『私、キヨスミのことが好き!』
「本当に? それは嬉しいなあ!」
『でしょ! やっぱりね! キヨスミが喜ぶって、私、知ってたよ! じゃあ、今日からキヨスミは私のカレシね!』
「うーん、でもなあ、困ったなあ……」
『なに? どうしたの?』
「実は大人にはね、子どもと付き合っちゃいけないっていう決まりがあるんだ」
『え! そうなの!? じゃあ、じゃあ……私とキヨスミは付き合えないの?』
「残念だけど、今はね」
『そんな! だったら、いつならいいの!?』
「それは……」
「君が、もっと大人になったら、かな」
頬や鼻を赤くし、目いっぱいの涙を溜めた少女に向かって、少年は目尻を下げる。
しかし無情にも、風に乗って踊る桜の花びらが、去っていく少年の背を隠していく。
これが、二人の始まり。
本当はもっと昔から始まっていたかもしれない。頬に戯れのキスくらいしていたような気もするし、結婚の約束だってした気もする。
しかし、それ等は本人たちの記憶にはなく、両親の記憶やアルバムにしか残っていない。二人の辿れる記憶の出発点が、この地点なのだ。
なにせ、一人の少女を泣かせたこの少年、この時点で小学六年生。少女は少年よりも、もう少し下なのだから。
****
『清純ー! 今週末デートしよう!』
「えーっと、実はその日予定があって、」
『嘘! おばさんに聞いて、今週は部活ないこと知ってるもん!』
「部活じゃなくって、その、先約が」
『まさか! また他の女の子をデートに誘ったんじゃ……!』
ゴゴ、と凄みを増す彼女に、千石は顔を青くする。
「ほ、ほら! そんな怒った顔しちゃ、△△ちゃんの可愛い顔が台無しだよ!」
『誤魔化しても無駄! どうして私がいるのに他の子とデートしちゃうの!?』
「それは……俺も健全な中学生男子だし、可愛い女の子とデートしたいのは当たり前というか」
『私は可愛くないの?』
「そんなことないよ! △△ちゃんはすっごく可愛い」
『じゃあ、週末は私とデートね?』
「今度予定作るからさ」
ね? と申し訳なさそうにウインクする千石に、△△はギリリと歯を噛み締める。この顔をされると、悔しいが何も言えなくなるのだ。
『清純のバカ!』
そんな捨て台詞を吐いて逃げていく△△の背中を、千石は眉を下げて見つめる。
こんな二人のやりとりは、周りにとっては日常の光景。二人が幼馴染であることも、△△が千石を好きなことも、誰もが知っている。
そして、△△からのデートの誘いを、千石が毎回断ることも。
いつか誰かが言った、なぜ彼女の誘いを断るのかという質問に対して、千石はこう答えた。
「可愛すぎて照れちゃうんだ」
いかにも千石が言いそうな台詞。それに加えていつもの笑顔なのに、彼には有無を言わせない雰囲気があった。そんな彼にそれ以上、誰も何も聞くことは出来なかった。
それでも最初のうちは△△が千石の元へ来るたびに噂する者もいたが、時間が経てばそれもなくなり、今では完全に日常の風景として溶け込んでいた。
そんな変わらない日常を過ごしていたある日のこと。
『清純のことが好き。付き合ってほしい』
千石の下駄箱に入っていた一通の手紙。筆跡からして想像はついていたが、無視するわけにもいかず指定された場所へ向かうと、やっぱり想像通りの人物がそこにいた。
しかし、その口から出た言葉は千石の想像から外れていた。今でも千石の部屋へ遊びに来るたびに交際を迫る彼女だ。彼女からの告白が珍しかったわけではない。しかし、だからこそ、わざわざ呼び出してまで学校で告白してくる彼女に千石は驚いていた。
「急にどうしたの? 何かあった?」
『真剣に答えて』
いつも通りにと笑顔を向けるが、いつになく真剣な目の彼女に、千石の胸はいやに高鳴る。
どうしたものかとしばらく頭を掻いていたが、いつもと違う空気に観念した千石は、ふう、と一つ息をつく。
「いいんだね?」
千石の言葉に、彼女はごくりと生唾を飲む。
そして、緊張で奥歯を噛み締めながら、ゆっくりと頷いた。
「申し訳ないけど、△△ちゃんの気持ちには応えられない」
彼女の眉間にぐっと皺が寄る。
そんな彼女の様子に気付きながらも、千石は淡々と続ける。
「昔からずっと傍にいたんだ。△△ちゃんのことは本当に大切に思ってる」
『じゃあ何で……』
「でもそれは、恋愛感情とは別の話しだ」
いつもの、目尻を下げて優しく微笑む彼はどこへいったのか。テニスの試合の時にしか見たことがないような表情を自分に向ける千石に、いつもは強気な彼女も身がすくんでいた。
「だから君とは付き合えない」
「それに……」
「俺たちは、まだ子どもだ」
そして、告白の返事としては、これ以上ないほどシンプルなもの。もう、一縷の望みにかけて縋る隙もない。胸から感情がどんどん溢れてくるのに、言葉にすることができない。何を言っても、無駄な気がした。彼女は、喉から出そうになる意味のない言葉を飲み、胸の奥へ落とした。
『……分かった』
そして、嘘をついた。
「ごめんね」
彼女の嘘に対する千石の本心を最後に、二人の日常は終わりを告げた。
****
あの告白以来、千石は△△と会っていない。
毎朝一緒に通っていた通学路も一人。お昼休みにデートの誘いに来ることもなくなり、休日にも彼女が千石のことを訪問することもない。家が近いと言えども学年も違い、千石は忙しいテニス部。意識しなければ、彼女と顔を合わせることはほとんどなかった。
彼女が全く姿を見せなくなったことで再び噂するクラスメイトも出できたが、「お互い忙しくて」と困ったように笑う千石に、それ以上追求できる者もいなかった。
そして千石は、今までどれだけ△△が自分のために動いていたんだろうと実感した。
彼女のことが嫌いだったわけではない。むしろ大事だった。大事すぎた。その感情は、ほとんど兄妹のようなものに近く、彼女の求めているものとは違うと思った。彼女の自分に対する好意を感じるたびに、小さな頃の彼女の笑顔が脳裏に浮かび、罪悪感が募った。
それでも壊さないよう、傷つけないよう大切に守ってきたのに、いつしか千石自身でさえ触れ方が分からなくなっていた。子どもだと言い訳して。その結果、守ってきたものは跡形もなく消えてしまった。今まで十年以上、当たり前だった彼女の存在。寂しくないわけがないが、振った自分にそれを言う資格はないと、「これで良かったんだ」と自分に言い聞かせた。
それから何年も、彼女とは顔を合わせることなく過ごした。たまに聞く親からの近況報告でのみ、彼女の存在を感じることができた。それで十分だった。こんな風にいつか彼女の結婚報告を聞くことになるかもしれないと考えると思わず顔が歪んでしまうが、それでも、彼女が幸せなら。
****
桜が踊る季節になると毎年思い出す。二人の始まりと、終わりを。
月日が経った今でも、胸に引っかかった棘は取れていない。それでも、「懐かしい」と思えるほどに朽ちてはきていた。
空から降ってくる桜の雨から視線を正面に戻す。するとそこに、自分と同じように桜を見上げる一人の女性が。千石はいつものように、ルーティンのようにその女性に声をかけた。
「お姉さん、今暇ですか? 暇だったら……」
声をかけられた女性がゆっくりと振り返る。横顔が見えた瞬間、千石の胸がどきりと跳ね、時が止まった。
『昔からずーっと暇してるんですけど』
懐かしい、しかし確実に聞き覚えのある声に、耳が、全身が震える。
そして振り返って見えたその姿は昔より随分大人びてはいたが、あの日から一日も忘れたことのない面影が確かに残っていた。
彼女は昔のように自信たっぷりに不敵な笑みを浮かばせて、放心したままの千石にズイッと顔を寄せる。
『妹なんて、家族なんてもう言わせない。それに……』
『私たちはもう、子どもじゃないよ』
彼女の言葉で、千石は全てを察した。彼女は全て分かっていた。千石の葛藤を。
「あちゃー……これはやられたね」
困ったように頭を
く千石に、彼女は得意げに笑って見せる。その表情は、どれだけ年を重ねても昔のまま。
一度終わったかに見えた二人は、この場所から再び始まる。