない。
無精者たちが半端にしか雨戸を閉めないから、冷気が容赦なく入ってくる。
先ほどまでいた暖かな部屋が恋しい。

外がやけに明るい。
雨戸の隙間を見遣ると、南の空に半端に欠けた月があった。
あの月が顔を出す頃から書き物を始めたのだから、今晩もよく働いたと思う。
遠くから二つ、食堂の柱時計の遠慮がちな鐘の音が聞こえた。
寝静まった部屋を尻目に、今宵も、書類片手に副長の部屋へと向かう。



「副長、名字です。」

入れ、の声に明障子を引く。

「…副長、ヒーター付けてもよろしいでしょうか」

こちらを見ずにうるせぇと吐き捨てた副長の出で立ちは、
いつもの着流しの上に藍地の綿入れ半纏をはおり、
炭が申し訳程度に燃える火鉢をそばに引き寄せ、橙地に朱の格子模様の入った炬燵に足を突っ込んでいる。
まだまだ残業中のようで、天板の上と周囲には書付けやら綴りやらが散乱している。

一昔前の苦学生のようで、そんな格好をするくらいなら、
きちんとした暖房を付ければいいのにと思う。
安っぽい火鉢で取れる暖なんて、たかが知れている。

「あったまりすぎるとぼーっとして頭働かねぇんだよ」

「一酸化炭素中毒で死にますよ」

「そういやこないだあったな、浪士が車で排ガス自殺」

「はい。これがその報告書です」

急ぎだと言って、夕食後に一番隊に持ち込まれた書類を差し出す。
それを左手だけこちらに向けて副長は受け取り、机の上に乗せる。
天板には空いたスペースなどないに等しいから、紙束の上に紙束が重なり、
白い山がまた一段、高くなった。



副長は基本的に仕事の愚痴を言わない。
隊長の過度の破壊行為は別であるが、
基本的にどんな仕事であっても「おぅ」の一言で引き受ける。
両手いっぱいの書類を抱えて訪ねても、締め切りと提出先だけ聞いて、
「ご苦労さん」で隊士を下がらせる。

以前、大変ではないですかと聞いたことがあるが、
「見合うだけの給料は貰っている」と、手元の始末書に目を落としたまま返された。
聞きようによっては高慢ちきこの上ない台詞も、何でもない風にさらっと言ってのけるもんだから、
非常に格好よかったのを覚えている。

そのかわり、下の者に仕事を回すときも容赦はない。
近頃は特にうちの隊に、「報告書、朝までに仕上げろ」などの一言二言で、無茶苦茶な仕事が下りてくるようになった。
一番隊は隊長をはじめとして実戦向きの人間の多いところだから、
結果、少しだけ器用な私ばかりが、作文をしている。



「副長はまだお休みにならないんですか」

「この紙の山を見ろ。まだまだ夜なんて来ねぇよ」

おまえ暇なら、と、副長が私を見上げる。
この夜、初めて副長の目に私が映る。

「暇ならその辺の書類、綴っとけ」

こちらを左斜め上に仰ぐ顔は、隈のせいで眼光がいつもより鋭く見える。
炬燵に火鉢という和やかな調度品と、これほど似つかわしくない表情も知らない。
全てを見透かすような散瞳に肌が粟立つけれど、
そんな魅惑的な目に自分が映っていると思うと、やっぱり私は帰ろうにも帰れなくなる。



畳の上に直に座っていては、足から氷の根が張りそうなほど、この部屋は寒い。
わざわざ立ったり座ったりをして体を動かしながら、副長の真後ろで書類を片付けていく。

夜更けに手伝いをすることも珍しいことではなく、
ただただ機械的に手先を動かすことも、少し頭を使って書き物をすることも、
余計なことを考えなくていい分、外勤の仕事より楽だと、最近は思う。
剣道は好きだけれど、人を斬るのが好きかと聞かれれば、
私は正常な神経の人間だから、はいとは言えない。

つまりこうして忙しい副長に使われることは、自分の息抜きになっている。
次々と紙の綴られる手元を見ればいつの間にか、竹刀だことペンだこの同居する、でこぼこの手のひらになっている。



それにしても、寒い。
二穴の開いた書類にひもを通す指先が、言うことを聞かなくなってきた。
副長は本当に寒くはないのだろうか。
何事かに熱中していれば、文字通り暖まってくるものなのだろうか。

「半纏、もう一着ないですか」

「ない」

「誰か来たら、こんな寒い部屋で凍死させる気ですか」

「もう夜更けだ、報告の隊士しか来ねぇ。寒けりゃ、茶くらいなら淹れてやるよ」

声色に変化はなかったけれど、寂しいですかと、思わず問いそうになった。
友人が欲しいとお菓子を用意して待っていたのは、黒色の鬼ではなかったはずだけれど。
そんなことを言っても、強がりしか返ってこないのはわかっているから、目線だけを背中に送る。
藍色の後ろ身頃には、小さな綻びがあった。



ぱち、ぱちと、火鉢の炭のはぜる音。
ぱさりぱさりと、乾いた紙をめくる音。
部屋に流れる音はそれきりで、全ては半纏と炬燵布団の厚い布地に反響して、ぼんやりと空中に散らばっていく。

自室で仕事をしている、それは昼間と変わらないことなのに、
夜半を回って、蛍光灯の薄い光の下にいる副長は、頼りなくて無防備で、私は辛抱がたまらなくなる。
人気のない寒い部屋で、
小さな天板に前のめりになって、炬燵をしっかと抱き込んで、
その中にしかあたたかいものがないと思っている男を、思いさま抱きしめたくなる。



筆を置く。
左手で煙草のボックスを引き寄せる。
一本咥えて、右手のライターで火を点ける。
白い煙を吐いて、ほつれ目を隠すように、副長はこちらを向いた。



「飲むか?茶請けもあるぞ」

「いえあの、副長。右手、見せてください」

「なんだ、手相か」

「違います、とにかく見せて」

煙草を持ち替えさせ、冷え切った右の手をやんわりと開かせる。
そっと中指の隆起に触れると、「はっ」と軽く笑われた。

「侍の手じゃねぇな」

「わたしだって、同じです」

必要以上に盛り上がった指。
この人が、昼も夜も皆と一緒にいた頃は、きっとこんなものなかっただろう。
形の変わってしまった、指。

「一番隊に回す書類仕事、最近多くないですか」

「だったら文句あんのか」

「内勤のできる、私がいるからじゃないですか」

意を決して一呼吸置いて、きっと副長に睨みを利かせると、瞬間、触れていた副長の右手が強張る。
大事なことを言うのだから、こちらの真剣さが届いたのは嬉しいけれど、
こんなことで動揺するなんて、やはり夜の副長は頼りがない。

「私を、副長補佐にして、そばに置きませんか」

無防備な部分を脇差で鋭く突く、そんなつもりで発した言葉は、
少なからず鬼の心に何かを与えたようで、険しい黒目が幾度か揺れた。



私に右手を触れさせたまま、煙草を挟んだ左手で灰皿を引き寄せ、副長は器用に灰を落とす。
次の言葉を待つ私には、時間が永遠のように思うけれど、巻紙はなかなか短くはならない。
一息入れてにやりと笑って、副長は口を開いた。

「お前を引き抜いたりしたら、働く奴がいなくなるって一番隊の連中が泣くぞ」

「寝ようって段に急ぎの書き物を回されることがなくなって、彼らもほっとすると思います」

「お前を横取りしたって、総悟に泥棒猫扱いされるのもいただけねぇ」

「…そこは副長の倫理観と理性次第かと」

「馬鹿言うなら、部屋戻って寝ろ」

「私、明日は非番です」

「そりゃいい。俺の代わりにゆっくり風呂入って休め」



副長室を出て、雨戸を開け放って空を眺めると、見事に有明の月になっていた。
薄水色の透明な世界の中で、朝靄と同じ色の月が、西の空に浮かんでいる。
刺すように冷たいのは数時間前と変わりないけれど、精彩ある夜明けの空気は細胞に心地よい。
冷気を思いさま吸い込んで深呼吸をして、溜め息を隠す。

結局はぐらかされてしまった、と思う。
うやむやにして、仕事から、寒いところから、副長は出て来てくれはしなった。

夜の月の美しさも、早朝の大気の清々しさも忘れてしまった、そんな副長は見たくないのに。
きちんと寝てもらいたい、それが叶わないなら、せめて誰かを隣に置いて時間を過ごして欲しいのに。
あの人はいつまで自分一人で、全てを抱え込もうとするのだろう。
私の思いは、叶わないのだろうか。

朝の早い雀が一つ、鳴きながら空を飛んでいく。

So I lit a fire.

受け入れられずとも、今夜私の告げた言葉が、彼を少しでも暖かくしますようにと。
自分を想う人間がいることを、知ってくれますようにと。
ひとりぼっちは、寂しいから。


written by 紅霞





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