百万の息吹


 さわさわと音を奏でる稲穂は金色に輝き、見るも豊かに雁首を垂れる。鍛治屋が鋼を打つ音、地の底までも響くような太鼓の音、軽快に組み上げられてゆく木の高台。
常と変わらぬ営みが広がる、ここは戦国の世。
 たすきをひと振り、はちまきにすげ替えて羽織った戦着からは黒髪がばさと躍り出た。
「……よし!」
 妙齢の女性が持つには少し――いやかなり大きい、抱えたかごからぽとりと文が落ちる。
 くすくすと口元を押さえながらその文を拾い上げるのは、同じくらいの年頃の女性。
「いぶきさん、落ちましたよ」
「さや殿!」
 すみません、と言いながら甲に包まれた手が文を受けとる。
 その手が籠をおもむろに開けると、それは落ちても仕方がないというくらいの量の文がぎちぎちとひしめいている。
「……いぶきさん、重くありませんか?」
「このくらい、……っしょ! 領主様の、ためなら!」
「それはそうですけど……くれぐれも無理はなさらないでくださいね。そうだ、旅立ちの前に運試しはいかがですか?」
「え……良いのですか?」
「もちろん。だって、いぶきさんが率先して伝聞役を仰せつかってくださったんです、私もできることでお手伝いしたいのです」
「そうですか、それでは……」
 用意された小ぶりのかごへ手が差し入れられる。
 開いた紙には、朱で花丸がついていた。
「良い旅になりそうですね!」
「ありがとうございます、さや殿! 心なしか体も軽くなった気がいたします!」
「それは良かった! 気をつけて行ってきてくださいね!」
「はい! それでは、行ってまいります!」
 懐に『一等』の文字を折り込んで、いぶきは晴れ渡る空を見上げる。
 爽やかな風が一陣、背中を押すように吹き抜けた。

 長い髪を風にはためかせ、いぶきは走る。田園の間を抜けながら百姓に手を振り、青々と茂る蜜柑の葉を見上げながら手にしたかごを抱え直す。
 ふと畑の方へ目を向け、いぶきは立ち止まった。首にかけた手拭いで額の汗を拭う老齢の男性は一見すると農民のようではあったが、目を凝らすと身につけているのは具足であることが分かる。
 いぶきはそちらの方へ駆けた。
「長秀殿!」
「おお、いぶき殿ではありませぬか」
 丹羽長秀は人懐っこそうな笑みとシワを顔に浮かばせた。
 いぶきは長秀を労ってから、
「これをどうぞ。皆さまにお届けして参っています」
 かごの中から文を一つ取り出して長秀に渡す。長秀はそれを受け取ると懐にぎゅっとしまった。
「おや、お嬢さん」
 背後から降る声にいぶきははっと振り返った。その反動でかごから文がぽろぽろと落ちてしまう。
「ああ、すまない。驚かせてしまっただろうか」
 慌てるいぶきの傍で、長い前髪を揺らしながら屈み、高橋紹運は文を柔らかく拾い上げた。いぶきが見上げると紹運の背後にも数人の影が目に映る。
「そなたが忙しなく働いているということは、何かあるのだな」
 真田信綱が同じく落ちた文を拾い集めると、
「ほう、それは楽しみだ。そなたの催しであれば間違いはないだろう」
 似たような口ぶりで弟の昌幸が微笑む。いぶきは面々を見て頭を下げ、説明とともに文を配った。異色とも言える取り合わせに、何の集まりかと尋ねる。
「身内自慢のようなものさ」
 森可成がからからと笑う。
「うちが一番に決まってるがなァアアア」
「まあ、気丈さでは群を抜くかもしれないな」
 戸次鑑連は拳に力を込めながら主張したが、同胞の紹運がそれを笑顔で軽く受け流す。
「実の息子よりも義理の方を自慢したいものよ」
 嘆く柳生石舟斎の横へ、手合わせを終えた同じく剣豪である上泉信綱と、彼の主である長野業正が共に立つ。
「ひょひょ、言うてもお主の息子も大したものよ」
「わしらに比べてしまえば皆まだまだヒヨッコだがのう!」
「ふふ、皆、家族仲がよろしいようで何よりだ。例の会合へもさぞ快く送り出したのだろう?」
「ああ、秀吉殿の開いた。信忠様もご参加とのこと、きちんとお守りするよううちも双方重々言い聞かせたさ。最も、弟は兄の面倒を見る方が多いかも知れぬがね……ともかく、そういう高橋殿は?」
 可成の言葉を受けるとふっと微笑んで紹運は横を向く。
「うちのは奔放で弱る」
「ああ……」
 いぶきも同じように――困ったように微笑んだ。何者にも縛られない、風のような男の爽快な笑みが頭に浮かぶ。
「うちの信之は喜んで行ったのう。曲がりなりにも勉強会の銘だからじゃろうな」
「幸村は……森殿のご子息のようなことを言っていたか」
「大御所殿のご子息も参加なさるとのことだったか……放蕩息子も、護衛の一つや二つくらい気を回せぬものか」
 石舟斎がまた嘆息すると、
「何と言っても秀吉殿の催しですからなぁ……あのヤロウには向いてないだろうぜぇぇええ!」
「ひょ、落ち着くのじゃ長秀殿」
「何だ何だ、盛り上がって来たなアアアアアアアア!?」
 収拾がつかなくなりそうな面々に、いぶきは少し後ずさりする。
「そ、そんな催しもあるのですね。それでは、私はそちらへ向かってみます。情報ありがとうございました!」
 手を振る顔は一律、重ねた年齢に相応しい穏やかな笑みを浮かべていた。

「……であるからしてこのような無知蒙昧は言語道断厚顔無恥、不義にして一笑に臥すべきものであり――」
「おい、そこ」
 気合一閃、凍気が飛ぶ。一瞬生じた氷塊はすぐに溶けた。
「………はっ!?」
「なっ、なっ、何するんだよ三成! 俺達に向かってそんな態度、許されないぞぉ!」
 学問所に揃う面々は次代を担うべくして集まった二世達だ。戦国の将星の元に産まれただけあって、それぞれ個性的な光を放っている。集いの提案者である秀吉、そのお抱えの学問所の主、大谷吉継の講義は玄妙で、普段のそれぞれ抱えの師に慣れている人物――豊臣秀頼、徳川秀忠のような者が適合するには難儀かも知れない。それだけならまだしも、吉継の刎頸の友、石田三成がお目付け役とあっては、落ち着く心根も落ち着かないだろう。そんな三成の実力行使がすぐ溶けたのは受けた本人達の質によるのだろうが……そのふくよかな体つきのせいにも思えるから不思議なものである。
 監視付きの講義に特に聞き苦しいところもなく筆を走らせていた真田信之は、動かしていた筆を止めるとまあまあと一触即発の空気の仲裁に入った。
「お気をやすめてください、秀忠様。三成殿にも深いお考えがあってのお諌めでしょう」
「い……居眠りは、よくない、と、思います……!」
 追いかけて、中国以西代表の二代目、毛利隆元も続く。それに言い訳するように秀頼が頬をかきかき言う。
「僕ぁ、吉継の話は、に、苦手、なんだなぁ」
「慣れてください、秀頼様。お父君――秀吉様は、じっくりと頷いてお聞きになりますよ」
「……それは、もしや眠っているのでは?」
「信忠殿……明察……かと」
 普段の秀吉をある程度知る、彼の主である信長の子――織田信忠は三成の言葉に思わず口が溢れた。その呟きを聡く聞き付け、北陸の龍の子、上杉景勝が賛同する。
 そのまま秀吉談義になだれ込みそうな学舎内に、ばらばらと大量の文が流れ込んできた。ぽかんとする一同のなか、いち早く気を取り直した信之と隆元が障子を開け放つと、そこには前のめりでぬかるみにはまるいぶきの姿があった。
「うう、情けない……」
「いぶき殿、誰にでも失敗はありますよ」
「転んだら……起きればいい。何度でも……」
 助け起こされたいぶきは、一度きれいに整頓し直された文をそれぞれに渡しながら告げた。
「何度でも……。そうです、そうですよね! あの、この文にその思いがつまっておりますゆえ、ぜひ皆様ご覧になってください!」
 早速文を開いた隆元の口から、ひとつ、提案が出る。
「い、いぶき殿。この文は……ち、父上や、お、弟達には、もう……渡しました、か?」
「……なるほど。この内容です、伝達は速いほうがいい。幸いと言おうか、毛利も真田もわりかし人が多く、今ここには私たちがいる……さすが隆元殿ですね。さて、というわけでいぶき殿。この件、是非私達にお任せくださいませんか?」
「よ、良いのですか!?」
「ええ、もちろん。いぶき殿からのたっての頼みだと別途文をしたためましょう。ね、隆元殿?」
「は、はい! わ、私も、文を書くのは、好き……です」
「上杉……協力……」
「信之殿、隆元殿、景勝殿まで、素晴らしいお心遣い。感服いたします。さていぶき殿、私は――織田は、転戦の多い家柄。なかなかそのような形で協力することが難しい。ですから、織田は楽市楽座を開けるという形で協力したいと思います。いかがでしょうか?」
「ぼ、僕だって協力するんだなぁ。父上に言って、近いうちに大茶会を開いてもらうよぉ。豊臣以下にはその時に渡せば、こ、効率、いいよねぇ」
「なんだなんだ! お前らだけいい顔をして! 徳川だって……その、協力するぞぉ!」
 わいわいと自分の得手を提案し始める面々に、吉継は目を細め、三成は鼻をフンと鳴らす。至極分かりにくい二つの笑みを拾い、いぶきは朗らかに笑う。
「三成殿、吉継殿。ご厚情感謝いたします!」
「……なんの話だ?」
「三成。いぶき殿であるぞ。……こちらこそ、恐悦至極。またと無い機会、重々感謝致す」
「……フン。また馬鹿が馬鹿騒ぎするな――こうしてはおれん。吉継、帰るぞ。……茶会の手配だ」
「御意」
 学問所から消えた二名の背を目で追ういぶきの耳に、地図を囲む輪に入るよう叫ぶ声が入る。
「関東の徳川、北陸の上杉、中部の真田だろ。近畿の織田・豊臣、中国の毛利、で、この間に――」
「播磨……」
 ぼそりと景勝が言う。そこには件の秀吉によって建設された城がある。近畿に属してはいるが、織田と毛利に挟まれてどちらともつかない地域になっている。
「いぶき殿はそこへ向かうのですか?」
 信之は目を細めたまま心配を口にした。複雑な事情が折り重なり、あまり平穏な地とはいえない。
 だが、いぶきの姿はすでに見えなくなっていた。

 信之らの懸念もよそに、いぶきは早々に目的地へと辿り着いていた。喧騒が近い。何事かと走ったいぶきは、武器庫の前で酒を仰ぐ二人組を見留めた。地べたに座り込み、酒瓶を囲んだ二人は少しも酔っていない目元でいぶきを見上げる。
「久方ぶりじゃの。せやけん、今、呑み比べしよっと、用なら後に頼むったい」
「この俺が負けるはずもないがなあ」
 母里太兵衛、後藤又兵衛。近付くと酒の臭いがより強く、いぶきは数歩下がった。
「文か……こちらで受けよう……」
 立会人である池田輝政がいぶきから二人の分もまとめて文を受け取る。近くでは黒田官兵衛やその息子である長政、千姫の姿もある。どうやら太兵衛と又兵衛の呑み比べを観戦しているようだった。
「ところで……近頃城下が賑やかな気がせぬか」
 文を集いに渡しつつ輝政が話を振る。長政は頷いて、
「何やら播磨が賑わっているというのは耳にしています」
「千、知ってるよ!」
 細やかな目配りならではの発言をしたのだが、すぐに勢い良く手を上げた千姫の方へ視線が集中してしまう。
「あのね、たいが、っていうのが――」
「それ以上口にするな。火種として消さねばならぬ」
 官兵衛はなおも無邪気に喋ろうとする千姫の言葉を口早に遮った。えー、と口を尖らせる千姫だが、流石にただならない圧力を感じて黙ってしまう。いぶきはというと、籠を抱え直し、満面の笑みを浮かべた。
「そちらも盛り上がると良いですね!」
「…………卿もか」
 自分も酒を呑んでしまおうか。多少頭痛を覚えた官兵衛は、少し羨ましげに太兵衛と又兵衛を見比べた。
「ところで、皆様は集いの情報などご存知ありませんか?」
「集い……。……都が騒がしいという噂は伝わっているが」
「どうせまた将軍サマが何かやってんじゃねえのか」
「よかたい、よかたい! お祭り騒ぎは歓迎ね! したらまた大手で杯が呑めるっ――」
「太兵衛、大酒呑みもほどほどにせよ。何れにせよ喧騒は火種であろう、そのうち様子を見に行かねばな……?」
 ちらと官兵衛が横を見やる。いぶきはあっと手を打った。
「でしたら、先に私が様子を見て参るというのはいかがですか? いずれあちらには行く予定でしたので、早くなる分には問題ありません!」
「そういうことならばお任せ致そう」
 官兵衛は至極わかりにくく口の端を上げる。いたく湾曲的な父の優しさに笑みつつ、長政はお願いします、といぶきに向かって会釈をした。

 ぽーん。気持ちの良い音をたてて鞠が蹴上がる。穏やかな顔で鞠遊びに興じる公家風の男達のすぐ近くでは一転、徒手空拳を放つ若衆の気がほとばしる。一戦を終えた互いの間でぱちぱちと手を叩くのは、どっちつかずの若者だった。
「いやあ、どちらも見事なものですな。眼福、眼福」
「氏真、そんなところでぼーっとせずに、こちらに来て蹴鞠に入る、の!」
「ったく、まだ若いってのに修行もしないなんざ……今川はだからダメなんだなぁ?」
「成政、口を慎め。氏真殿、申し訳ないです。これはこういう言い方しかできぬ故、ご容赦ください」
「秀政殿、そうは言っても成政殿の言葉にも一理あろう! いくら戦がなくなったとて、この世にはまだ漫然と悪ははびこっているのだ! 我々はそれを粛清するため、常に技を磨いて行かねばならん!」
「どうどう、落ち着けってばよ、陶殿! しっかし、オラんとこの軍師さまみてぇなこというもんだ。お、そういや心なしか服も似てっかなぁ?」
「弥太郎殿、それは本当かね? 晴賢が二人……なんて」
「想像するだけ気が滅入ってしまいそうですね、義隆殿」
 だらだらと続く会話は甲高い声で遮られた。
「もーう! 次の勝負はまだぁー? アタシがわざわざこんな所まで出てきてやってるのよぅ、将軍様をもっと労りなさいよぅ!」
 鶴の一声に、蜘蛛の子を散らすようにぱっと円が広がった。数多の目が仰ぐ空は雲ひとつなく晴れ渡っている。天晴という言葉とは今日の日のためにあるようなものであった。
 都にほど近い、ある町の昼下がり。将軍足利義昭、山口の王大内義隆、東海一の弓取り今川義元、その子氏真、佐々成政、堀秀政、陶晴賢、鬼小島弥太郎。集まった面々は高く高く鞠を蹴り上げる。補整された地の美しい白砂をざっと踏むと、だるだると揺れていた氏真の脚は打って変わって鋭く鞠をとらえた。
「お〜! すんげっぺや!」
「ッチ、そんなことできんの……かよっ!」
 風を味方にしたような鞠の軌道をきんと張り詰めた集中で成政は受け止め、鞠はまたふわり上がる。
「氏真の鞠を受けるとは、佐々殿もなかなかの技じゃの! まろも負けてはおれん……のっ!」
 ごうと唸るような気合いが義元から見えるのなど、きっと蹴鞠のときだけだろう。しかし、受ける側も負けてはいない、ざんばらに下ろした秀政の髪はぴりぴりと溢れる気に揺らめき立つ。閃く上掛けとともに高く舞った鞠は――そのあと、地につくことはなかった。
「…………ん、もーう! あんたたち、本気出しすぎよぅ!!」
 ぷりぷりと頬を膨らませる将軍に面々が深く頭を下げているまさにその時、その場にたどり着いたいぶきが目を丸くするしかなかったのは、想像に易い。
呆然としていたいぶきはやがて我に返った。
「これは失礼。蹴鞠中でしたか。……蹴鞠とは、もう少し静かな嗜みだと思っておりました」
「蹴鞠は奥が深い、の! ささ、いぶき殿もいざ一戦、の!」
「ええっ、わ、私には別の用がありますので……」
 嫌な気配を感じ取り、いぶきは深々と頭を下げて文を取り出した。リスのような瞳と一進一退の攻防を繰り広げるいぶきをよそに、ぱらりと紙を開いた大内義隆がふむと唸る。
「文で達し。あのときと同じで逆だねえ、風流じゃないの。ま、もう少しのんびりとしたかったけど、仕方ない」
「おー、こりゃ楽しみだっぺ! なあ」
 弥太郎が笑うと肩の小猿もいっしょにキィと鳴いた。いぶきもつられて微笑む。
「それで、また次へ知らせに赴かなければならないのですが……皆さまは大勢の方が集まる場所を知りませんか?」
「そういえば、あちらには温泉があったね」
「温泉、いい響きねぇ」
「なるほど、いい案ですね! ありがとうございます!」
 ほんわりと湯治の話題で盛り上がる一同に礼を述べ、いぶきは旅立つ。が、すぐさまこの判断を後悔することとなる。

 湯気の立ち上る奥地を見つめて、いぶきは閉口した。
 ここはこのあたりでも有名な温泉地だが、安らぎとは程遠い面々がばったりと顔を合わせてしまっていた。
「このようなところで相見えるとは……ククク、わざわざ出向いた甲斐があるというもの」
 乱世の梟雄、松永久秀は不敵に笑う。それを見た今孔明の竹中半兵衛は一際大きな声で、
「うわー、何かやな人達に逢っちゃったなあ。相変わらず性格の悪さが顔に出ちゃってるしー」
「陰険小僧が何を言いよる」
「……鏡」
「何か言いましたー?」
 美濃の蝮、斎藤道三が半兵衛横目に言うと、ぼそりと斎藤義龍がそれを拾う。半兵衛はお返しとばかりにすがすがしいほどの笑顔を義龍に向けた。
「これは……兄者、日を改めましょうぞ!」
十河一存が強い語気で兄の三好長慶に進言するが、長慶は久秀に似た口元を作るだけだ。
「何、湯治くらいは気を抜くと良い……くく」
「そう言うのならば、その悪趣味な人形を置いてきたらどうかね」
 溜息を吐く百地三太夫には普段通り色がない。肌も髪も白く、作り物にすら見えてしまう。
「ホホ、どれもこれも血気盛んなことよ」
 鷹の翼に似た袖を振り、本多正信は特徴的な笑い声を上げた。あまりにもあまりな面々に、いぶきは立ち止まったまま動けない。すると唯一の女性、義姫が恍惚とした笑みを浮かべたままいぶきの頬に触れてきた。
「可愛い子……ねえ、一緒に入りましょう?」
 その濁った瞳に見つめられ、いぶきはとうとう背からの冷たい汗に耐え切れなくなった。
「あ、あの、私は他の方にも文をお渡ししなければいけないので……すみません!」
それでも律儀に文を一人一人に配ると、颯爽と駆け出す。
「ククク……フハハハ!」
 もはや誰のものかも分からない、不穏な笑い声。
 これほどまでに笑い声を怖いと思うときはなかったと、いぶきは後々にしても思うのだった。

 駆ける足がもつれる。転がり倒れそうになったいぶきを助け支えたのは、白い手袋に包まれた優しい手だった。
「大丈夫ですか、いぶき殿」
「ひ……秀長殿!」
「お怪我は……ええ、大丈夫そうですね。何があったかわかりませんが、もう安心して良いですよ」
「す、すみません、私としたことが、はしたない真似を! あれ、ここは……?」
「近々、兄上の号令で大茶会を催すのです。その用意でして……ああ、利休殿! こちらです!」
「おう、誰かと思えば嬢ちゃんか。……なんだ、浮かない顔だな。ほら、いつもの一杯だ。落ち着くぞ」
 出された茶をごくごくといぶきは飲み干した。いつぞやか座敷で興された格式張った濃茶ではなく、葉を蒸し淹れた湯に近い茶が喉の乾きを潤す。
「ああ、それでいいさ。ここでは安心して良い。……氏郷!」
「お呼びでしょうか、利休様!」
「嬢ちゃんがお疲れだ。もてなしてやりなさい」
「はっ! 仰せのままに! さあ、いぶき殿。こちらへ」
 そう促された場所では、そうそうたる顔ぶれが茶席の用意に勤めていた。
「はて、この茶釜は使えるものであったのか?」
「当然だ! 歴とした唐製の上物であるぞっ!」
「茶器に関してならば村重殿に間違いはないでしょうな」
「そうは言うても滝川殿、これは……」
「有楽斎殿、消毒ならいたしましたので大丈夫ですよ」
「ふうむ、それならば良いのだ。右近殿が言うのならそれは清いものであろうて」
「わ……私はどれだけ信用がないのだ…………」
 あちらで大釜の湯張りをしているかと思えば、
「団子にきゃんでー、ちよこれいと――完璧なのじゃ!」
「まいどおおきに! ええ目利きしてまっせ!」
「……この形はなんだ、ガラシャよ?」
「ほむ! はーとと聞いたぞ! らぶとかいう形じゃ!」
「えるおーぶいいーってやつやで、ダンナ」
「なんだかよくわからぬが、私の分もあるのであろうな?」
「ひい、ふう、み――ふむ、婿殿の分は……なしじゃ!」
「…………許さぬぞ許さぬぞ許さぬぞ許さぬぞ」
「なんでワイにあたんねん!?」
 わいわいと話しながら準備をする面々は個々の差こそあるが楽しそうに笑っている。まとまりのなさそうな顔ぶれをまとめる利休の腕に感心しつつ、いぶきは同じように笑む氏郷に相談を持ちかけた。
「皆さまは、秀吉殿からは何事かお聞きしておりますか?」
「ああ。秀吉殿は『何やら茶会ですんげえ贈り物があるらしい! 上も下も関係ねえ、皆ひろく集まってくれ!』――と」
「ひ、秀吉殿……」
 大言に目眩をおぼえながら、いぶきは先んじて氏郷へ文を渡す。中をあらためた氏郷は、にっこりと微笑み言った。
「なるほど。これは確かに『すんげえ贈り物』、だ」
 離れて準備をしていた面子もその場に揃う。いぶきと挨拶を交わしつつ文を開く面々は、茶会への期待に負けないほどの喜びを表した。
「また、お会いできるのですね」
「楽しみやんなぁ!」
「確かに、これなら祭りにもなろう」
「仏門の者等は大仏まで建立する勢いであるからの」
「ああ……連日運ばれている資材はそういうことだったか」
「皆が皆、一時に向け準備をする――懐かしいことですな」
「はい! 私も、本当に楽しみです!」
 談笑と休息をとり、意気揚々といぶきは次の地へ走る。

 槌の音が聞こえてきた。青と黒の帽子を被り、肩に外衣をかけた僧――安国寺恵瓊がいぶきを聡く見つけて狐のように笑う。
「近頃お忙しそうですねぇ、いぶき殿」
「恵瓊殿、この騒ぎは……」
いぶきが問いかけようとしたときだった。
「喝ッ! そのような仕事で許されると思っておるのか!」
 槌の音に怒号が混じる。いぶきは思わず震え上がった。恐怖というより、地響きが自分まで伝わってきたような感覚だ。
 顔を上げると、太原雪斎が大工に向かって喚いているのが目に入った。
「もう少しこちらへ頼む」
 その傍で下間頼廉が、こちらは静かに指令を出す。見物する女性の目が時折頼廉へ注いでいるようだが、本人は見てみぬ振りでいる。
 いぶきがまごついていると、気付いた島左近が笑いかけてきた。
「これはいぶきさん。ここじゃあ大仏殿建立の手伝いをしているところですよ」
 騒がしい場の中心にはすでに骨組みが完成し、形の見えてきたそれがあった。雑賀孫市などは女性の目線にも労働にも不服なようで、両手を頭の後ろで組んだまま様子を眺めている。
「たっく、俺らは関係ないだろ……」
「まあまあ、孫市さん。後でいい店、紹介しますよ」
 左近が言うと何処からか厳しい視線が飛んできたが、二人は決してその方向を見ようとはしない。強張る遊び人を余所に、笠を被った僧衣の男性がふわりと微笑む。
「この調子だと予定より早く終わりそうです」
 あまりにも目立たない装いだから、たくさんの野次馬もまさか彼が高名な大名の筒井順慶だとは思わないだろう。その正体をよく知っているいぶきは建築の好調を祝うと、抱えていた籠から文を取って順慶らに配った。
「実は、じきにこのような催しがあるんです」
 にこにこと頷く面々の中、作業に参加していた雑賀衆の一人、蛍が文面を見て目を輝かせる。
「なになに? お祭り? 頭領!」
 向いてきたその眩しさに思わず孫市は目を背けた。左近や順慶がくすくすと笑うなか、追い打ちをかけるように恵瓊が寄ってきて言う。
「さすが、孫市殿は懐も深いのですねぇ?」
 じゃらりと手首の数珠を奏で、笑顔か素顔か分からない目に見つめられて、孫市はぐうと唸った。そして。
「……わーったよ! 連れてけばいいんだろ!」
 とうとう、折れた。蛍が飛び上がる。
「やったあ! さっすが頭領!」
 カンカンと槌の音が響く。それは一足早い祝砲のようでもあった。

 ひゅぅ――勢いよく火薬が空に上がり、弾け飛ぶ。暗闇にぱっと咲く花を眺め、蛍はわぁ、と歓声を上げた。
「すごい! すごい!」
「ったく、ハシャぎ過ぎだぜ……いつも自分が撃ってる爆弾を空に撃ってるだけなのによ」
 大げさに跳ねる頭を上からおさえ、孫市はそれでも満足げに言った。
「娘! 余の爆弾に目を輝かせるとはなかなかであーる!」
「クク……九州全勢力をあげて打ち上げているのさ、感動しないはずがないだろう?」
「ほら家久、戻るだで。休んでる暇はねえよ」
「島津殿、鋭気を養うために家内が魚を焼きました。打ち上げ場に用意したので是非」
「これはこれは鍋島殿。気遣い、痛み入ります。さあ、歳久、家久――宗麟殿も。行くとしましょう」
「……義久殿、実を申せば立花殿や隆信様などはもうすっかりできあがってしまっておりまして…………」
 一瞬で去った嵐にきょとんとする蛍の前に、いぶきとさやがきらびやかな一団を連れて現れる。
「孫市殿、蛍殿、楽しんでおられますか?」
「孫! 奇遇なのじゃ!」
「連れてきてあげたのかい? えらいねぇ! いいこいいこしてあげる!」
「よ、よせよ、そういう歳じゃねえぜ。それに――さすがにダチの奥方に手を出すわけにはいかねえ」
「で……この手はなあに? おしおきだよ!」
「頭領、さいてー!」
「蛍様、でしたか。本日の催し物、ご存じですか?」
「私たち、それをたのしみにして来たんですよぉ」
「騒がしいことのわかっている集いなど、と拒否しました。……しかし、菜々様のせっかくの舞台というのですから、観てやらぬのも失礼と言われてしまっては、」
「素直じゃないですよね、愛さんって」
「春日ちゃんわかってないな〜。愛ちゃんは素直でかわいいよ〜」
「一緒にいる猫が言うならそうなンだろ! ま、人間素直が一番さね!」
「俺は楽しみにしてきたぜぇ! おめぇ様たちだってダンナと連れ立って来たんだろぉ!?」
「だ、だんな様だなんてそんな、私は、信忠様とは、そんな」
「松姫様、その様子では件の文は戦国の世に散ることなく愛する方のもとへ届いたようですね」
「ね、お姉ちゃん、アタシたちがんばったもんね!」
 わっと喋りだす女性陣に囲まれる蛍は少し頬を赤らめている。普段は女っ気のない女子達に囲まれているものだから、奥方衆の薫り立つような華やかさに気圧されているのだ。
「みなみなさま、もうすぐはじまりますえ?」
 散る花びらとともに現れた阿国が微笑むと、ぱっと音楽堂の灯が点る。
 わあ、と歓声が興った。
『これから待ち望んだ刻がやってきます……』
 べべん。弦の音に続き深い声が囁く。
『みんな、この刻を待ちわびていただろう?』
 しゃん。鳴る鈴の音にも似た華麗な声が響く。
『最高の友を迎えんがため、今この時代を、集まりし意思を、俺たちは奏でよう……凄絶にな!!』
 わああ! 歓声はより大きくなる。
 喧騒のなかで、いぶきははちまきを締め直していた。
「いよいよですね、いぶきさん」
「はい。……さや殿。私は、こうして……皆さまと時を同じくできて、とても幸せです」
 にっこりと笑うと、さやは今一度店構えを整えた。
「さあ――扉を、開きましょう」
 鍵のかかった錠前がかちりと外れる。開いた視界の先、光に包まれる身体に向かい、いぶきは大きく声をかけた。

「おかえりなさいませ、領主様!」




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