泣かない子供


 花が散る。
 山の麓に咲き誇っていたはずの色は踏み荒らされて足跡に変わっていた。
「ここにも、戦の影響が出ているのですか……」
 笠を深く被った僧は嘆く。嘆く先が戦によって失われた命なのか、それとも散った花そのものなのかは定かでない。
「戻りましょう」
 筒井順慶は、供の島左近にそう声をかけた。

泣かない子供

 左近の主は、赤子の頃に父の跡を継いだ。父親が早くに亡くなった為だ。藤勝という名前が与えられたその子供は母の腕に抱かれ、澄んだ瞳で自分の家臣を見渡していた。
 左近はそこで違和感を覚えた。暫く前からそうして大勢の人間に触れて疲弊しているはずなのに、藤勝にはその様子がない。嫌だとも、眠いとも喚かない。そして左近は気付いた。
 主は涙を見せていない。
 普通ならばすぐにぐずつくはずの年齢だが、藤勝は決して泣こうとしなかった。それどころか微笑んで愛想を振りまいていた。扱いやすいとも取れるが、左近にはもっと別のものに見えた。
「頼もしいことではないか」
 隣で同僚の松倉右近が笑うが、左近は寧ろ、
「気味が悪い」
 そう思った。声にはせず、右近には笑顔を返した。
 藤勝は花を愛でていたが、花が枯れても悲しむことはなかった。また平和を愛していたが、戦にあっても弱音を吐くことはなかった。
 そんな藤勝が十を過ぎたある日、左近は家臣の子供達に群がられていた。
「やれやれ……」
 見れば左近の他に大人の姿はなく、どうやら遊び相手を任されているようだ。左近は量の多い毛を指で掻き混ぜながら溜息をついた。
「子供の相手はあんまり好きじゃないんですけどね」
 服や髪を引っ張られつつ文句を垂れる。その様子を藤勝はくすくすと笑った。はっと左近が気付いて不味そうな顔をしたことも可笑しく思え、一層笑い出す。
「似合いますよ、左近」
「……嬉しかないですよ」
 元は女児のものであろう、可愛らしい色の紐で結ばれた髪の端を指さして藤勝はくるくると笑っている。一方の左近は、むすりと眉を顰めて目を逸らした。
「何か御用で?」
「いいえ。ただの通りすがりです。楽しそうな声が聞こえたものですから」
 周りの子供と藤勝は同じくらいの歳なのだが、子供達はきゃっきゃと声を上げて遊んでいる。転べば泣くし、すぐに機嫌を直して走り去ったりもする。だが藤勝は、そんな子らを見て薄く微笑むだけだ。
「殿は、まるで子供じゃないみたいですな」
 適当に悪童をあしらって左近は呟く。泣き喚く子供の声を遠くで聞きながら、藤勝はいつもの顔で小首を傾げた。
「ええ」
 大きな瞳が左近を映し込む。
「私は筒井の当主ですから」
 カタカタと音を立て、外を冷たい風が吹き抜けていた。左近は暫く藤勝の顔を見つめていたが、やがて子供らを連れてその場から離れていった。
 藤勝は首を傾げたまま来た道を戻った。
 筒井の城が襲撃に遭ったのは、そのすぐ後のことだった。三好の一派に追い立てられ、藤勝は城から脱出しようとしていた。城自体に未練も愛着もない。ただこの先を考えながら、藤勝は駆けた。その先で香のような匂いが漂った。
「ようこそいらっしゃいました、筒井の若殿」
 ねとりとした声が耳に纏わりつく。右目側に大きな傷のある老兵は赤い紐の通った袖を振り上げ、小刀を投げた。藤勝は反射的に両腕で頭を庇い、小刀は片腕に突き刺さった。
「くっ!」
 鋭い痛みと共に着物へ赤が広がっていく。藤勝は小刀を抜き取り、その場に捨て去った。顔を歪めながら走り出す。
「逃がしませんよ」
 その声も最早聞こえないほどに駆けた。背後で兵の倒れる音がした。
 花を踏みながら藤勝は走る。瞳に彼の傷跡が焼き付いて離れない。
 無事に撤退を終えた後も藤勝は決して泣き言を漏らさず、すぐに家老を集めて意見を求めた。
「殿、お怪我は」
 左近にそう尋ねられても、藤勝は汗を浮かべて微笑むだけだ。

 藤勝は落ち葉の山に腰を掛けながら、左手で持った握り飯に口をつけた。
「いい天気ですね」
 色の薄くなってきた空を見上げて微笑む。利き手である右手はだらりと下ろし、指で落ち葉を撫でる。
「……殿」
 眉を下げた左近が傍に立っている。藤勝は笑顔で見上げた。
「どうしたのですか?」
 動かさない右腕には傷がある。左近の視線はそこに注がれている。
「たまには、泣いても怒られやしませんよ」
 藤勝は指についた米粒を舐め取りながら首を傾げた。
「何のために、ですか?」
 秋風は藤勝と左近の間に吹き流れ、落ち葉を巻き上げた。

 踏み荒らされた花を見下ろす順慶の後ろで、左近は昔のことを思い出していた。順慶は相変わらず穏やかな表情しか見せない。結局、左近が一度も泣き顔を見ないまま、順慶は子供の時期を脱した。
 風に袈裟を膨らまされながら順慶は草を踏み分け歩いている。その先で草は枯れていた。順慶はふと足を止め、枯れ草を観察した。決して珍しいことではない。だが順慶はそれを見続けた。供の者に声をかけられても返事すらせずにその草を見ている。
「殿?」
 見かねた左近が肩を揺さぶった。順慶はぱっと顔を上げ、次の瞬間には目を見開いた。枯れ草の続く向こう、木の影に、人の姿がある。
「貴方は……」
 順慶は目を瞑り、首を振った。再び瞼を押し上げたときには人影など見えなくなっていた。
「……いえ、見間違いです。心配させてすみません」
 従者が怪訝な顔を隠せずに順慶へ向ける。無理もない、と左近も考える。だが順慶の肌に伝う冷や汗の理由を察せられぬわけではない。順慶は明らかに恐れている。
 左近は順慶にわざわざ微笑みかけた。
「何を見間違えたのです?」
 細い糸が光る。先の声は左近ではない。糸は順慶の首に絡まり、締め上げる。外そうと藻掻いても糸に指をかけることすら出来ず、そのまま伸びる先へ引き摺られた。
「殿!」
 叫び声を掻き消すように火花が弾ける。周囲の木々は赤々と燃え、崩れた。その中心に転がった順慶を蹴飛ばすのは、いつかと同じ傷の男だ。
「ご機嫌麗しゅう、筒井の若殿」
 松永久秀は炎の中で嗤っていた。順慶は眉を顰めながらも懐から鋏を抜き出し、首に絡みついた糸を乱暴に切った。すぐさま立ち上がり、握り締めた鋏を久秀に向かって振り下ろす。
「幾分かは良い顔つきになったようですね」
 鋏が血で塗れている。自らの掌で切っ先を受け止めながら、久秀はやはり嗤っている。順慶は鋏から手を離し、反対の手で小刀を久秀の喉に向けた。
「ですが……」
 弾かれた銀色がきらりと光り、熱の中に落ちていく。
「まだ、私が奪うほどではありませんね」
 細い刀が順慶に向けられていた。右腕に残る傷跡を抑え、順慶は炎の壁で隔たれた仲間の方へと走る。それを見た左近は斬馬刀を振り、火の移った枯れ草を払った。少しだけ火の手が和らぐ。順慶はそこに飛び込んだ。飛びかかる緋色の粉も構わず、久秀の手中から逃げ去った。
 山は熱気で噎せ返っていた。いつの間にか、久秀の後方に松永の兵らしき者が押し寄せていた。
「また、戦ですね……」
 順慶の呟きは爆ぜる枝の音に紛れ、走り出した風に吹き消された。幸いにというべきか、久秀はその場で追うことはしなかった。ただ順慶は逃げ帰った先で唇を噛んだ。
「情けがない……」
 戦準備に追われる左近の前で、そう洩らす。左近は複雑そうに笑った。
「これから巻き返してやりますよ」
 順慶は首を左右に振る。
「そうではないのです。……いえ、勿論、彼らを追い返すことは大切ですが、私が嘆いているのはそうではないのです……」
「では、何を?」
「私は……彼に見くびられていることが悔しいのです」
 順慶は袖を捲り、右腕の傷跡を左近に見せた。わざわざ抜いた小刀を身につけていたほどに、幼かった順慶の心に突き刺さったものだった。
「松永殿は、私を自分の手にかけるまでもないものだと思っているのです。そう思われているのです。私の首は幾分かの土地に変わるでしょう。しかし、私自身には、価値もない……そう思われるのが悔しくて仕方がありません」
 左近ははっと目を丸くした。順慶の目元に光るものがある。だが瞬きをした後には消えていた。
「私は自分の価値を証明してみせます。筒井の殿としてではなく、私自身の価値を」
 いつもは下がっている眉尻が上がり、額には皺が寄っていた。左近は寧ろ、過去よりも今の順慶に親しみが湧いた。
「共に参りましょう」
 順慶は太刀を取り、笠を脱いだ。左近は笑っていた。
「ええ、勿論ですよ」
 煙の臭いを掻き消すように駆けた。左近はもう、順慶の泣き顔を拝みたいとは思ってもいなかった。




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