▼ トム・リドル,ヴォルデモート卿 / hp
Golden Slumbers
それは、ある街を燃やしたときだった。火を放つという逃げ道の残る方法でマグルを殺すことをヴォルデモート卿の配下の何人かは反対していたが、彼自身がその方法をしばしば取った。火が燃え盛るのを、ヴォルデモート卿は鎮火を許すまで眺めていた。
悲鳴や命の途切れる気配が静かに絶えてしばらくしてから、火はひとりでに淡くなって消える。あとには何もない野原が、そこで火が放たれたとは思えないほど青々と緑を茂らせている。今はその緑も暗闇に紛れて青味のある色をしているが、明朝になれば街がひとつ忽然と消えたことがマグルの話題に登るだろう。何の事件のかけらも持たない草原だけが報道陣を出迎える。
夜の闇が、全ての音を吸収していた。彼は黙っていた。
「わが君、」死喰い人の一人が、そう話しかけるので闇は震えて霧散する。ただの夜が彼らの周りに満ちるだけになった。
ヴォルデモート卿は舌打ちをして、振り返る。その舌打ちは誰にも聞こえないままだった。
一人の女を捕縛して、マスクをつけたままの死喰い人が立っている。ヴォルデモート卿は身振りでマスクを外せと命じた。慌てたような動きでマスクが霧のようにかき消える。ヤックスリーの息子だった。背が高いので、女を軽々と片手で操るように連れてきたらしい。
女は黒い髪をしていて、うつむいている。顔は見えないが細い手足が印象に残った。
「魔法使いです。なぜここにいたのか聞き出そうとしましたが、何も言いません。どういたしますか」
「殺せ」
短い彼の言葉に、女の肩が動く。ほっそりと華奢な肩だった。ゆっくりと顔を持ち上げる。夜の色に髪が紛れて境が分からなくなっていたが、動くと髪の流れる音が聞こえるような気がした。青ざめたように白い肌が浮かび上がる。
顔が見えた。
「よせ」
瞬間、彼はそう口走った。
ヤックスリーはすでに女を殺しそうな姿勢をしていて、自分の主君の突然の翻った命令に動きを止めた。
けれども、ヴォルデモート卿自身はそんなことに構っている余裕を持ち合わせていなかった。瞳が女の顔に固定されたように動かない。
名字 名前
もう何年も聞いていないし、口にしたことなど一回もない名前なのに、簡単に諳んじることができた。
名前。
「名前」
三度目は思わず、口に出た。ヤックスリーに腕をひねり上げられたままの彼女は、予想もしない事態に困りきったヤックスリーから逃げることもできないまま目を細めた。
悲しそうな顔だった。
ヴォルデモート卿が指を振るう。ロープで引っ張られたようにヤックスリーが尻餅をついて、彼女の体が開放された。彼女の脚は小鹿のようによろけて、草の上に倒れ込んだ。支えたいと思ったが、動けなかった。
彼女はふるふると上半身を起こす。それをただ見ていた。コーデュロイのキルトのようなワンピースに、砂がこびりついていた。
そのまま、彼女が力を振り絞って逃げるような動作をしたのでそこでようやく、彼は動くことができた。
「逃がすな」
そう命じることが精一杯でしかなかった。
* * *
名字 名前はアジアの魔女だった。墨をぶちまけたような髪色をして、あまり英語が達者ではなかった。同学年の生徒よりも遥かに小さかった。レイブンクローの生徒で、成績は並か、その少し上といった程度である。学校歴には、卒業生徒としてしか名前が残らないだろう。
彼は、名字 名前が欲しかった。
ヴォルデモート卿の記憶の中の名前とあまり変わらない少女のような女が、彼の自室の中にいた。窓際に設置されたソファの端に体を丸めるようにして座っていて、全身から警戒がみなぎっている。まだ、何も話をしていなかった。
卿自身は離れたところで椅子に座って、名前を見ている。それがまた彼女の緊張を煽るようで、ますます彼女は身を縮める。泥がついたままのワンピースを、彼女は脱がない。
「名前、」
彼から話した。彼の声は部屋の空気を切り裂いて、二人の間に溝を通した。彼女の髪が震えた。
「……どうして、わたしを殺さないんです」
名前の声はもう何年も聞いていなかったはずなのに、何も変わっていないような気がした。ヴォルデモート卿はこんなに変わってしまったのに、彼女は何も変わっていなかった。清廉な声が、彼の全てを浄化したような感じだった。足元に齧り付いて、全てを洗いざらい吐き出して、全て彼女の胸の中に託してしまいたいような思いがする。
彼女の瞳がこちらを見ていた。黒くて丸い、温厚な生き物の目をしている。
「きみは殺したくなかった」
「どうして。魔女だって、あなたはたくさん殺しましたでしょ」
「分からなくていい」
彼女は自分のことなんて覚えてやしないだろう。たった少し、声をかけただけの男のことなんて忘れているに違いない。何を言ったかも、どんな場面だったかも。そのたった一回の遣り取りで、闇の帝王がこんなに動揺して、今でもその動揺が収まっていないなんて想像したことすらないはずだった。
「あんな酷いことをなさったのに……」
彼女は見ていたのだろうか。どんなに力を尽くしても消えることのない魔法の炎が街を飲み込んでしまうところを全て。
名前はまた折りたたんだ脚を胸に引き寄せて小さくなった。指先が白くなるほど力を込めている。彼女が怯えていることが容易に察せられて、どうにかしてやりたいと思うのに、彼女を怯えさせているのは他でもない自分だった。
「殺してください。あんなつらいところからわたし一人だけのうのうと生き延びるなんてできない」
「断る」
「どうして。わたしみたいな女一人くらい、あなたならばたやすく殺せるのに」
「もう、その話は聞かない」
卿が立ち上がると、名前は肩を大きく揺らしてさらにソファの端に寄った。殺してくれと言っているのに殺されるのが怖いのだろうか、と疑問に思ったが、彼女はただ自分から逃げようとしているだけなのだと気がついた。
自分がいると、名前は怯える。
彼は歩いて、扉に手を掛ける。ここにとどまって彼女と同じ空間にいたがる体が重い。床に一面に敷かれた絨毯が足にからみつくようだった。
「何か欲しいものがあったら、声を掛けるといい。誰かが聞く」
「いりません。わたしを殺して」
「聞かないと言ったはずだ」
名前が声をたてずに、ただ涙を流して泣く。頬につたっている雫が、部屋の照明に照らされて輝いていた。ヴォルデモート卿はその景色から目をそらす。
部屋を出て、扉を閉めた。彼女の鳴き声が後ろから聞こえるように思われて、背中を扉に預ける。
「泣くな」
闇の帝王ヴォルデモート卿の言うことなど、名前は絶対に聞くわけはないと知りながら。
闇の帝王が生き残りを生きたまま捕らえてきて、拷問にもかけずに囲っているのは今までにない事態であったものだから、死喰い人たちは動揺した。
主君が部屋から出てきたのを見て、死喰い人たちは一斉に頭を下げた。
「彼女が何か欲しいと言ったら、用意してやれ」
主の命令ながら常にはないものを感じて誰かが一人、声を上げる。
「生かすのですか」
主君は答えなかった。
* * *
秘密の部屋を開けて生徒を一人殺したあとだった。その事件が原因で、ホグワーツが閉鎖する可能性があることをリドルが知ったときである。彼は廊下を歩いていた。長い廊下だった。もういっそこのままずっとこの廊下を歩き続けて、寮に着かなくてもいいと思っていた。長い石壁の廊下の先が見えなかった。
「ミスター」
誰かが声をかけたので、リドルは立ち止まった。つもりでいた。
声のした方を見ると、自分よりもずっと小さな背丈の女子生徒が自分を見上げていた。黒い瞳と真っ向から目が合って、心臓が収縮した。
「ずっと立ち止まっておられたから。体のお加減が悪いのですか?」
レイブンクローの生徒だと、ネクタイの色で分かった。自分よりも小さいことと、アジア人だということと、声がちょうどよくやさしい具合の高さであることも。そして今、自分を心配して声をかけたのだということも全てようやく理解して、理解したのに、リドルは何も言うことができなかった。
「先生をお呼びしますか?」
彼女がさらに何かを話した。リドルは首を振った。
彼女は何年生であるかわからなかったが、女性というよりも少女といったほうがしっくりくるような幼い体躯をしている。抱きしめたら折れて死ぬだろうか。
そう考えたら試してみたくなって仕様がなくなって、まるで倒れこむように彼女の腰に両腕を回した。彼女はわっと小さく声を上げたが、どうにか踏ん張って倒れずにリドルを受け止めた。彼は誰かに受け止められる感覚を初めて味わった。誰かが自分が倒れ込んだときにその下で避けることなく立ってくれていて、受け止めてくれる経験などしたことがなかった。
冷え切っていた制服を通して彼女の体温が感じられるようになって、リドルははっとして体を離した。その動きがあまりに突然だったからだろうか、彼女は驚いた顔をしたまま、リドルを見た。
自分の心臓の音が聞こえた。自分の鼓動なんて制御する方法を知らない。自分の体温の上昇を感じた。自分の体温なんて操作する方法を知らない。動揺が全身を駆け抜ける。
「ごめん」
何にそう言ったのかも分からないままリドルはそう言い残してその場を離れた。
知っているだけだった謝罪の言葉を、初めて正しい心で使ったように思った。
あのあと、彼女がどうしたのかは知らない。
あのあと、リドルは彼女の名前が名字 名前だと知った。
* * *
名前、とあの黒髪を見かけるたびに何度も呼んだ。心の中の喉が切れてしまうのではないかというくらいに呼んでも、彼女は来なかった。実際に呼んでいるわけではないのだから、当たり前のことだった。夢の中でひたすら、彼は自分を受け止めるあの体温を追いかけた。夢の中でも、自分はあのあたたかさを名前と呼んでいた。
「名前」
ソファの上に相変わらず座ったままでいる彼女がこちらを振り向いた。何も口にしないと報告を受けて2日ぶりに顔を見たのだったが、青ざめた顔は今にも倒れ込んでしまいそうなほど哀れでしかなかった。こんな緊張状態でずっと眠りも満足にしていないというのだから、仕方のない話だった。
「食べたくないのか」
答えなかった。ただ彼女の瞳が、ヴォルデモート卿にひたすら自分を殺して欲しいと訴えている。彼が世界で唯一殺せない人間だというのに、彼女だけがヴォルデモート卿に殺されることを切望した。
痩せてしまっても、名前の清廉さは何も失われなかった。学生時代に自分を受け止めた体が生きて、自分のことを見ている。ヴォルデモート卿には清廉さなんてもう少しも残ってはいなかった。
「名前、」こんなに彼女を呼んだのは、生まれて初めてだった。彼女がそれに反応するのも初めてだった。
もう疲れきってしまって、体を動かすことが自由ではないのだろうか。名前はあまり動かなかった。
名前がかわいそうだった。
ヴォルデモート卿は、彼女が食事をとらないと報告にきた死喰い人をさがらせた。そして、彼女の座るソファの前に立つ。こんなに名前の近くにきたのは、学生時代のあの日ぶりなのではないかと思った。
膝を折って、彼女に視線を合わせるように腰を落とした。名前の瞳が怯えと疑問を綯交ぜにして揺れる。そのまま、名前の腰に両腕を回した。あの日よりも、細く感じた。
体温もずっと低い。衰弱した一人の女を、もはやただのトム・リドルという男になって、彼は抱きしめる。腰を引き寄せるだけでは足りなくて、彼女の肩まで腕を伸ばした。名前の体を自分のローブの中に包み込んでしまう。名前の冷たい体に自分の体温を移すようにからだを密着させる。縋り付いているようなみっともない格好だと思った。自分はこんなにみっともなくなれるほどに、名前が欲しかった。
「名前」
彼女の耳元で囁きかける。「きみをずっと見てた。だから、私にはきみが殺せない。でも、名前、きみが苦しむままでいさせたくない」
それから強く抱きしめて、彼女の顔を見なかった。そのまま、杖を名前の背中にあてる。唱える呪文は決まっていた。
「オブリビエイト」
* * *
一ヶ月に一度、死喰い人の一人が報告を寄越してくる。彼は、名前がずっとうずくまっていたソファに座りながらその報告に目を通す。体温なんてもう残っていない。ソファの隙間に少しだけ、泥がはさまっているだけだ。
そしてその実、彼は街を燃やし続ける。火が家を舐めていくさまを見つめ、満足する。散り散りになった肉片を求めて、マグルの村へ赴く。何も疑問は感じない。
けれど、
「名前」
私はいつだって喉が張り裂けそうなほどきみの名前を呼んでいる。だけど、振り向かなくたっていい。
私は、きみが私を受け止めてくれる夢の中で我慢しつづけるから。