小説 | ナノ


▼ 折原臨也 / drrr!


Nowhere man

 朝起きた時から、おかしいとは思っていた。
 軽く咳をして首を回し、ここのところ忙しい日が続いていたしな、体が怠いのは寝不足と上がりきらない血圧のせいだろう、と自分を誤魔化しながら家を出た。思えばあの時朝食だけでもしっかり摂っていればこんなに悪化することもなかったかもしれない。
 独り身の男にしては健康に気を使っているつもりだが、一度何かに熱中すると寝食を忘れのめり込んでしまう癖はいつまでたっても治らなかった。生理現象をテンションで凌駕するには、もう若くないということだろうか。

 出先で買った市販の痛み止めはものの数時間で効力を失った。エネルギーを補給しようにも時すでに遅し、食欲などひとかけらもなくなっている。しかし仕事相手にそれを悟られるわけにはいかない。
 幸い本日のアポイントメントは一件。どこぞのブラック企業に委託されたこのデタラメな商談を終わらせれば家に帰れる。と思っていたが、向こうの担当者が思いのほかお喋りな馬鹿野郎だったためずいぶん長引いてしまっている。こんなことなら午前中、わけもなく街をぶらつくんじゃなかった。

「ではこの件、あとは一旦持ち帰って頂いて……」
「あー持ち帰ると言えばね折原さん。知ってます?ヒカリエに新しく入ったジェラート屋のあれ、美味しいんですよ、お持ち帰り用袋もかわいくてね、僕なんか甘党だからつい買って帰って、でも丸ノ内線て揺れるし混むでしょ?車内暑いしさぁ、でもやっぱり新しい味出るとついねえ」
「……わかります」

 いつまで関係ないことを喋るつもりだこの男は。何がジェラート屋のお持ち帰り袋だ。ああ帰りたい。怠い。眠い。殴りたい。

「でね、ジェラートと言えば僕サッカー好きでね。この前なんかも嫁さん連れて国立まで行ったんだけど」
「ええ、はい。わかります、わかります」

 正直何もわからない。この男の思考回路はどうなっているんだろう。何故案件を一度持ち帰り煮詰めて欲しいという話からヒカリエのジェラートを経由して欧州サッカーリーグの現在の話をしているのだろうか。これは俺が風邪で頭をやられているからわからないのか、この男の致命的な会話構成力のなさなのか。
 普段なら興味深く観察するはずの相手の非凡さも、今はひたすら不快でしかない。とにかくしんどい。つらい。なんだか悲しくなってきた。

「──なんて言ってたらね、ほんとにそこに三浦さん来ちゃって。もう俺大慌てよ。でもあるんだよなあ、そういうこと……え?なに、時間?次の取引き?」

 三浦さんって誰だ。俺がそう思っていた時、さすがに見兼ねたのか背後に控えていた部下が彼に耳打ちをし、不毛な会話は中断する。俺は気付かれない程度に息を吐いた。
 どうやら先方はこの後も予定が詰まっているらしい。興をそがれた男は少し不服そうな顔をしたが、咳払いを一つして立ち上がった。助かった。これだけ話しておいて何が不満なのかは知らないが、三浦さんの話は次の仕事相手にするといい。

「では折原さん、この件は一度持ち帰らせて頂くよ」
「ええ。是非そうして下さい」

 まるで今思いついたかのようにそう言うと、彼は部下を引き連れてさっそうと帰っていった。大きなため息をつき少し目を閉じてから、自分も立ち上がり部屋を出る。
 ここから自宅までは対した距離もなく、普段ならスキップでも帰れるが今日は断然タクシーに乗りたい気分だった。

 革張りのシートに揺られながら考える。おそらく家には何も食べるものがない。食材は申し訳程度に冷蔵庫に入っているかもしれないが、この体調で料理などできるわけもない。かといってコンビニに寄って適当なものを見繕う余裕もなかった。いち早く自宅のベッドへ倒れ込みたい。もはや軽く吐きそうだ。
 風邪を引いた弟の面倒をみると、張り切って休暇届けを出した波江が、上司の風邪のために職場へ戻ってくる可能性はゼロだった。それは俺が嫌われているからとかではなく、条件が不利すぎるのだ。もしかしたら、この風邪は波江にうつされたものかもしれない。誠二くんのウイルスを君が媒介したんだと言えば、少しは可能性があるだろうか。いや、ない。
 例えこれで俺が死んでも、彼女は爪の先ほどの後悔もしないだろう。弟の風邪が長引けば葬式にさえ来ないかもしれない。

「う……くそ、なんて酷い女だ」

 弱っているせいか、周囲の人間が日頃から俺に対して冷たいという事実が無性に身に沁みた。ふざけている。不遇だ。不当だ。誰か俺に優しくしろ。
 しかしそんなことをタクシーの運転手に愚痴っても仕方がないので、お釣りはいいですと告げて車を降りる。自分のマンションがいつもより大きく見えて、昇るのがおっくうだった。
 ふらふらとエントランスに入ったところで、共有インターホンの脇に人がいることに気付き顔を伏せる。住人にしても訪問者にしても、弱っているところを無闇に人に見られることは避けたかった。因果な商売をしている自覚はある。カードキーを通して自動扉を開け、ロビーへ向かう。

「……ちょ、無視?臨也!」

 突如後ろから腕を引っ張られ、バランスを崩しそうになったが、かろうじて持ちこたえた。しかし立ち止まったのがいけなかった。何事かと理解する前に、自動扉に挟まれた。トドメには充分だった。
 言葉にならない声を上げながらロビーの内側へしゃがみ込み、眩暈にゆがむ頭を持ち上げると、そこには見知った女が立っていた。

「ご、ごめん、大丈夫……?」
「…………全然。……なに。なにしてんの」

 差し出された手を掴みなんとか立ち上がる。
 そのまま肩を掴んで体重をかけると、彼女は慌てたように俺を支えた。

「へ、平気?具合悪いの?怪我?風邪……?」
「風邪」
「風邪!?」
「なに、引くよ俺も、風邪くらい」

 自分で聞いておいて信じられないらしい彼女は、目を瞬かせ復唱した。大きな声を出さないでほしい。
 そのまま彼女の体をぐいぐいとエレベーターの方へ誘導し、開いた扉の中へ押し込んだ。無言で上昇し、無言で降りる。同じ要領で有無を言わさず部屋の中まで連れ込めば、彼女はようやく口を開いた。

「臨也が無言だなんて、よっぽど辛いんだね……」
「……つらいよ。ていうか、あそこで何してたの」
「何って!臨也がこの日時指定したんでしょ。私の母校の情報が要るから、卒業アルバムとか持ってきてくれって」
「……あれ、それ今日だっけ?」

 すっかり忘れていたが、この日を指定した過去の自分を褒め称えたい。彼女は仕事の関係者ではないから気を使う必要もないし、俺の弱みを握れるほど頭の働く奴でもない。
 一言で言えば大学時代に一度騙したことがある俺の遊びの被害者で、それなのに関係が切れるわけでもなく、かといって俺を盲目的に信仰するにも至らず、中途半端に絡んできては自爆していくというおかしな女だった。マゾヒストなのかもしれない。これといった専門知識や目立った特技はないが、ギブを施せばテイクをくれる、それなりに都合のいい存在ではある。

「顔、青い。とりあえず横になりなよ」
「……ん」
「薬は?ある?」
「そこの、二段目……抗生物質と解熱剤があるはず」

 自室に着いたという安心感からか体の力はますます抜け、ソファーに沈むように倒れた。節々が痛い。頭が熱い。気持ちが悪い。身体中が病原菌に侵食されている居心地の悪さに、心まで行き場をなくしているようだ。心臓が妙にドキドキして、震えが止まらない。

「はい。熱もはかっておきなよ。かなり熱い」

 水や錠剤と一緒に体温計を渡されたので、寝そべったまま脇に挟みこむ。彼女の手が探るように額に乗り、思わず目を閉じた。

「八度はあるんじゃないかな……何か、少しお腹にいれた方がいいね」

 熱のせいで遠く聞こえる彼女の声は、不安気で献身的で、明らかに俺を心配しているようだった。俺はそれを何故だろうと疑問に思ったが、考えてみれば当たり前のことなのかもしれない。弱った心は自分の汚さを少しだけ恥じた。
 彼女は俺を友人と思っているから俺との繋がりを絶たないだけであって、ギブアンドテイクとか、マゾヒストとか、そんな分析は余計なお世話なのだろう。

「八度二分かぁ、これ以上上がらないといいけど……病院は、一晩寝てから考えようか」
「……名前」
「ん?」
「今日どうするの」
「どうって」
「帰る……?明日なにかある?」
「明日は普通に仕事だけど……」
「いてよ」

 後日それなりのお礼はするからさ、と言おうとして止める。なんとなく今の彼女に言うことではない気がした。

「ん、わかった。そのかわり臨也は明日の仕事パスしてちゃんと寝ること」
「……いいの?」
「だって何も食べてないんでしょ。ご飯持ってってあげるから、ベッドで寝なよ」
「……」
「お粥でいい?」

 あっさりと了承した彼女の優しさを、素直に受け止められない自分にまた少し傷付き、それからやっと大きな安心を感じた。もぞもぞと起き上がり二階へ上る。さっきより熱が上がっている気のする体を部屋まで引きずり、汗をかいた服を脱ぎスウェットに着替え、冷たいシーツと布団の間に潜り込んだ。
 階下では名前が俺のためにお粥を作っている。もうじき薬も効いてくるだろう。明日の用事は午後からなので、無理そうなら朝のうちに断ればいい。不安要素はもうないはずなのに、俺の心臓は相変わらず不整な脈を刻んでいる。自室のベッドの中だというのに、自分の居場所がどこにもないような気がしてしかたない。無性に誰かに触れたかった。
 俺はいてもたってもいられずに体を起こし、さっき上った階段をゆらゆらと下りる。自分でも何をしているかわからないが、行動に理由を求めない子どものように幼児退行してしまっていた。ダイニングまで行き、キッチンに立っている名前を眺める。

「……わっ、臨也。寝てなきゃダメでしょ。喉乾いたの?」
「……」

 ぼんやりと自分を見つめている俺に気付くと、彼女は冷蔵庫の扉へと手を伸ばした。俺は歩み寄り、それを制す。そのまま体を寄せて冷蔵庫の扉へ彼女を押し付けた。
 ごつんと額を肩へ乗せる。
 ブウンと冷蔵庫がうなった。

「い、臨也……?」
「怠い。つらい」
「うん、だから二階で」
「なんか頭はたらかないし、むしょうに寂しいし、自己嫌悪ひどいし、いろんな意味で吐きそう。気持ちわるい」
「……うん」
「こんな気分になって明日からどう生きてこうとか、俺は永遠にこうなのかとか、名前って俺のなんなんだとか、どうでもいいことばっか渦巻いて泣きたい気分だ」
「……うん。臨也、大丈夫だよ。全部風邪のせいだから、大丈夫」

 名前は俺の背中をゆっくりと撫で、耳元で優しく言った。俺を責めることもできるはずだった。風邪のせいなんかじゃない、すべては俺のせいだと。しかし彼女はそれをしなかったので、俺は余計に泣きそうになった。
 彼女の体を抱きしめ、柔らかい腰の形と肩の細さを何度も確かめるように撫でる。自分を構成するすべての部分が不快で、彼女の中へ入ってしまいたかった。たかが風邪でこんなふうになって、自分への失望と嫌悪感は募るばかりだ。

「うつったらごめん」
「うつったら、臨也を呼ぶよ」
「そうして」
「うん。……そうしたら、たぶんどうにかなっちゃうよ、私たち」

 今の時点では、まだどうにかなっていないのだろうか。これも彼女の優しさだと思い、俺は「たぶんそうだね」と呟いた。
 お粥がコトコトと鳴っている。
 ああなんだか急激に、眠い。


written by 辻子(lucca





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