▼ トム・リドル / hp
Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band
「トム、知ってるかい? レイブンクローの名字が、学年末の試験で君を負かしてやるって息巻いてるらしいよ」
「まさか、トムに勝てるとでも思ってるのかしら? ホグワーツ始まって以来の天才と言われてるトムに! 身の程知らずもいいところね!」
彼女のことを初めて耳にしたのは、一年生の中頃だっただろうか。すでにできつつあった取り巻きたちの、そんな無責任な噂話。
成績だけはいいのだろうが、現実の見えていない馬鹿な女だと思った。こういった敵愾心が強いだけの面倒な輩というのは、どんなに気を配ろうとどうしても湧いてしまうものだ。
「レイブンクローは秀才が多いと聞くからね。違う寮とはいえ、せっかく同じ学び舎にいるのだから、お互い高め合うことができればいいんだけれど」
「さすがトム! なんて謙虚なのかしら!!」
「あれだけダントツの成績でこんなことが言えるなんて、誰にもできることじゃないよ! まったくトムに比べて名字ときたら……!」
心にもない綺麗ごとを口にすれば、取り巻きたちはすぐに舞い上がって、いくらでも持ち上げてくれる。
簡単だった。
退屈だった。
あの孤児院なんかより何百倍もましであることに間違いはなかったけれど、それでもこんなものかという思いは尽きなかった。学年末の試験の結果を見たときも、やはり感想は同じだった。
「全科目一位なんて! トムならもしかしたらとは思っていたけど、本当に凄いよ!」
「これで名字の面目も丸つぶれね。いい気味だわ!」
「あら、やっぱりあなたが一番なのね。成績表を見たら全部二位だったから、がっかりしちゃった」
学年末の盛大なパーティ。孤児院に帰らなければならないことへの憤りを哀れな苦学生を装うためのエネルギーへと変換し、物憂げに紅茶をすする。
そこで彼女は、周囲のあからさまな嘲笑にもまるで取り合うことなく、にこにこと笑顔を浮かべてスリザリンのテーブルに現れた。
その頃にはすでに顔見知りになりつつあったものの、最初の頃から印象はまったく変わっていない名前・名字。その胸元には、当然ながらレイブンクローカラーの青と銅のネクタイが揺れていた。
「レイブンクローが何の用だ、名字!」
「成績自慢にでも来たのかしら? お生憎様、トムはあんたなんかよりずっと上よ!」
「知ってるわ。自慢なんてできる訳ないじゃない、誇れる成績でもないのに」
字面だけみれば名字の涼しげな物言いはむしろ謙虚ともとれるが、結果としては火に油を注ぐことになった。
当然だ、ここには彼女より成績の良い人間など僕しかいないのだから。謙遜はたやすく嘲笑へと変わる。やはり馬鹿な女だった。
名字への非難の嵐となった場を、仕方なく片手で制する。
「よさないか。
僕は君のような良きライバルに巡り会えて嬉しいよ、名字。来年度もお互い頑張ろう」
「お世辞だろうし嬉しくもないけどありがとう。
今年度は残念だったけど、次はちょっとやり方を変えてみようと思うの。楽しみにしていてね」
そして、少なくとも僕にとっては形だけのものでしかない握手を交わした。それきり名字のことはすっかり忘れていたし、彼女のこの別れ際の言葉など、当然ながら頭によぎることすらなかった。
それを嫌でも思い出すことになったのは、次年度が始まってすぐのこと。
「トム、トム!! 聞いてくれよ、名字の気が触れたみたいだ!!」
「ほとんどのレポートは出しもしないし、出しても規定の半分の長さにも満たない酷いものだって話よ! それで闇の魔術に対する防衛術にだけ、異常に力を入れてるんですって!!」
類稀な才媛の、常軌を逸したとしか言いようのない行動。周りのうるさい連中だけでなく、学校中がその話題で持ちきりだった。
教師先輩友人と、誰もが時に叱り、時に宥めすかして名字をまともに戻そうと躍起になっていたが、誰が何と言おうとまるで効果がなかったらしい。
彼らは早々に「君だけが頼りだ」などと無責任なことを言って、僕のところに泣きついてきた。
「僕で力になれるのならば、喜んで。僕も彼女とは、昨年のような切磋琢磨する仲でありたいですし」
張り付けた笑顔でもってそれを承諾し、早足で名字の元へと向かった。
そこに優等生としてのルーチンワーク以上の意味が、少しばかりあったことは否定できない。すでに僕は、彼女が昨年に残していった言葉を思い出していた。
「……君の言う、ちょっとやり方を変えるというのはこういうことなのかい? 名字。
周りを心配させるのは感心しないね」
「あらトム、来てくれたのね。
周りがどう思うかなんてどうでもいいわ。ねえ、あなたはお気に召した?」
彼女は軽く首をかしげ、とろりととろけるように笑った。
僕は首を横に振る。
「言っただろう、周りを心配させるようなやり方は感心しない。このままだとO.W.Lどころか、その前に落第になりかねないよ」
「そうねえ、それはちょっと困るかな。
でも仕方ないのよ。わたしのような凡人がいくら頑張ったところで、あなたには敵わないってことは去年よくわかったから。
だったら、一科目だけに全力を注ぐしかないじゃない? あなたと戦うにはそれしかないわ」
「何故、僕に勝つことにそこまで拘るんだい? 僕はそれほどの、君の人生を賭けるほどの存在じゃないよ。どうか考え直してくれないか」
一応は説得のような言葉を紡ぎながらも、名字が屈することはないだろうという確信があった。
彼女に抱いていた印象が、変わりつつあるのを感じていた。
「嫌よ。だって、敵がいないのって退屈でしょう?」
やはり彼女の返答は予想通りの否。名字のまだ幼さを残した右手が、僕の頬をするりと撫でた。
「取り巻きが増えれば増えるほど、畏れ敬う者が増えるほど、あなたは独り」
歌うように静かにそう呟いた声音と半ばほどまで伏せられた両目が、哀愁じみた何かを醸し出す。
「……つまり君は、哀れな僕の敵となるためだけに自分の人生を捨てると?」
「捨てるだなんて言わないで。それに、哀れだとも思っていないわ!
あなたが、他に並ぶ者のない力を持ったあなたが、この生き方を与えてくれたのよ。敵のいないあなたの、たった一人の敵になるの! どう、とっても素敵な生き方でしょう?」
名字は高らかにそして軽やかに笑った。僕もはからずも笑い出したくなってしまった。
どこにでもいるような馬鹿な女だと思っていた。だが名前・名字は他にどこにもいないような、この上なく馬鹿な女だったのだ。決まりきった退屈で簡単な世界の中で、彼女は確かに予測困難な異分子だった。
「そういうことならもう止めないけれど、せめて進級くらいはできる程度にしておくことをおすすめするよ。……それと、」
その昂ぶりが舌を緩めたのか、気づいたときにはほとんど自動的に言葉が紡がれていた。
「君の科目選択は、実に正しい。
いずれ、その技術の有無が生死を分けることになるだろう」
どうして名字に、こんなことを言おうと思ったのかはわからない。
まだ二年生になったばかりで、牙を隠して雌伏すべき時だという認識はもちろん持っていたし、彼女が真実敵に回ることも大いにあり得るとわかっていたにもかかわらず。それでも何故か一切の不安はなかった。
「忠告ありがとう。そうね、きっとわたしにとってもあなたにとっても、一番大切な力になるでしょうね」
すべてわかっているのかそれとも何もわかっていないのか、彼女は特段何の反応もすることなく去って行った。
――そしてそのまま、時が流れた。
結果から言えば、確かに名前・名字の存在は僕にとって有益だった。
だがそれは彼女が言うような精神論ではなく、もっと実利的な話だ。名字という“敵”がいたからこそ、僕は闇の魔術についての禁書を閲覧する大義名分を早々に手に入れることができたし、実際に五年生になった頃には秘密の部屋の発見にまで至った。
卒業を目前にした今となっては、気がかりなのはダンブルドアのみといったところか。あの男こそ、名字のような遊びではない、本物の僕の敵だ。早急に息の根を止める必要がある。
「トム、もうすぐ卒業ね。結局最後まであなたに勝てないままだったわ。本当に残念」
例の方針をかたくなに貫いたものの、何とか卒業まではこぎつけた名字。
僕の考えなど知るよしもない彼女は、平和ボケしているとさえ言える現実感のないことを言う。いや現実感ならあるのだろう、ただ僕の現実と彼女の現実が、ひどく乖離しているというだけの話だ。
「……名字。君は、僕の敵でありたいと言ったね」
「言ったわ、在学中は結局うまくいかなかったけれど。それがどうかした?」
首をかしげる名字に応えることなく杖をかざし、自らの名を宙に記す。
忌まわしい名前、Tom Marvolo Riddleと書かれたそれを、滑らかに入れ替えた。――I am Lord Voldemortと。
「僕の新しい名だ、いずれ君も必ず耳にすることになる。魔法界を闇に突き落とす王の名として。
本気で敵となりたければ、追ってくるがいい」
名字は思考が追いつかないのか、数度瞬きをした。
乖離していた現実は繋げた。それでどうするかは彼女次第。場合によっては……、
「嬉しい! ありがとうトム!!」
「っ、な、」
予想していなかった衝撃に、軽くたたらを踏む。飛びつくような勢いで抱きつかれたのだ、と数秒遅れて気がついた。
「あなたはいつも、わたしに生き方をくれるのね。とっても素敵! 本当にありがとう!」
「……わかったから、もう離してくれないか」
「あら、ごめんなさい。わたしったらはしたないことを」
名字は素直にぱっと手を離し、ようやく僕は開放された。
まあ、その行動はともかくとして、返答自体は僕が予想し、また期待していた通りのものだった。……期待? 僕が他人に対して、そんなものを? いやそんなはずはない。
自らの中に見つけた異物に蓋をし、何事もなかったかのように言葉を紡ぐ。
「一つ聞きたいんだけど……君は、仮に僕が正義と呼ばれる側であったとしても、やはり敵に回ろうと思うかい?」
「当然じゃない。でも、そうじゃなくて本当に良かった!
わたしには、あなた一人の敵になるのが精一杯だもの。世界の敵なんて荷が重すぎるわ」
名字はいつものとろけそうな笑みを浮かべてそう答えた。僕も、知らぬうちに笑っていたようだった。
名前・名字に正義感や義憤などない。ただ僕の対岸にありたいだけの、敵でありながら僕の指揮下といっても過言ではない、戯れの敵。だからこそ、ダンブルドアとは違って僕の心も波打たない。
「そう。じゃあ次は、戦いの場で会おうか」
きっと彼女とは、どちらかの息が絶えるまで、永遠に踊り続けることになるだろう。そうだな、それも悪くない。
僕がそう思ってしまった時点で、あるいは名字の勝ちと言えるのかも知れなかった。
***
「……名字、いつまでそうしているつもりかね」
ヴォルデモート卿が死んだという。ポッター夫妻とその子どもを殺しに行って、狙い通りに夫妻は殺したものの何故か一歳にも満たぬ子どもに返り討ちにされたらしい。死喰い人たちは早くも散り散りになっていた。
まさか、あの人が。
あれほど輝きに満ちた人が、誰かに負けて死ぬなんて。
とても信じられぬ思いで、わたしは歓喜と哀悼に狂うポッター家を見つめ、ぼうっと立ち尽くしていた。
「もう、ヴォルデモート卿は死んだのじゃ。君も彼のことは忘れて、そろそろ自分の人生を生きても良かろう。――オブリ、」
「エクスペリアームス!」
背後から放たれた忘却呪文を、振り向きざまの武装解除呪文で無効化する。
かのヴォルデモート卿を除けば、魔法界で最高の魔法使いと呼ばれるアルバス・ダンブルドア。その彼を相手にしてさえ、この程度のことはできる。
「あなたは勘違いしていらっしゃるわ、ダンブルドア先生。
これが、わたしの人生なのよ。他のものなんていらないの」
ヴォルデモート卿の名を新聞で始めて目にしたとき、わたしがどれほど喜びにむせいだことか。
闇の魔術とそれに抗する術が命を握る、血にまみれた力の時代。あの人がむかしむかしに打ち明けてくれた幻想が、ついに実現する日が来たのだと思った。あの人が一人で睨み続けていた未来を、ようやく共に見られるのだと思った。
初めてあの変わり果てた、真っ白な顔を見たときにはさすがに驚いたけれど、約束通りだな、と一言笑ってくれたから、それでもうすべてがどうでもよくなった。
――それがまさか、こんなにもあっさりと瓦解するなんて。
「いいえ、いいえ……そんな訳がないわ。あの人が死ぬはずがない」
ダンブルドアから目線を離し、ふらふらと歩き出す。
きっと彼はわたしの後追いを心配したのだろうけれど、要らぬ気遣いだった。そんなことは、あのくだらない取り巻きたちにでもやらせておけばいい。
わたしの目には、トム・リドルもヴォルデモート卿も同じに見える。
多くの取り巻きに囲まれながら、いやだからこそいつだって彼は独り。
「わたしは違うわ。わたしはそんなことしない。わたしは、ずっと待ってるの。牙を研いで技を磨いて……あなたが帰ってくるのを待っているわ」
物語でも、最大の敵こそがその生存を信じ予見すると決まっているのだから。
「そして次もまた戦いの場で出会えたら、どんなにか素敵かしら!」
それまでは彼が遺した指揮の下、十年だって二十年だってこの配役で踊り続けるの。