泣けない子供
しとりしとりと雨が降る。秋の雨はべたりと肌に張り付いて、重い。
柳生宗矩は、いつしか彼が流した涙を思い出した。盃に落ちたのも知らずに飲み干して、夜はなかったことにされてしまった。
彼の仕えていた主君が没したのは、随分と前の夏だった。つまりその夜も随分と昔のことなのだろう、と思うのだが、もうろくに覚えていない。
雨宿りにした木の葉から雫が垂れる。
病没と聞いている。生涯の殆どを賭けて苛烈な松永と戦ってきた男は、静かに生を終えた。それから少しして彼は筒井を去った。
絞れそうなほどに水を吸った髪の紐を解く。ばさりと腰についた長い髪が不快感を煽る。
次こそは、敵味方になることもなく。
そう願うのだが、浪人としてふらついている彼が次に何処へ行くのか、宗矩に知るよしもない。
泣けない子供
随分前の、夏の記憶だ。
大和の地酒を引っ提げて、島左近は宗矩の元を訪れた。まだ日は高く、宗矩は太刀の手入れをしている最中だった。
「こんな間から酒かァ。相変わらずろくでもないねェ、左近殿」
宗矩は悪意を隠さずに言ったが、左近ははっと一つ笑い飛ばした。
「酷い言い様だ。ま、否定は出来ないがね」
「いいのかァ、こんなところで油を売って」
宗矩の記憶が正しければ、左近の主家は今、慌ただしい状況にある。左近は僅かに口角を歪ませ、宗矩に答えた。
「まあ、そう逼迫した状況でもないさ」
胡座をかいた二人の間で地酒の注がれた器が光る。
「それにしたって、何でまたこんなときに出歩いてるんだァ?」
「こんなときだからこそ」
左近は眉を下げた。宗矩は顔を上げる。
「呑まないとやってられなくてね」
空笑いが盃に溶ける。宗矩は黙って酒を注いだ。蝉の声が聞こえていた。
「殿は立派なお方だったよ」
最期まで、と付け加え、左近は杯を仰いだ。筒井順慶は笑顔のまま没したという。主をどういう表情で見送ったのだろうか。宗矩の中にある左近には、似合う顔がない。
「どんな将を討とうが、主の病一つ討ち果たせないんだ。あそこに俺の居た意味なんてあったのかねぇ」
今の左近は自棄的に笑っている。雨音が聞こえてきた。
「それとも、病に落ちるまで守り切れたと見るべきか」
宗矩が言うと、左近は笑顔をくしゃりと歪めた。
「悪いね。アンタに励まされようと思ったわけではないんだが」
「いいや、慰められに来たんだろォ?」
宗矩は笑うが、左近の眦からは涙が垂れた。その一滴は頬を伝って落ち、酒の中に滲んだ。
「……定次殿の周りが落ち着かれたら、俺は家を出ようと思ってる。殿にはよくしてもらったが、だからこそ俺の居場所はもうない」
雨音は強くなっている。宗矩は盃を置いた。
「次くらいは、同じ場所に立てるといいねェ」
左近は黙って酒を飲み干した。
「我輩特製の大福だ。一つどうだねぇ?」
ぬっと大福を差し出され、宗矩は困惑した表情で老人を見上げた。松永久秀はにやにやと笑っている。
「頂くよォ」
宗矩は大福を受け取るなり、口に突っ込んだ。味は分かっている。これも一度や二度ではない。
いつかの記憶だった。草を揺らす風が心地よい時期だった。
久秀は暇があると料理をしていた。どうやら趣味らしい。だが食べるまでには興味が失せるのか、出来上がった食べ物を兵やら民やらに分け与えていた。破滅的なところもある久秀だが、自分の支配下には慕われている。それは宗矩も例外ではない。
「松永殿がいなくなっちゃったら、拙者のご飯がなくなるねェ」
口の端についた餡を舐め取りながら宗矩は言う。久秀は高笑いで弾き飛ばした。
「ならば我輩についてくるかぁ? 地獄までな」
「それは嫌かなァ、痛いのは嫌いだから」
ぎょろりと光る久秀の目からは、本気の意思が見て取れる。
「無駄死しないでくれよォ、松永殿」
甘くなった口で宗矩は洩らした。久秀は既にそっぽを向いていた。
燃え落ちる天守の下で、宗矩は小さく首を振った。
「……ほら、だから言ったんだ」
久秀の身体は爆ぜ、宗矩は置き去りにされた。ある秋のことだ。生きる場所をなくした宗矩の元を、再び左近が訪れた。
「思ったより元気じゃないか」
左近の手には大和の酒がある。
「ま、分かってたからねェ」
宗矩は左近を招き入れた。また雨が降りだしていた。
「雨男だねェ、左近殿」
宗矩がからからと笑い、左近も笑っていた。
「悲しかないのかい」
「ううん、どうだろうなァ。世話になってた人が死ぬことなんざ、よくあることだろォ?」
「……そりゃ、そうなんだがな」
雑談を肴に酒で語り、夜が更けていく。軒先で雨宿りしていた猫は餌を求めて歩き出した。ちらちらと星が瞬き始める。
「……あんたも呆気なく死にそうだねェ」
宗矩はぽつりと呟いた。
「そうかもしれん」
左近は悪びれずに言った。宗矩は壁に凭れた。
「死んだら何もかも終わりだよォ、左近殿」
「いや、案外そうでもない……と言いたいが、どうだろうな。俺が殿の死を無駄にしたくないだけかもしれんが、そう思いたくはないのさ」
「忠義の男って感じだねェ。だからこそ、簡単に死にそうだ」
左近は宗矩をじっと流し見た。天井に目を向け、どこか遠くを見ている宗矩に笑いかける。
「死んで欲しくないって泣き言くらい言ってみたらどうだ?」
宗矩は左近を見下ろし、酒を煽った。
「柄じゃあない」
更けた夜が明けていく。
曇天は土砂降りをもたらして宗矩を濡れ鼠に変えた。
足元には赤い花が咲き乱れている。燃える火のような花びらを葉のない真っ直ぐな茎で持ち上げ、宗矩を笑っている。
「……何を言ったところで無駄だったからねェ」
遠い日を思い出した宗矩の声も雨音よりは弱い。慰め合う男はもう居ない。
「死んだらそれまでって言っただろォ。拙者は今でもそう思うねェ」
徐ろに茎を一本折り取り、花を握り潰す。赤い破片が雨に流れた。
「こんなものに成り果てて、何が残せたっていうんだ」
手の中に残った欠片も全て捨て去り、宗矩は眉間に皺を寄せた。
「どいつもこいつも自分勝手だよォ。出来ないことばかり言って、勝手に死んでいくんだ。何の意味があったってんだァ?」
降りしきる豪雨の中、宗矩は叫ぶ。誰にも聞こえるわけはないが、一人で愚痴を叫ぶ。
「死んだ意味があったっていうなら、何で」
額に掌を押し付ける。
「拙者は涙の一つも出ないんだァ?」
宗矩は大きな身体を曲げて唸った。
激しい雨は宗矩の代わりを為すかのように、その頬を伝った。