平滝夜叉丸

Hypnos




この世のものとも思えない、美しい場所だった。
その美しさはとても言葉で形容できるものでなく、色彩、造形、ありとあらゆるものがこれまで生きてきた中で見たことのないものばかりで。狂気的なまでに美しい有様は逆におぞましく、知らず背筋に怖気が走る。
恐る恐る見渡すが周囲に人影は無い。まるで己だけポツンと異世界に取り残されてしまったようで、心細さに眉尻が下がった。

異世界、そう、それは異世界に違いない。
平滝夜叉丸は、夢を見ていた。
元来「美しさ」というものに執着する質の彼なので、見る夢までも美しいのは是非もない。ただ、これほど異世界じみた美しさが彼の中にあるとすれば、確かに、それは紛れも無く「孤独」なのだろう。
己を奮い立てるように、滝夜叉丸は未知の世界で一歩を踏み出す。足取りは重く、何かが脚に纏わり付いているかのようだった。それでも、彼は当ても無いまま歩き続けた。

同じような違うような、そんな蒙昧とした景色の中を過ぎ、気が付くと鬱蒼と茂る森が目の前に広がっていた。森は滝夜叉丸にも森と認識できる造形であったがやはり色彩は奇抜で、目にチカチカと痛いほどだ。
木々の合間に何か動くものを見て、滝夜叉丸はびくと肩を怒らせた。目を凝らすと、人影のようなものがひょこひょこと頭を揺らしながらこちらに近づいてくる。
近づいてきた影の正体に気が付いて、滝夜叉丸は思わず悲鳴を上げた。

きのこだ。

巨大な、人間ほどもあるきのこが、笠をばさばさと揺らし菌糸を振り撒きながらこちらへ寄ってくるのである。目などあろうはずもないのに、真っ直ぐに、こちらへ。
反射的に後退り、滝夜叉丸は踵を返し駆け出した。夢の中と言うのは、なんと脚の重いことか。実際に野山を駆けるときはまるで舞うように颯爽と風を切るのに、まるで泥沼に脚を取られているようだ。それほど走ってもいないのに息が切れる。もう走れない、酸欠に喘ぎながら後ろを振り返ると、すでにそこに巨大きのこの姿はなかった。立ち止まり、その場にごろんと仰向けに倒れ込む。ぜえぜえと肩で息をして、空を仰ぐ。空は、夜よりも深い漆黒だった。



暗い空の下の、鮮やかな世界。あたかも世界自体が輝いているかのような美しい世界。
ここは一体どこなのだろうか。それは己の夢の中に違いなく、夢から醒める鍵も間違いなく彼自身が握っているはずなのに、世界の情景は焦燥を煽り泥のような疲労ばかりが積もっていく。
いつしか意識が朦朧とし、夢の中で夢を見ているようなそんな覚束ない足取りで、それでも滝夜叉丸は歩いていた。

ふと、情景の合間に人影が見えた。
遠目からで顔はよくわからないが、輪郭は間違いなく人間だ。人影は上背が高く、タカ丸さんのような色素の薄い髪、その上に植物で作られた冠を載せている。
己とあの巨大なきのこ以外に初めて生きているらしき者、しかも人間を見つけて、安堵で視界が滲んだ。

とにかく話し掛けようと駆け出す。すると突如視界の端から何者かの手が伸び、彼の肩を痛いほどの力で掴んだ。抵抗する間もなく滝夜叉丸は引き倒され、蒙昧な景色の繁みへあっという間に引っ張り込まれる。
悲鳴を上げようとした口をごつごつと堅い手のひらに押えつけられ、後ろからがっちりと羽交い絞めにされた。くぐもった声で喚いてもろくに身動きの取れない体勢で暴れても、何者かは怯むどころかびくともしない。あまりの恐怖に、目から涙がぼろぼろ零れる。

なんていう悪夢だ、もういい、醒めてくれ、もう嫌だ!



「滝ちゃん」

頭の上から聞こえたのは、聞き慣れた声だった。
恐る恐る仰ぐと、くりくりとした大きな目がこちらを覗きこみ、こてり、と玩具のように首を傾げる。

「びっくりしたあ?」
「…むぐぅ」

がっしりと羽交い絞めにされたまま、文句を言うことも一発ぶん殴ってやることもできなかった。



「ふーん、滝ちゃんも寝ちゃったの。夕飯までに誰か起こしてくれるかなー?」

隣で頭のたんこぶを撫でながら、喜八郎は間延びした声で呟いた。
と言うより、互いの言い分によればここが互いの夢の中で、お互いが夢を共有しているらしいという点に疑問はないのだろうか。とはいえ、彼の夢の中に登場した喜八郎がそういうトんだことを言うのもらしいと言えばらしい。
まあ、夢だし。滝夜叉丸はそれ以上考えるのをやめた。



鮮やかな世界に二人っきり。独りよりは、よっぽどいい。




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『ヒプノス』

眠りの神、または現実世界と眠りの世界である「ドリームランド」の境界地帯を治める神。
現世とドリームランドの間に縛り付けられている。
若く引き締まった、ギリシア彫刻の様な卵形の顔をした男性の姿で、ふさふさとした波打つ巻き毛にヒナゲシの冠を載せている美青年。しかし美しい姿は仮の姿で、本当の姿は最悪の悪夢の様に歪んでおり、その性格もまた貪欲で悪意に満ちている。
夜、夢を見る者の中には「ドリームランド」に紛れ込んでしまう者がいる。
彼等がもし半覚醒状態でヒプノスのすぐ側を通り過ぎてしまったり、ヒプノスの注意を引いてしまう様な事をすると、ヒプノスは彼等をそれぞれに相応しい姿に変えてしまう。
これは夢の中だけでなく、現実世界で目覚めた時にも、その姿は変わり果てたまま。
どんな姿に変えられるかはヒプノスにまかされてしまい、その後は永久的にヒプノスと共にそこに住み続ける事になる。

【 t 】

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