遠き白鷺


 足元には深い深い碧が広がっている。夜の潮風を浴びながら、ふっと笑った。
「参りましょう」
「……ああ」
 水に落ちる音だけが空夜に響く。
 その日、捕縛されていた陶晴賢と弘中隆包は船から姿を消した。

 船の武器庫に収容された二人は鎧を外され、腕を後ろ手に縛られたまま壁に凭れていた。外にいる兵の声も聞こえない。
「……私は……負けたのか」
 晴賢は力なく呟いた。俯く主の姿には戦前までの面影がない。傷と泥に塗れた顔を見るでもなく、隆包は簡潔に答える。
「ええ」
「何故、生きている」
「それを選ばれました故」
「お前は、受け入れているのか」
「それが友の願いであります故に」
 突如迸る鋭い眼光にも怯まず、隆包は淡々と告げて目を細めた。
「私が今日までお仕えしたのは忠義の他ありませぬ」
 船が揺れる。本土へ向けて島を離れたようだ。
「それももはや、形骸となってしまいましたが」
 不躾ともいえる隆包の言に、晴賢は何の反応も示さない。隆包の考えが正しいことを、今は身に沁みて分かっている。
「……この先は好きにしろ。お前が尽くす義もない」
「そうもいきませぬ」
 隆包は首を左右に振った。遠くで潮騒が聞こえる。耳を傾け、しかし目はしっかりと主を見据える。
「ここで主から離れてしまっては、何のための義でありましょう。これまでの生に何の意味があったのでしょう。私は生涯、晴賢様を裏切る真似は致しません」
「だが……」
「らしくありませんな」
 長い髪がさらりと流れる。暗がりの中で隆包は微笑む。だがそれもすぐに消えた。
「どうしても生に納得して下さらぬのなら、一つ、賭けてみませぬか」
 ぱさり。床に縄が落ちる。驚く晴賢の前で、隆包は小さな刀を見せた。
「自害しようと隠し持っていたものではありますが……」
 そのまま晴賢の縄も切る。自由になった腕にはしかし縄の痕が浮き出ていた。
「何に、賭ける」
「生きるべきか、死ぬべきか。この海原に問うとしましょう」
 隆包が武器庫の扉に手をあてる。それで晴賢も隆包の言うことを理解した。気力も自尊心も、敗北と同時に消え失せた。だが目の前にいる男には、ただ一人の家臣にはまだ光が宿っている。
「死ねば、本望。生き残れば……」
 鈍い音がして扉が開く。休んでいるのか兵士の姿はない。
「それもまた、一興でございましょう」
 潮騒の中へ、身を投じる。
 波の勢いにも負けぬよう、隆包は沈みながらも主の腕をぎゅっと握った。

 何も見えない。何も聞こえない。
 暫く沈んだ。泡だけが上へ昇っていく。波に揺られる間もどちらへ向かっているのかは分からない。沈んで、何処へ行くのだろうか。此岸か、彼岸か。息苦しさが隆包を苛む。ふっと身体が浮かんだ。隆包は反応のない晴賢の身体を掻き抱き、ゆっくり目を閉ざした。
 何かが見える。これは夢か、現か。白鷺がこちらを見ている。手を伸ばした。白鷺は翼を羽撃かせ、消えた。手には羽根だけが掴まれた。
 どれほどの時間が経ったものか。
 日差しが瞼を擽る。潮騒が足元から聞こえる。恐る恐る目を覚ました。無意識に手を伸ばした隆包が掴んだのは、湿った砂だった。
「ここ……は……」
 どうやら生きて辿り着いたらしい、ということに隆包が気付いたのは、よろけながらも立ち上がったときだった。髪や服が水を大量に吸って身体を引き摺る。懐を探ると、鞘のついた小刀が残っていた。
 後ろで何かが鳴いた。ガァ、と、鳥のものに聞こえた。振り向いたが目に入ったのは横たわる白い身体だけだった。
「晴賢様!」
 おぼつかない足取りで駆け寄る。意識こそないものの、呼吸は感じ取ることが出来る。だが、このままでは危険だ。隆包は晴賢を抱き上げ、海に背を向けた。ガァ。鳴き声が聞こえる。
「……鷺」
 林が広がっていた。鳥はその中から呼んでいる。隆包はふらふらと歩いた。自分自身にもあまり体力は残されていない。
 それでも、腕に残された温もりを失いたくはなかった。
「晴賢様……どうか……ご無事で……」
 呪言のように呟きながら歩く。潮騒が遠ざかっていく。目が霞んできた。戦が始まった頃から飲まず食わずでいる。隆包もまた、限界だった。
 ――誰でもいい、誰か主を救ってくれ。
 傍の木に寄りかかる。ガァ、と何処かで鷺が鳴く。鷺。白鷺。そういえば確か夢で。汗を肌に浮かべ、隆包はぼんやりと考える。白鷺といえば。ああ、何だったか。もう思い出せない。考える与力もない。
 晴賢の白い服が、視界の端では翼のように見えた。

 妙な暖かさを感じながら、隆包は起き上がった。薪が火の粉を散らしている。囲炉裏のようだった。串刺しの川魚が火を取り囲んでいる。腹が鳴った。隆包は思わず周囲を見渡した。部屋の隅で汚れた着物を纏った女が笑う。若い女だった。穏やかな笑顔をしている。
「……こ」
 見知った名前を口にしようとして、やめる。記憶の中で微笑む女性は故郷で自分を弔っているはずだ。妻は、こんなところにはいない。
 女性は戸惑いながらも、隆包に茶を差し出した。水が多く薄い茶だったが、それが寧ろ隆包には有り難い。
「大したものはお出しできませんが、どうぞ」
 先程目にした焼き魚を含め、若干の山菜と穀物を器に盛られる。遠慮しようと手を振りかけた隆包だが、それほどの余裕が今の自分に残されていないことは分かっている。挙げかけた手を合わせた。
「……忝ない」
 食べ物を口にするのはどのくらい振りだろうか。慌てて取り込まぬよう、ゆっくりと咀嚼する。戦で受けた傷が少し疼いた。随分な無理をしたものだ、と思う。だが生きている。自分は、生きている。
 隆包は箸を置いた。
「あのお方は……」
 待っていましたとばかりに女性が微笑む。
「先に目が覚めて食事をとり、村を見に出ましたよ」
「無事……なのか。そうか……」
 年齢よりも老けて見られる顔に涙が伝う。抑えることが出来ず、隆包は掌で顔を覆った。震える肩に白く細い手が乗せられる。涙を腕で拭い、隆包は女性を見上げた。
「助けて頂き、感謝する。だが、今の私には返せるものがない……」
「鷺が、いました」
「鷺?」
「真っ白な鷺が、鳴いていたんです。あっちの方向には水辺もないのに、そう思って何となく近付いたら、鷺の後ろに貴方たちが倒れていました」
「鷺……か。倒れる直前に、鷺の鳴き声を聴いた。あれは、白鷺だったのか」
 しらさぎ。隆包は口の中で反芻する。何処か遠くで馴染んだ言葉だ。
「起きていたか」
 また繰り返そうとした矢先、求めていた声が隆包の耳に届く。すぐさま振り返った。戸のあたりに白い人影がある。
「は――」
 隆包はやはり途中で口を噤んだ。名を呼んでいいものか、迷う。大敗の上、逃亡した大将だ。知らされていないとも限らない。だが、連れ出したのは自分だ。惑う隆包に晴賢は濁った瞳を向ける。
「賭けはお前が勝ったようだな」
 声に色がない。隆包は目を見開いて晴賢を見つめた。目にも、声にも。活気がない。眉間の皺は消えたが、表情すらもなくなってしまった。
「違う……」
 隆包は僅かに首を振った。違う。望んでいたものはこうじゃない。望んでいた主の姿は、もっと、光に満ちたものだった。
 閉ざしたのは自分だった。
「私は……負けたのです」
 生きていて欲しい、その願いがどれほど残酷なのか、隆包は身を持って知った。いっそ死なせてやれば、でなければあのまま毛利に委ねていれば、救いが見えたのかもしれない。戻ることはもう出来ない。
 黙りこんでしまった二人に困惑しながら、女性は暫くここで寝ていいと言って外へ出てしまった。女性はあおいと名乗っていた。
「……生きて、ください」
 膝の上で拳を握り、隆包は捻り出す。
「どのような恥辱に塗れようとも、生きてください」
「おかしなことを言う。我らは死ねなかったのだ。生きるしかあるまい」
 淡々とした晴賢の言葉を、隆包は受け入れられない。
 殆ど会話を交わさないまま休んだ。活動できる程度まではまだ回復していない。そういう日が数日続いた。情けないと思う隆包だったが、あおいはいつも笑顔だった。家族の居る節はないが、時折別の村民がやってくることはあった。村の中では誰の家という分け目もなく、自由に出入りしているようだった。
 晴賢は村の端でぼんやりとどこかを見ていることが多かった。それが隆包の胸をさらに痛ませる。
 あおいが山菜を取りに出るというので、二人も付き添うことになった。鉈と竹槍を持たされたが、獣でも狩れというのだろうか。首を捻る隆包だが、隣の晴賢はやはり無感動にただ歩いている。
 殆ど人の入った形跡のない獣道へあおいは迷いなく突き進んでいく。手慣れた様子だ。逞しいな、と隆包は素直に感心する。
 何かを見つけて屈んだあおいを見つめていた二人だが、不意に同じ方向を見た。かさり、葉の擦れる音が聞こえた。あおいはそれに気付いていない。木陰に隠れ、音が近付くのを待った。草叢が揺れる。
「えっ?」
 あおいも漸く振り返った。その瞬間、武装した男が数人、草叢から姿を現した。きゃあ、と悲鳴を上げてあおいが尻餅をつく。晴賢と隆包が木陰から飛び出した。隆包は竹槍を突き出し、晴賢は鉈を振り翳した。血が滾る。どうしようもない沸流を腕に込めた。
 鉄の臭いが鼻孔を擽る。晴賢は冷たい瞳で足元の屍を見下した。隆包もまた男の腹に突き刺さった竹槍を抜く。
「……粛清」
 ぽつりと、晴賢が呟く。
 あおいはぺたんと座り込んだまま二人を見上げた。一瞬の出来事だったので、何が何だか分からない。四体ほどの屍が林の中に転がっている。
「つ……よいん、ですね……」
 それには答えず、隆包は黙って手を合わせた。
 一度村に戻ってから、屍を埋めた。手頃な石を乗せ、墓標とする。
 家に戻ると、夜になっていた。
「このあたりには昔から賊党が住んでいるのです」
 採ったばかりの山菜は既に腹へ収まっている。器を片付けたところで、あおいが滔々と語りを始める。
「今日襲ってきたのも、その一味でしょう。昔にはこの村も襲い、私の両親が殺されました」
「……それで、この家には誰も居ないのか」
 珍しい話ではない。自分たちもそういった孤児を生んでいると自覚している。だからこそ隆包は悲痛な表情を浮かべた。晴賢は、やはり何の表情も浮かべていない。
 暫く俯いて腕を組んでいた隆包だったが、すっと顔を上げた。
「村を鍛えよう」
 聞いた晴賢が僅かに片眉を上げる。隆包はそれを見逃さない。
「賊に襲われても屈しない村を作る。それが、私たちの出来る恩返しだ」
「おい、何を勝手に……」
「この先は好きにしろと仰られたはずです」
 隆包は戦後で一番の笑顔を見せた。
 翌日からその計画は始まる。二人は――晴賢は不本意ながら、村の男に武器の扱い方を教えた。また、農具ですら戦えることも教えた。同時に簡素な櫓も作らせ、空いた時間には文字の読み書きを求められた。
「勤勉だな、あおい殿は」
 地面にひらがなで名を書きながら、隆包は微笑む。最も話をよく聞いているのは、このあおいだった。遠くでは晴賢が逆に畑の耕し方を教えられている。
「私には妻がいる。こんと言うのだが、紺とも書ける。紺と青は、よく似ている」
「奥方様のところへは……」
「戻れないだろうな」
 隆包は自嘲ともとれる笑みを浮かべた。一度逃げた以上、戻れば次こそ首を刎ねられるだろう。分かっている。分かっているからこそ。
「それでも向き合わなければいけないこともある」
 空を見上げた。雲が早く流れていく。風に乗って怒号が聞こえてくる。
「私はこのようなものを握るのも初めてなのだ! そう簡単に出来るはずがない!」
 遠目に見えた晴賢の、眉間に寄る皺を見て、隆包は静かに笑った。
 出来ることならばここで暮らしたい。そう思い始めていた。
「それでも……」
 流れていく雲に隆包が呟く。
 ある、天気のいい日だった。櫓に登ると、何処からか煙が上がっているのを見つけた。
「殿」
 二人以外には誰も近くにいない。確認した上で、隆包は声を潜めて呼んだ。晴賢が頷く。
「戦か」
 狼煙のようだった。北の山あたりに狼煙が上がり、ちらほらと旗も確認出来る。
「……殿、私は」
「言うな、隆包。やはり、生きていく場所が違うのだ」
 櫓を降り、あおいの家へ戻った。
「私たちは、この村を出る」
 すぐに伝えた。あおいは目を丸くしたが、すぐにふっと微笑んだ。
「いつか、そうなるだろうと思っていました」
「すまない。今まで世話になった」
 頭を下げる隆包に、あおいは首を振る。
「最後に、名前をお尋ねしてもいいでしょうか」
「……弘中隆包」
「陶晴賢。……私たちのことは、すぐに忘れろ。良いな」
 村民への挨拶もそこそこに済ませ、出立する。引き止める声もあったが、強引に抜け出した。途中、振り返った隆包は、あおいの傍で慰めようとする若者を認め、口元を緩めた。
「どうか、彼らに幸があらんことを」
 山を駆ける。戦の臭いが近付いてくる。崖の上に旗が見えた。抜かれていた家紋は、一文字三ツ星。
「毛利……」
 晴賢が溜息とともに溢した。脳裏には厳島での光景が蘇る。それでも進んだ。
 ガァ。
 隆包は俄に立ち止まり、崖の下に視線を落とした。白鷺が羽撃いている。その、下に。陣があった。旗は毛利だ。目を凝らすと、見覚えのある姿さえあった。
「……元就」
 隆包の声には懐かしさと安堵も含まれている。出逢ってはいけないのだ。自分たちは逃亡犯なのだ。その理性も覚悟の前には崩れ去ってしまう。
 山を降りた。
 見廻りの兵に顔を見られたが、二人の予想とは違って何も言わずに陣中へ通された。驚いた顔の元就に隆包が笑いかける。
「久しぶりだな、元就」
「隆包……」
「何だ、亡霊でも見るような顔をして」
 困ったように笑う隆包の傍で、晴賢が膝を折る。それを見た隆包もふっと笑顔を消し、すぐに従った。
「晴賢、隆包両名、生き延びて参った。覚悟も出来ている。処遇は好きになされよ」
 傅くかつての盟友を見て元就が何を思ったか、隆包に知るすべはない。主の言葉を耳に残し、地面を見つめたまま元就の返答を待った。
「処分は、戦の後だ……」
 ガァ、ガァ。元就が見上げた先に白鷺が飛んでいく。
「戦が終われば、二人には家に戻ってもらう。許可無く出ることは許さない」
「元就……」
「……君たちを、生かすと決めたんだ」
 隆包は顔を上げた。元就の視線とは交わらなかった。晴賢はまだ頭を下げている。
「この戦には、参加して貰うよ」
 元就は二人を見て笑った。白鷺はもう遠くへ飛び立ってしまって、隆包には見えなかった。
 あの鳥のように白く澄んでいた主の服も今も汚れ、しかし、生きている。
 尼子との戦は程よいところで手を引き、元就の命令通り二人は自宅での軟禁が決まった。久方ぶりに岩国の土を踏んだ隆包は、帰る前に大きく息を吸った。
「ああ……」
 やっと思い出したのは白崎の語源だった。
 同じ頃、海岸より少し内陸に入った小さな村で、祝杯が掲げられていた。
 名目は二つ。一つは辺りを根城にしていた賊の討伐、そしてもう一つは、薄い青の着物を纏った女性と、村の若者との結婚祝いだった。




▲ページトップへ
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -