∴ Little Little Princess5
「…最悪だ」

最悪にもほどがある。
散々わがままに振り回されて流された挙句に好きになるなんて、本当に最悪だ。
しかも先生は全くそのことを覚えていないのに。
今更好きになっても意味がない。

それとも先生は今でもおれのことが好きなのだろうか?
…やっぱり夢の中だけだったのだろうか。
わからない。
あの時―――好きだと告白をされた時にきちんと聞けばよかったと少し後悔した。

(聞いていたらなんだというのだろう。実はおれと先生は夢の中で結ばれたんだ、とでも何も覚えていない先生に言うつもりだったのだろうか)

それこそ迷惑じゃないか。
状況からいって夢の中だから先生も口に出して言えたということも考えられる。

(そうだ普通に考えて、現実世界でどうこうしようなんて思うはずがない。人と妖という異端な関係なんだから…)

自分の置かれた状況を冷静に考えて、気分が沈んでしまった。

「…先生はあんなに気持ちよさそうに寝てるのに」

気持ち良さそうにニヤついた顔で眠る先生を見ていると、なんだか一人で悩んで苦しんでいるのがばかばかしく思えてきた。
勝手に変な呪いを受けて助けに行かされて、強引に変なことをされて…普通の頭で考えるとここは怒るところだ。

「まぁいいけど」

腹立たしい気持ちもあるけれど、少なからず感謝もしていたから怒るに怒れなかった。
誰かに愛される喜びを知れたのも、誰かを愛する喜びを知れたのも先生のおかげだから。
好きになれてよかった。

「うーんでもさすがに今先生に会うのは嫌だなぁ…」

まだ完全に気持ちの整理がついていない時点で顔を合わせるのはどうかと思った。
このまま先生を放っておいても暫くしたら起きるだろうし、とりあえずヒノエにお礼を言いにいくという口実で逃げる事にした。
いつまでも逃げられわけではないけれど、今だけは。



音を立てないように身支度を済ませてそっと部屋から出て、一言塔子さん出掛けてくるのを伝えてからヒノエの元に向かった。

「なんだい!わざわざ夏目の方からお礼を言いに来るなんて、嬉しいねぇ〜!!」
「あぁ…まぁいろいろ相談に乗ってもらったし」

今にもおれの体にに抱きついてきそうになっているヒノエを必死に両手で遮りながら、とりあえず礼だけは言った。

「何があったかなんて野暮なことは聞かないが…フフフ、夏目随分と嬉しそうな顔をしてるね」
「え!?うわああぁ…ッ!」

突然言われた言葉に動揺して思わず遮っていた手を引っ込めてしまい、反動でそのまま後ろに倒れこんでしまった。
強引におれの体の上に乗っかろうとしているヒノエをなんとか押し留め、なんでかと問い返した。

「嬉しそうな顔って…厄介なことがあったのにそんなはずないだろ」
「いや、ずっと夏目を見ている私ならこれぐらいの変化はすぐわかるさ。夢の中で斑といい事でもあったんだろ」
「う…いや、それは勘違いだって…」

口では否定しながらも、内心は焦っていた。ヒノエに気づかれるほどの顔をしているのなら、明らかにマズイ。
先生にバレるのはきっと時間の問題だ。

「あぁでも斑の奴は夢の中のことを忘れているから、それで悩んでいるってところかい?」
「…ち、違うって…」

どこまで勘がいいのか、なにも話してはいないのにあっさりと図星を突かれてしまってドキドキした。
これだと夢の中で起こった事でさえも当ててしまいかねない。

「ふーん…全部言っちまえば簡単なんだけど、お前はそうしないだろうねぇ。人間ってのは悩むのが仕事なのかい?」
「妖があまり悩まないってだけじゃないのか…」
「まぁ好きなだけ考えるのもいいんじゃないか。あぁでも斑との仲を取り持って欲しかったら言いな、すぐに飛んで行ってやるよ」
「いや、それは見返りが恐そうだからやめておくよ…」

丁重にお断りつつ、体を起き上がらせて軽くズボンを叩いて草をはらってから立ち上がった。
強引に先生に話すという選択肢を取らなかったヒノエの心遣いを感じた。
きっと口止めしなくても今回の呪いの件をヒノエの口から先生に告げることはないだろうと確信した。

「斑も斑なんだけどさ…こんなに可愛い子を放っておくなんて馬鹿なんだよ」

そこで急に真剣な顔になって呟いたので少し怪訝な顔をしてしまった。

「ヒノエ…?」
「私だったらすぐに食っちまうのにね」
「それはやめてくれ…」

すぐにいつもの笑顔に戻ってニッコリと笑いかけてきた。瞳がやけに鋭くて、一瞬身の危険を感じて青ざめてしまった。
やっぱり油断ならない相手だ。



ひとまず礼を言ってヒノエと別れてから、家路に着いた。もう空はすっかり真っ黒になっていて星が輝いている。
帰った事を伝えにリビングに行くと、滋さんも会社から帰宅していてテーブルの上には夕ご飯が並び始めていた。
先生を呼んでくるように言われたので、一瞬ビクッと驚いたが自分の部屋に向かった。

「先生ご飯だぞー」

なるべく普段の調子で言うように心がけながら襖を開けた。

「なんだまだ寝てるのか…おい…」

起きているだろうと思っていた先生は、家を出る前に乗せていた座布団から位置を変えて畳の上に転がって寝息を立てていた。
仕方がないとため息をつくと、少し強い調子で体を揺らした。

(あぁそういえばここ3日間何度かこうやって起こそうとしたけど、一度も反応が無かったんだよな…)

あまり深くは考えていなかったけれど急に不安になってきた。

「おいっ!先生!!」

実はおれだけ夢の中から戻ってきたけれど、先生だけまだ取り残されているという状況も捨てきれない。
すぐに確認しなかったのは失敗だったのだろうかと暗い気持ちになっていた。

「う…うぅ…っ…なんだ!うるさいぞ私の眠りを邪魔するなああぁッ!!」
「うわっ!」

急に先生ががばっと起き上がりおれの顔に向かってきたので、いつもの条件反射で避けた。
綺麗に着地した音が部屋に響き渡ったがすぐに声が出せずにいた。

「なんだ夏目」
「いや…ご飯だってさ」

それだけ言うと先生に背を向けて少し小走りに下の階に降りて行った。

(おれ…今どんな顔をしてたんだろう)

ちゃんと普段どおりの反応が出来ていたかどうか、全く自信が無い。
気を張っていないと嬉しさのあまりに泣いてしまいそうだった。
感情のコントロールが自分で上手くできない。きっと今先生がおれのせいで怪我でもすれば泣きじゃくりそうな勢いだった。

(重症すぎる…人って恋をするとこんなに弱くなるものなのか?)

やっぱり数日はなるべく二人きりでいないようにしようと密かに決意した。



「そうはいってもあからさまに避けすぎだよな…」

「おはよう、夏目」
「え…あ、田沼…?お、はよう」

あまりにも考え込みすぎていて、隣に人が近づく気配すら気がつかなかったことに心底驚いた。

「今日は随分と早いな。それにポン…じゃなくてニャンニャン先生は一緒じゃないのか?」
「なんか朝から目が覚めたからたまにはいいかなって。多分先生はまだ寝てるんじゃないかな」

本当は嘘だった。目が覚めたというよりは夜あまり寝付けなかったというのが正しい。
それに普段よりかなり前の時間に目覚ましの時刻をセットして一人で起きた。
わざと先生を起こさなかったし、まだ塔子さんも起きたばかりで朝ごはんが出来ていなかったので皿を並べたりと手伝ったくらいだ。
昨日もあれからすぐに少し長めにお風呂に入ったり、勉強があるからと言ってなるべく話さないようにしたら先生はつまらなそうにすぐに飲みに出て行ってそれっきりだった。
まともな会話はできないでいた。
口喧嘩などは日常茶飯事だったけれど、それさえも言い返せるか微妙なぐらいに先生の一挙一動に動揺してしまいそうだった。
何も考えたくてさっさと布団に入って寝ようとしたのだけれど、結局あれこれ考えてほとんど寝た覚えが無い。
先生を起こさずに学校に来たのもはじめてだった。たまに二日酔いで起きれないことはあったけれど、声だけは必ず掛けていた。
一応あんな猫でも用心棒だから朝から妖にからまれて学校に遅れることがないように、と思っていたのだけど幸いなことに今日は妖に会っていない。
きっと帰ったら怒られるのはわかっていた。

「はぁ…」
「やけに悩んでるけど、なにかあったのか?喧嘩でもしたとか」
「えっ、誰と?」
「ニャンニャン先生とだろ?」

当然のように田沼が言ったので目を丸くした。

「な…なんでわかったんだ?」

喧嘩ではなかったけれど、ため息の理由が先生だというのは当たっていたので問いただした。

「なんでって…いつも二人で一緒に居るし、おれの前でもよくどうでもいいことで喧嘩してるじゃないか」
「そうだったかな…?」

あまり見に覚えが無いのだけれど、田沼が言うのなら間違いはないんだと思う。

「すごく仲がよくて羨ましいなっていつも思ってたんだ」
「へぇ…」

しみじみと語られるとなんだか少し恥ずかしくなってきた。
先生とは友人達とは違う関係で、お互いに隠し事が全く無いから遠慮も無いのはしょうがないと思っていたけれど、田沼から見たらそれが仲がいいと取られるとは思わなかった。

「夏目なんか嬉しそうだな。そんなに好きなんだ」
「あぁ…って田沼!?な、なな何を言ってるんだ!?」

あんまりにも自然に言ったから頷きかけて慌ててはっとした。

(まさか田沼にもおれが先生が好きなのがバレてしまっているのか!?)

「え?おれなんか変なこと言ったか…?」
「えっ!?あ、いや…」

頭の中がパニックになりかけていて聞いてしまったけれど、すぐに間違いだと気がついた。

(きっと田沼は深い意味で言ったんじゃないんだ)

”好き”という言葉に勝手におれが過剰反応してるだけなんて滑稽だった。

「まだ朝も早いしちょっと寝ぼけてたのかな…はは…」

かなり苦しいいいわけをしながら、もっと気を引き締めなければいけないなと覚悟した。



「よかった…居ないようだな」

足を止めてきょろきょろと周りと見回して誰も居ないのを確認した。
放課後になり一目散に教室を出たので、たまに学校に迎えに来るニャンコ先生とどうやら鉢合わせせずに済んだようでほっと息をついた。

「なんだ夏目また妖にでも追いかけられていたのか?」
「え、うわああぁぁッ!!せ、先生!?」

突然肩に重いものが乗っかってきて驚きに悲鳴をあげてしまったけど、よく確認するとまさに今一番会いたくない人物で余計に焦ってしまった。

「相変わらず失礼な奴だなお前は…」
「あ、いや…ごめん…」

いつも通りに返答したけれど、内心はどうしようとパニックになっていた。
焦れば焦るほどになぜか夢の中の先生との出来事がふっと浮かんできて、恥ずかしさや照れで顔がだんだんと赤くなっていくのが自分でもわかる。

「どうした?なんか昨日から変だぞ」
「な…んでもないから放っておいてくれないか」

もうまともに顔が見れなくてつい背けてしまう。
先生に乗っかられている肩がやけに重いし、あまりにも近すぎてさっきから鳴り続けているおれの胸の鼓動が伝わってしまいそうだと思った。

「変といえば…今朝起きて新聞を読んでみたら日付が3日以上進んでいるんだがなにかあったのか?」
「そ…れは…」

疑問に思うのも当然だと思ったので理由もきちんと用意していた。
『急に風邪をひいて高熱で寝込んでいたから覚えていないんだ』と言うつもりだった。
なのに、言葉が口から上手く出てこない。
このままだと完全に疑われてしまうのに。
夢の中の出来事なんておれとあの先生に呪いをかけた元凶の妖ぐらいしか知らないのに、バレてしまうのが恐かった。

おれが先生を好きになってしまったという事実がバレてしまうのが恐かった。

「この私に言えないことがあるのか!」

暫く黙っていたら急に先生が痺れを切らして大声で叫んだ。

「うわっ………ッ!」

肩から先生が勢いをつけて飛び上がったかと思うと、目の前で白い煙と生暖かい風が吹き荒れて次の瞬間には強い力で両肩を地面に押さえつけられていた。

「なにがあったのかは知らんがはっきり言わないと食ってやるぞ!」

白い獣の姿に変身した先生がおれの体を押す倒し顔ぎりぎりの位置まで口を近づけてきて、今にも食べられそうな体勢だった。

「食べてもいいよ」
「そうか…ってなにっ!?」

おれの突拍子の無い言葉に驚き、先生の手の力が抜けたのを見計らって体を動かしてあっさりと先生から逃れた。

「…ッ」

そのまま素早く起き上がると振り返らずに走り出した。後ろから先生の怒り狂った怒鳴り声がしたが気にしなかった。
幸いにも周りは木や草が覆い茂った森で、入り組んだ道ばかりを選んで発しているとすぐに追いかけてくるような様子は感じられなかった。

「はぁ…はぁ…」

とにかくできるだけ遠くに逃げなければいけなかった。
頭を冷やさないと今の調子だと先生に呪いの件もなにもかもしゃべって、自分の気持ちまで告白してしまいそうだったから。
さっきの一言だって決して先生の気を引く為に言ったのではなく、本気だったのだ。
本気で食べられてもいいと思った。
決して言うべきではなかったのに、抑えられなかった。

だから、逃げないと。


『逃げるならいい逃げ場所があるよ』


「!?」

聞き覚えのある声が耳元で囁かれたのに背筋をぞくりと奮わせた瞬間、視界が暗闇に包まれた。

「せ…んせぃ…」

薄れゆく意識の中かろうじて搾り出した言葉はあまりにも弱々しくて、すぐに風の音にかき消されていった。

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