名前を知った時にはもう手遅れ




「おもんな」

 あと五分で授業が始まる。
 そんな中、財前光は一言そう呟くと自分が入るべき教室を背に歩き出した。
 財前はその足で電車に乗り込み、自宅とは反対方向へ進んだ。進行方向にだけ気を付けながら、適当に何度か電車を乗り換え、進んだ。
 そんな彼が窓の外に意識を向けたのは、電車に乗り込んでから三時間ほど経ってからのことだった。
 知らない景色。財前がいつも見ているものより、やけに緑色が多かった。それらに特に興味があったわけでもなかったが、座り続けたことによる尻の痛みに気が付いて、彼は電車を降りることにした。

 いつもより広い空、遠くまで見える景色を見ながら歩くと、胸に感じていた重みが少しだけ軽くなる気がした。
 特に何か嫌なことがあったわけではない。ただ不意に、何もかもつまらないと感じただけ。
 我ながら中二だと呆れてしまうが、たまの気分転換だと、いつも片手に持つスマホも今日はポケットにしまって、財前は歩いた。

 休憩しながら、時には見慣れない景色をぼうっと堪能しながら歩き続けた。気付けばすっかり辺りは暗くなっており、これからどうするかを真面目に考えなければ野宿になってしまいそうな時間に差し掛かっていた。
 とりあえずお腹を満たしながら考えようと、目に入った居酒屋の暖簾をくぐってみる。こじんまりとしているが、田舎を思い出して落ち着くような、そんな雰囲気の店。カウンターからは離れた隅の席に座り、うるさすぎないサラリーマンの気持ちのいい笑い声を聞きながら、適当に何品か注文する。出てきた料理もこじゃれた洋風なものではなく、赤提灯がついた居酒屋を想像すれば大体の人が一致しそうなものばかりだ。しかし、口に入れてみると驚いた。味が想像をはるかに越えてきたのだ。
 なんとなく来た場所で、なんとなく入った店。自分の強運に思わず上がる口角を抑えられない。
 つまらない日が続く中、今日はいい日やったなあ、と。久しぶりに心が柔らかくなった。
 いい具合に腹が満たされてきた頃、店に一人の客が入ってきた。綺麗めな格好をした女性だ。
 財前は一瞬彼女に目を向けたが、特に特徴があるわけでもなかったので、手に持ったスマホに目を戻し食事を続けた。続けていたのだが。
 しばらくすれば寝床を探すためにスマホに向けていた財前の目は、その女性に釘付けになっていた。
 ぐいっとジョッキを煽れば、CMにでもなりそうなほどに幸福な顔。食事も一口入れるたびに幸せを噛み締めるよう。この店の酒や料理が美味しいことには財前も同意だが、そんな表情をするほどか? という気持ちも正直あった。
 そんな調子でその女性の食事風景をちらちら横目で盗み見ていたのだが、彼女が残りのお酒を最後まで喉に流し込み、ドンと机にグラスを置いた瞬間、財前は席から立ちあがっていた。

「すいません、これと同じやつもう一杯」

 店主に言う財前をぽかんと見つめる女性は、はっと我を取り戻したように「あの……」と口を動かした。

「これ、俺の奢りなんで」

 大丈夫だとすかさず口角を上げてみせた財前に、彼女はぽかんとした表情のまま呟いた。

「……次は梅酒が飲みたいんですけど」



 
「あの、すみません……失礼なこと言って……」
「いや、次何飲むか聞かへんかった俺が悪いから……」

 申し訳なさそうに頭を下げる彼女に、笑いをこらえるのが必死だった。
 マイペースなその女性を面白く思った財前は、流れで彼女と同じ席につくことに成功していた。傍から見ればこんなナンパのような行動、普段の財前なら絶対にしないのだが、この日の彼は知らない土地での一期一会という体験の面白さの方が勝っていた。

「ここ、いっつも来てんスか?」
「いつもって言うほどじゃないですけど、ちょくちょく」
「この辺に住んでんの?」
「まあ……はい」
「あー、すんません。今のはデリカシーなかった」
「いえ。大丈夫です。あなたは……この辺じゃないんですよね、たぶん」

 財前が自分の最寄りの駅名を伝えると、その女性はえっと目を丸くした。

「まあまあ遠いですね。今日は、仕事か何かで?」

 彼女の質問は返答に困った。なんとなく、本当の理由を言うのは憚られた。

「とりあえず、仕事じゃないとだけ言うときますわ。……学生なんで」

 興味がないのか、女性はふうん、とだけ言って手元のグラスに視線を落とした。しばしの静寂。
 かと思えば、彼女は跳ねるようにばっと顔を上げ財前の顔を見つめる。その表情は、まさに驚愕に満ちていた。

「が、学生さん……?」
「そうですけど」

 財前の返答に、女性はあちゃーと額に手をついた。

「すごく落ち着きがあるから、社会人かと……」
「心配せんでも、俺、成人してますよ?」
「いや、うん、まあ……」

 財前には何が問題が分からなかったが、女性は頭を抱えながら机を見つめてうんうんと唸っている。

「俺が学生やったら何か問題でもあるんスか?」
「……まあ、成人してるとはいえ学生だから……悪いことしてる感じが……」

 先ほどまでも近くはなかった距離だが、自分の発言によって完全に壁を建てられた気がする。
 せっかく面白くなりそうな相手だったのに、つまらない理由で避けられようとしていることに、財前は苛立った。

「別にええやないスか。年もそんな変わらんでしょ」

 まあ、とかうん、とか。歯切れの悪い言葉を口にしながら女性は気まずそうにちびちびと梅酒に口をつける。

「居酒屋で飲むくらい、なんてことないスよ。話しかけたんは俺なんやし」

 何をそんなに必死に言い訳しているのか自分でも分からなくなってきた財前は面倒になり、酒を飲むことでそれ以上言葉を続けることはしなかった。
 その様子を上目遣いで探るように見ていた女性は、「それもそうですね」と残り少ないグラスをぐいっと煽った。

「次、何飲みます?」

 アルコール混じりの息をふう、と吐いた女性は、その言葉に視線を上げる。得意げな顔をした財前と目が合った。

「俺、学習は早いんで」
「確かに。偉いね」
「年下やと分かった瞬間、めっちゃ上からやん」
「なんか甥っ子みたいな感覚」
「その絶妙なポジションなんなんスか」

 控えめに笑う彼女からは、先ほど感じた壁は消えていた。
 少しだが心を開いてくれているのを実感すると、胸がむず痒くなった。




「今日はありがとう。楽しかったよ」

 ほんのり赤みに染まった頬を上へと持ち上げる彼女とは反対に、一切顔色が変わっていない財前はむすっとした顔で彼女を見下ろした。
 彼女はそんな財前の態度に気を悪くするわけでもなく、やれやれと大袈裟に肩を竦めてみせる。

「今日はこっちに泊まるの? 場所分かる?」

 彼女の言葉に、財前の眉がぴくりと動いた。

「……おかんみたいな気遣いやめてください」
「もう、意地っ張り」

 夜も更けてきたためそろそろ店を出ようという時だった。財前がお手洗いに行っている隙に、彼女は全ての会計を済ませてしまっていた。あの一杯は奢ると言ったのに、というより、自分の飲み食いしたものさえ払っていない。もちろん財前は抗議したのだが、「いつも一人だから楽しかった」と彼女は聞かなかった。格好もつけさせてくれない、ずっと自分のことを子ども扱いする彼女に、財前は再び苛立っていた。
 自分の態度があからさまに子どもだということは分かっている。しかし、それを理性で抑えられるならこんな空気になんてなっていない。結局財前は、彼女の言うように子どもだったのだ。

「じゃあ──」

 彼女はきょろきょろと辺りを見回すと、自販機へと小走りに駆けていった。

「お水、買ってくれない?」

 今日は楽しくて飲みすぎちゃったと笑う彼女に、財前は白旗を上げた。

「……何本でも」




 土地勘のない財前は、ただ隣を歩く彼女についていくだけ。
 どこに向かっているのかも分からないが、それを聞くことはしなかった。
 しばらく歩いていると、駅らしき建物が見えてきた。この時間に終わりが近づいていることを察して、財前は思わず立ち止まった。

「どうしたの?」
「……俺に付き合って遅くなったんで、送りますよ」

 綺麗なことを言ってはいるが、その実は自己中心的な欲しかなかった。
 この時間を終わらせたくない。財前は再び子どもになった。
 駄々をこねる財前を前に彼女は、「いつも歩いてる道だから大丈夫」と優しく微笑んだ。それでも財前は理由を探した。
 しかし、「今日初めて会った相手にいきなり家を教えるような不用心な真似はしない」と言われてしまえば、それ以上何も言えなかった。
 彼女もきついことを言った自覚はあったが、そうしないと引きずられてしまいそうだった。年自体はそこまで離れていないとはいえ、相手は学生。浅はかな選択はできなかった。

「この辺なら駅近くでホテルもあるし、部屋も空いてると思う。田舎だし」
「……」

 耳に入っていればいいと、彼女は続けた。

「今日は本当に楽しかった。これで明日からまた頑張れるよ」

 非日常は、日常では簡単に通り過ぎてしまうようなロマンチックでも、色濃く映し出してしまう。
 自分も彼も、それにあてられただけだと。一足先に社会に出た彼女は、自分は大人でなければならないと、彼から目を逸らした。
 
「もしまた会うことがあったら、次は奢ってね」

 それじゃあ。
 彼女は非日常から足を踏み出した。
 胸を締め付けるこの苦しさは、時間が解決してくれる。ああ、やっぱり今日は飲みすぎた。早く帰ってシャワーを浴びて、大好きな布団を抱きしめよう。あの全身を包む柔らかな感触を想像すると、自然と足が軽くなる。ほらもう、簡単。大人は薄情でこそ上手に生きられる。君はそんな大人にならないことを願っているけど、苦しんでほしくはないなあ……。

「あの──」

 腕を掴まれ反射的に振り向くと、先ほどのような苦々しい表情ではなく、迷いのない真っ直ぐな目をした財前が見えた。

「連絡先、教えてくれませんか」
「ごめん」

 彼女のあまりの即答ぶりに、財前は思わず吹き出してしまった。

「早いわ」

 先ほどまでは彼女の方が精神的に優位であったが、今はどうだろう。
 掴まれた腕は汗が吹き出しそうなほど熱く、心臓は今にも飛び出しそうに騒いでいる。大人であるべき自分は、どう返すのが正解なのか。
 彼女の思考が焼けている隙に、財前は畳みかける。

「あ。言うときますけど、分かってたんで何も効いてませんよ。自分は俺を子どもやと思うとるみたいやけど、俺から見たら自分も充分子どもやで」
「なっ」
「大体そんな年も離れてへんのに偉そうやねん。ちょっと早く社会に出ただけやのに背伸びしようと必死なんが笑えるわ」

 あまりの言い草に、流石に理不尽を感じた彼女は頭が冷えてきた。なんなら、少しの苛立ちさえ感じる。

「何で最後にそんなこと言うの? これじゃあ、あなたのことを思い出すたびに嫌な気持ちになる」
「なればええ。嫌でも記憶に残る方がええわ。そもそもそんな記憶、俺がすぐに塗り替えたるけど」
「何を言って――」
「自分が連絡先を教えてくれるまで、何度もここに、あの居酒屋に通ったる。嫌われてもええ。うんざりするほど、俺は駄々をこねたるわ」
「横暴すぎる……」
「子どもはいつだってそんなもんやろ?」

 得意げな顔で言う財前に、今度は彼女が白旗を上げた。

「……わかった。私の負け」

 大きく息を吐く彼女に、財前は心の中でガッツポーズをした。
 自分のスマホに追加された新しい連絡先に緩む口元。ぎゅっと引き締めてはまた緩み。手で口元を隠した方が早そうだ。

「じゃあ、そっちのコードも見せて」
「ああ、今からメッセージ送るんで、それを登録してください」
「確かに。その方が早いか」

 スマホを見つめてメッセージを待つ彼女。財前は画面に指を滑らせた。
 ぴこん、と彼女のスマホが鳴る。「きたきた」とメッセージ画面を開いた彼女は、そこに表示された文面に眉を寄せた。

「どういう意味?」
「そのまんまスけど」

 名前を教えてください。
 彼女の画面には、そう記されていた。

「え? でも、そっちに書いてるよね?」

 今更だが、二人はお互いの名前をここまで知らなかった。ただ居酒屋で出会った一日だけの飲み友達には必要なかったから。
 彼女の指摘通り財前の元に追加された連絡先には、名前であろう文字列は確かに書いてあった。

「自分の口から聞きたい」

 今までとは違う財前の声音に、彼女の胸が大きく跳ねる。

「〇〇△△……です」

 妙に恥ずかしくて俯きがちに言うと、上からくすくすと笑い声が降ってくる。

「な、何を笑って――」

 財前とは今日出会ったばかりで、彼のことは何も知らない。
 それでも彼女は、直感的に思った。
 これはきっと、誰もが見れる簡単な表情ではないと。

「財前光、言います。よろしくお願いします」
 




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