▼ 坂本辰馬 / Ag
A Hard Days Night
二人ぼっちになりたくて、おんぼろな孤独を隠す夜。
今日も今日とて、慌ただしい一日だ。商談は分単位で行ったし、合間を縫って新しい顧客も探した。優秀な部下に任せきりの仕事も多いが、身体を動かすほうが性に合う。そんな言い訳を使って歩き回るのが好きだった。
浮き世の嗜みは、どうしてこうも太陽の見えないところで行われるのだろうか。いつもは遠くから眺めるだけの青い星は、いざ降り立ってみると空気も不味く、派手な光が歓楽街をわざとらしく賑わしている。腕時計の針は、長針と短針がてっぺんを向いて重なり合ったばかりだ。幸か不幸か、騒がしい夜が慌ただしく朝を呼ぶまで時間はまだ残されていた。
料亭の会食で出された上等の酒を残さず飲み干した挙げ句、土産用にと財布の紐を緩める。船へ戻ったらこの地を肴に一杯やろう、そう考えたのも束の間だった。顔も知らない集団に囲まれて逃げ出したのはいいが、足取りは重くなり、身体はなかなか言うことを聞いてくれない。酔いが回っただけならいいが、生憎そうではないと否が応でも理解している。腹に手を当てれば、生温いものがじわりと掌を汚した。人目につかないよう裏路地に入り、石畳の上で足を引きずれば、下駄は鈍い音を立てる。もっと軽快に歩けたなら、小気味いい音が刻めるだろうに。他人事めいた考えを頭の中で巡らせながら、やっとの思いで鳥居をくぐる。鮮やかな朱色は洋灯に染められ、ぼんやりと視界を濁した。境内の前には、武骨な作りの賽銭箱がある。古びたそれを避けながら下駄を脱ぎ捨て、板張りの階段を上がろうとしたところで、膝の力が唐突に抜けた。
「お?」
がたがたと騒がしく、大した高さもない階段から転がり落ちる。仰向けで倒れ込み、サングラスがずり落ちたせいで、夜空に浮かぶ星が見えたのが唯一の救いだ。今夜は散々な目に遭ったが、運がないとは思わない。ここまで辿り着けた、それだけで報われてしまう単純さに感謝したいほどだ。
「ちぃと…眠いの」
折角の景色を前に、瞼はしぱしぱと瞬きを繰り返す。痛みすら覚えないわしの意識は、あっという間にどこかへと遠のいていった。
瞼を染める光の色が、僅かに変わった。おそらく橙色であろう、それの存在を確かめるため目を開ければ、蝋燭に灯された炎がゆらゆらと揺れる。古びた木材で作られた天井は、船では決して目にしないものだ。見慣れた我が家もとい我が船ではないが、ここをよく知っている。何もない殺風景な部屋と丁寧に掃き掃除が施された畳、白い布団と硬めの枕。腹の辺りを片手で探れば、何重にも巻かれた布地に触れる。サングラスは顔のすぐ横に行儀よく置かれていた。
「…なるほど、」
合点がいったとばかりに頷けば、床を伝って足音が聞こえてくる。板張りの廊下を楚々と歩く様子は、見えもしないのにはっきりと思い描けた。障子は静かに開けられ、衣擦れの乾いた音だけが耳に届く。姿を見せた彼女はわしと目を合わせ、立ったまま小さな溜め息をついた。
「生きてたんだ」
「おかげ様での」
「医者代払ってよね」
「おんしが医者に転職したとは知らんかったぜよ」
「元々職なんてないから」
「ほう、ならその格好は流行りの‘こすぷれ’じゃな」
「残念だけど、同じかぶき町でもあっちと違ってご奉仕はしない主義なの」
「相手がわしでもか」
「尚更駄目、性病もらったら困るでしょ」
純白の小袖に緋袴で佇む彼女は、裾を払いながらわしの隣で品よく正座する。立ち振る舞いだけで言えばどんな巫女よりも巫女らしいのに、口の悪さは昔のままだ。表向きは巫女だと名乗り生活する彼女は、今なお攘夷志士として江戸に留まっている。攘夷戦争にも参加し、こうして戦乱の世が終わった今でも、わしや金時、ヅラや高杉と関係を続けているらしい。もっとも、この神社で他の三人に出くわしたことはなく、皆で戦陣を突き進んだ過去も遠い思い出になりつつある。だが、きっと全員、あの日々をはっきりと覚えているのだろう。志を共にしたからこそ、五人がそれぞれの道を歩む今、顔を合わせなくなったのだ。
巫女は枕元にあったわしの酒瓶と、檜作りの一升枡を手にする。この神社では枡は飾り物としての役目を成さない。使ってこそ物なのだと言って、彼女は笑う。
「で、今回の相手は?」
「心当たりがありすぎての」
「この前テレビで、黒い商売する社長特集に出てたじゃない」
「ああ、あれか」
「違う?」
「さぁ、わしは相手の顔も見てないぜよ」
「坂本らしいね」
一升枡に注がれた酒は、一口、二口と彼女の喉を通り過ぎていく。口当たりも値もいい上等の酒だ、酒にうるさい巫女も気に入ったのだろう。わしにも一杯とばかりに俯せになって腕を伸ばすと、巫女は容赦なくわしの手を叩いた。
「血が足りないってわかってるくせに」
「勿論」
「死にたいの?」
「おんしの上で腹上死なら構わんが」
「…それは一生無理でしょ」
「ああ、だからわしは死なん」
真剣にそう答えたが、わしが何を言おうと彼女には冗談としか聞こえないらしい。呆れ顔の巫女は諦めたのか、酒が半分程度残っている枡を差し出した。彼女の手ごと枡を抱えたわしは、そのまま酒を口へと運ぶ。かさついた唇が酒で濡れ、乾いた喉にひりひりと染みるそれは、癖になるほど美味い。
総督、先導者、リーダー、社長。どれだけ人間に囲まれていようと、若さや愚かさ故の孤独を感じる夜は必ずやってくる。例えば今夜、手負いになったわしがここにやってきたように。仲間や部下に隠したいものを受け止めるなら、打ち明け話をする人間と同様、打ち明け話をされる人間も相応の思いを覚悟する。彼女は自然とその節を理解しているのだろう。情に甘えてはいけないと理屈ではわかっていても、本能が収まらない。そうしてまた、ここを目指して歩いてしまう。
「そろそろ行くかの」
布団から起き上がり、サングラスをかけたわしはきっちりと畳まれていたコートに腕を通す。
「手当てしてくれて助かったぜよ」
「帰ったらちゃんと医者に診てもらって」
命が惜しいならと付け加えた彼女も立ち上がり、丁寧に障子を開けた。
「美味しいお酒を持ってきてくれるなら、最期くらい看取ってあげてもいいけど」
「おんしがそんなことを言うとは、明日は雹じゃな」
「減らず口聞けるくらい元気なら、一人でも問題ないか」
「大問題ぜよ。おんしが独りだと寂しいと思って、わしも独りでおる」
「…余計なお世話」
そのまま部屋の外に出た彼女とすれ違い様に呟くと、冷たい指先は遠慮なくわしの頬を力一杯つねりあげる。
「いだだた…」
「明日からもせいぜい稼いでくださいね社長」
「わかったわかった、降参じゃき!」
自由になった頬は、腹の傷よりもよっぽど疼く。
くたびれた夜がもたらす、くだらない言い合いの末で、本当にひとりぼっちなのは一体誰なのか。答えが何であれ、彼女に縋った時点で今夜もまたわしの負けだ。