鵺式。
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※雨嫌いな仙蔵




明け方の小雨はいつの間にやら、桶の水をひっくり返したように喧しくなっていた。
風がもう少しでもあれば音も紛れるだろうに、雨水は攫われることなく地面に叩きつけられ泥を散らす。あの中に立てば一瞬のうちに頭から足の爪先までずぶ濡れになって、足元は泥まみれになるだろう。
こんな天気に外に出る奴の気が知れない。いや、気が触れているとしか思えない。
仙蔵はほんの少し隙間の空いていた戸をきっちりと閉め、自身に宛がわれた机の前にどかりと座り込んで頬杖をついた。せっかくの休日だというのにこんな空模様では出かける気分も失せる。部屋の中で出来る暇つぶしといえばまず火薬の調合だが、この雨では肝心の火薬も湿気る。長次に借りていた本も間の悪いことに昨夜読み終えた。要するに、仙蔵は暇を持て余していた。行き場のない鬱憤がもやもやと腹の中を漂い淀んでいる。
苛立ちを吐き捨てるように溜息をついたとき、ふと、雨の中を誰かが駆けてくる音を聴いた。
耳を澄ませば、長屋に向かって駆けてきて、随分走ってきたのか荒い息遣いを一つ、吐き出す。足音はそのまま縁側に上って、きしきし、と床を軋ませた。時折ぽた、と音が混じるのは気のせいではないだろう。気の触れた男がお帰りだ、と思うのが後か先か、長屋の戸ががらり、と開いた。

「、居たのか」

居ては悪いかと内心舌打ち、仙蔵は振り返りもせず視線だけでじろり、と一瞥する。想像していた通り、文次郎は全身ずぶ濡れで足元は泥まみれだ。髪の先、着物の裾からはぼたぼたと雫が落ち、後ろを見やれば小さな水溜りが点々と続いていた。
文次郎は気まずいのか、仙蔵と視線を合わせようとはせず目を泳がせている。文次郎の上から下まで眺めて次第に眉間に皺を寄せていた仙蔵だが、不意に興味を失ったように視線を逸らした。

「後で拭いておけよ」
「…おう」

何かしら恨み言でも言われると思っていたのだろう、一瞬拍子抜けしたように目を剥いた文次郎は、しおらしく部屋へ入り柄にもなく静かに戸を閉めた。何におどおどしているのか、まるで腫れ物に触れるような文次郎の態度にささくれ立っていた神経が余計に逆撫でされる。だからと言って普段のような無神経な態度を取られるのもそれはそれで腹が立つ。特にこんな、雨の日には。
文次郎は何を言うでもなく手ぬぐいで身体を拭う。そんな薄っぺらな手ぬぐい一枚で何がどうなるというのか、思いはしても仙蔵は何も言わなかった。
普段気にもしないはずの沈黙が息苦しいのは、染み入るように降る雨が騒がしいせいか、文次郎の髪から落ちる雫の水音が大きく聴こえるせいか。行き場のない苛立ちを押し込めるように、仙蔵はぐ、と瞼を閉じる。濡れた衣擦れ、落ちる水滴、静かな息遣い。薄く溶いた墨のような闇に視界を遮られて、耳障りな音ばかり鮮明だった。
もはやそれに苛立つことにも疲れ果て、何処に行っても追い詰められるような、と思ってその思考に辟易とした。
雨雲の流れてきた方へ走れば雨のない場所にも辿り着くだろう。しかしそれにはどこぞの馬鹿のように雨の中を飛び出していかねばならず、何よりも逃げ出すようで気に食わない。それに何処に行ったところでいずれその場所にも雨は降るし、このままこうして不貞腐れていても雲は他所へ流れていく。
馬鹿らしくなって、仙蔵は考えるのを止めた。手持ち無沙汰にしているから物思いに耽ってしまうのだと思って顔をあげると、部屋をこれ以上濡らすまいとしているのか、文次郎は未だ戸の前から動かずいつまでも身体を拭っている。ふと芽生えた悪戯心に誘われるようにして仙蔵は立ち上がった。
何も言わず静かに傍に寄ると、文次郎は手を止め何事かと仙蔵の顔を覗き込む。その視線を黙って受け流し、仙蔵は未だ水の滴る文次郎の前髪に手を伸ばした。咄嗟に身を固くした文次郎に内心ほくそ笑んで、触れていた髪をそのまま後ろに撫で付ける。あんまり間の抜けた顔をしているのがおかしくて剥き出しになった額をぱしり、と叩いてやると、文次郎は一瞬呆けたように目を瞬かせて、胡乱な目で仙蔵を睨んだ。それに懲りもせずまた伸びてきた仙蔵の手を取って、何か問い詰めるように目を眇める。
それに堪えきれずふ、と笑みが零れた。仙蔵は捕まれた腕をそのままに、また一歩文次郎に歩み寄りその胸にとん、と自身の額を押し付けた。雨水を吸って湿った着物がひやりと張り付いて、血の上がった頭を冷やすようだった。

「おい、濡れるぞ」
「うるさい」

一言に切って捨てると、文次郎はそれ以上何も言わなかった。
濡れそぼった髪、一瞬触れた額、捕まえられた腕を掴む掌。どこもかしこもが心地いいくらい涼やかで、もっと触れていたくなる。首筋に顔を埋めれば、汗のすんとした臭いの中に、雨の匂いがした。

「雨は嫌いだ」

静かに呟く。答えはない。求めたわけでもなかった。
ただその肩に頭を預けたまま、汗とも雨ともわからない雫の伝う首、頚動脈に沿うようにして耳裏、手の平で包むように顎、沿うように頬を撫で、親指の腹で唇に触れ、爪先で目尻を掠める。一つ一つ確かめるように指を這わせた。

「どうした」
「別に、」

文次郎はされるがまま、じっと動かない。
何を言うでもなく、するでもない。何か思慮があってのことなのか、それとも単にどうしたらいいかわからないのか。文次郎はほんの少し眉を寄せ、どこでもなく遠くを眺めている。
何を考えているのか聞こうとも知りたいとも思わないが、しかし文次郎がこういう風に目を細めているのを見ると、仙蔵の胸はじんわり熱くなった。そんな時、ほとんどは半ば照れ隠しにからかって、たまに八つ当たって、時々、縋って泣きたくなる。
雨は質素な長屋の屋根に打ち付けられ、ぼたぼたと軒から滑り落ちて、地で跳ね飛び散る。冷えて澄んだ空気に、甘く腐ったような臭いが茫洋と漂っていた。
こういう日は、まるで世界に取り残されたようだとか、このまま時間が止まればいいのにとか、そんな貧弱で饐えた思考に沈んでしまう。いくら耳を塞いでもその指の隙間から滲みるように鼓膜を犯す。
雨は、大嫌いだった。

「災難だな」
「…あ?」
「雨に降られて、私の癇癪につき合わされて」

あろうことか、文次郎は喉を震わせて笑った。
普段触れ合わせる肌は焼けるように熱いのに、今ばかりはひやりと冷たい。暑苦しくない文次郎というのは、案外小気味のいいものだった。





雨の匂いを連れ帰る






10.06.29
梅雨なので。実は続く

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