小説 | ナノ


▼ シリウス・ブラック / hp


Girl

部屋いっぱいに満たされた雨の音に、目を開けた。見慣れない薄暗い灰色の天井と、同じく見慣れないほとんど家具のない部屋。ぎしりと鳴ったベッドのスプリングの音に、ぼんやりしたままだった頭が少しはっきりする。

薄汚れた窓から外を眺めれば、まるで水飴越しに世界を見つめたような錯覚に陥った。雨で朧げにしか見えないマグルの町は、どことなく気怠げで、俺はますます憂鬱な気分に囚われる。

「…ジェームズ、」

瞼を下せば、さっきまで見ていた夢の残像が甦る。これは何年前の、いつのことだったろう?時間の感覚なんてとっくに失ってしまった。

真夜中のグリフィンドールの寮、太った婦人の声、真っ暗な廊下。見つかれば罰則は免れない状況の中でも、大声で話し続ける親友。それに呆れるムーニーと、…あいつのことは考えまい。親友を奪った憎き敵のことを思い出すと同時に、尽きることのない後悔が再び湧き上がってくる。俺が秘密の守人を続けてさえいれば。そうしていれば。

雨の音が一段と強くなった気がした。部屋の気温が下がったような気がする。もうここはアズカバンではないのに、すべての記憶が暗く陰っていく。夢で見た仲間たちは、まるで身体の中から光を放っているようだった。未来への期待と、少しの不安、すべてを覆い尽くすような無謀さ。思い返すのが辛いほど、輝いていた。いったい誰が、その後に待ち受ける未来を予想しただろう?

久々に会ったムーニーの顔を思い出す。闇の魔術に対する防衛術の教授に就任していたアイツは、信じられないほど顔が変わっていた。いくつもの喪失を経験したからだろうか?人狼であるが故の辛酸を舐め続けたからだろうか。まだ、二十代の前半だというのに、

「…違う」

俺達はもう若くないのだった。気付けば世界は移ろい、時間を進めていたのだった。俺もリーマスも、三十をいくつも過ぎているはずだ。

事実としてはわかってはいるが、どうしても受け入れがたかった。俺は、まだ大人になりたてのはずだ。もっと自由に、危険と戦い、それを乗り越えてもいいはずだ。なぜ、それが許されない?ダンブルドアは逃亡の手助けをしてはくれるが、まるで俺に隠れていてほしいような口ぶりだ。

隠れる?このシリウス・ブラックが?

ますますわからないのは、周りの仲間たちがそれを当然のこととして振舞っていることだ。何でお前ら一人前に大人なんかやってるんだよ。俺は度々笑いたくなるが、本人たちはいたって真面目で、ますますわからない。

まるで、俺だけが一人、世界に取り残されているような気さえする。

「ジェームズ、」

今あいつが俺を見たら、笑うだろうか。『何て顔してるんだい?似合わないよ』とでも、言うだろうか。

考えても答えなど出はしない。あいつは行ってしまったのだ。この世界に俺を残して。

「…いや、」

俺にはハリーがいる。ジェームズとリリーが残した、大切な俺たちの宝。まるで生き写しのようにジェームズにそっくりだ。冒険好きで、悪戯好きで、仲間のことを一番に考えて、


…微かに軽い音が聞こえた気がした。今まで考えていたことがすべて吹き飛んでいく。

「…なんだ?」

俺しか部屋にはいないのに、思わず呟いてしまっている自分に気付いて更に憂鬱な気分になる。少し、一人で居過ぎたようだ。

「あれ、誰もいないの?こんにちは!」

玄関の方向から大きな音と声が響いて、先ほどの軽い音もノックの音だったことに気が付いた。それと同時に、緊急事態に身体が緊張するのがわかる。この部屋は、ダンブルドアしか知らないはずだ。

「シリウス?いないの?」

明るいトーンの大きな声が再び聞こえてきた。俺はゆっくりと杖を構えて玄関の方へとじりじりと近づく。死喰い人ならばノックなどしないだろうが、万が一ということもある。俺を油断させる罠かもしれない。俺は無意識に笑っていたことに気が付いた。久しぶりに気分が高揚している。まるで、夜中、すぐ先の踊り場にフィルチを見つけた時のようだ。

すぐに使える強力な攻撃呪文をいくつか頭に浮かべながら、俺は玄関側の壁に身を寄せた。未だにドアはドンドンと大きな音で叩かれている。

「シリウス?私よ、私!」

俺はゆっくりと杖先をドアに向ける。先手必勝。学生時代からの教訓だ。

「Confringo!」

爆発した扉と、立ち上った煙の先にぼんやりと長い髪が見えた。俺は頭があるだろう位置に杖の照準を合わせる。

「ちょっと待って!シリウス、私よ!」
「…私って誰だよ?」

少しくらいの隙を見せたほうがゲームは面白くなる。俺はにやりと口角を上げて、相手の顔がはっきりと見えるのを待った。

「あ!ごめんなさい、名乗ってなかった。名前名字、覚えてる…よね?」
「名前名字?」

その響きには覚えがある。俺はぼんやりと昔の記憶を探った。
小柄な身体と、短い黒髪、あどけない顔が頭の中に浮かんでくる。思い出した。忘れていた。…いや、無意識に考えないようにしていた。

「…グリフィンドールの、二年生」

何とかそう言えば、名前が笑う声がした。耳を澄ませば、その声にも少し聞き覚えがある。覚えているものよりは、いくらか低く聞こえはするが。

「嫌だな、私もうとっくの昔に卒業してるよ」

俺と名前の間にあった煙がようやくゆっくりと晴れていった。現れた姿に、俺は思考が白く染まっていくのを感じ取る。

「…誰だ?」

思わずそう呟くと、彼女は首を傾げた。昔見慣れていた癖なのに、全く別の物に俺の目には映る。たったの一動作でしかないのに、あまりにも女らしくて、息を呑んだ。

「会わない間に成長したの」

そう言って彼女はふわりと微笑んだ。その姿が俺が覚えている名前と重なる。

そう、俺が覚えている名前は手のひらに乗るんじゃないかってくらい小さくて、ろくに呪文も覚えられないような子どもだ。日本人だからかはわからないが、同学年の奴に比べてかなり幼かったのを覚えている。

それがどうだ。今の名前はすらりと身長が伸びて、女らしい身体つきをしていた。先ほどの爆発でも傷一つ負っていない。どこをどう見ても、大人だった。

俺が知っている名前はまだただの少女でしかなかったのに。彼女の長く伸びた黒髪が過ぎ去った月日を表しているような気がして、ますます辛くなる。先ほどまであった高揚感はどこかに消え去っていた。

「シリウス?大丈夫?」

俺はその声に慌てて意識を目の前の彼女に戻した。俺は相当呆けた顔をしていたに違いない。そのせいか、彼女はやけに真剣な顔をしていた。

「とりあえず、部屋に入るか」

名前は頷いて、杖を取り出した。みるみるうちに扉が元の形に戻っていく。もしも名前が敵だったら今の状態の俺に勝ち目はないな。ぼんやりとした頭でそんなことを思った。


彼女と一緒に部屋に入ると、灰色だったはずの部屋が何故か明るく見えた。少し考えて、思い出す。昔から彼女はそうだった。よく俺たちの後を追いかけて、一緒に笑っていた。あの時期は俺にとって一番楽しい時間だった。だからこそ、その日々の象徴である彼女のことを思い出したくなかったのだ。

「久しぶりだね」
「…ああ、そうだな」

名前に視線を向ければ、こちらをじっと見つめながら微笑んでいた。綺麗に彩られた指先で髪を耳に掛けると、彼女は口を開いて閉じた。俺は彼女が言おうとしているであろう言葉を促すこともできないまま、視線を外す。

「…最後にいつ会ったか覚えてる?」

少しの沈黙の後、名前はそう呟いた。少しその声が震えているような気もしたが、気のせいかもしれない。俺はゆっくりと頭を巡らせて、答えを探した。

大広間中に飛び交った帽子と、花束が頭に浮かぶ。それと同時に、少し顔を赤くした名前の顔を思い出した。

「…卒業式」
「そうそう、当たり。じゃあ、私がその日、シリウスに告白したこと、覚えてる?」
「…ああ」

名前はあの日、幼い声で俺のことが好きだと告げたのだ。すでに何人もの女から告白され、少しうんざりしていたのを覚えている。それでもさすがに、名前の告白には驚いた。十代の俺にとって、五歳も年下の名前はただの子どもでしかなく、妹のような存在だったのだ。

「その時さ、シリウス言ってたよね。お前はまだただの小さな女の子だ。悪いが恋愛対象にはならない、って」
「言ったかもな」

間違いなく言っただろう。小さな名前が俺の言葉に悔しそうな顔をしたのを、今でも昨日のことのように思い出せる。

「あの時からね、私の中のシリウスの時間は止まったままなんだ」

彼女がぽつりとそう零す。言っている意味がよくわからない。俺が怪訝そうな顔をしたからだろうか、名前は少し微笑んで、言葉を続けた。その微笑みがやけに大人びていて、俺は息を呑む。

「私の中のシリウスはずっと17歳のままなの。それとね、私、もうただの小さな女の子じゃないよ」

そう言って、名前は俺の手をゆっくりと彼女の手で包み込んだ。

「ひとりぼっちはさみしいから、隣にいても、いいかな」

名前はぽつりと呟いて、涙を一つ零した。
一体いつの間に、彼女はこんなに大人になったのだろう。


written by 莉(夜明け





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