潮江文次郎

Atlach-Nacha




先に帰ったはずの仙蔵が、まだ帰っていない。

そう聞いて、文次郎は荷物を放り出し再び仙蔵を探しに飛び出した。
文次郎は盛大にやり過ぎた実習の後片付けを命じられ、ぶすくれていた。その顔を笑った仙蔵は、「飯ぐらいはとっておいてやるさ」と言い残し一人先に帰っていったのだ。
あの仙蔵が寄り道なんぞ食うわけがないし、それに以前、帰りが遅いと思っていたら暴漢に襲われていた、ということがあった。
もちろん暴漢は返り討ちにしたらしいのだが、一人ボロボロになって帰ってきた仙蔵の姿を見て呆然としている文次郎を、仙蔵はその場で思いっきり引っ叩いた。そして「おかしいと思ったなら助けにこい!馬鹿文次郎!略してバカモン!」と一喝したのである。
思い出して、文次郎は苦笑した。気丈に振舞っていたが恐ろしかったのには違いない。目に涙を浮かべた仙蔵を自分が守ってやらなければ、と思って幾数年。己は犬か何かかと思いはするし相変わらず厭味も言われるが、それは面と向かった喧嘩で流せばいいのだととっくに開き直った。

一刻かかりやっとのことで片づけを済まし荷物を抱えて帰路に着くころには、もう日が暮れはじめていた。道中の山道は昨夜の大雨で地盤が緩くなっていたらしく、土砂崩れで通れたものではない。
身軽なら山を登って迂回したほうが早いのだが、文次郎には大荷物があった。この様子では山を登るより降りたほうが早そうだ、と山を下って迂回し、その道すがら仙蔵には会っていない。やはり仙蔵は山を登って迂回したのだろう。そのほうが当然早いのだから。

文次郎は山を駆け登りながら、木々の合間に空を仰いだ。日は暮れ、もう半刻もすれば夜が来る。そればかりか雲が流れ集まってきていた。と思った矢先に雨粒がぽつりぽつりと頬を打つ。

「本格的に降り出す前に見つけてやんねえとな」

呟いて、踏み込んだ右足が、底を抜いた。

「、なッ!?」

何かを掴もうと伸ばされた手も虚しく、地中に吸い込まれるように文次郎の姿が消えた。



「…う、ぐ、」

目覚めて、途端全身を苛む激痛に呻く。
思い切り踏み出した地面が抜け、浮遊し、叩きつけられ意識を失ったのは覚えている。くらくらと霞んでいた視界が徐々に戻り、目を凝らすと、土と土の割れ目の先に暗い空が見えた。あそこから落ちてきたのか。
起き上がろうとして、左脚と左腕がろくに動かないのに気が付いた。どうやら左半身を下にして落ちたらしい。それでもなんとか上体を起こすと、脇腹に悶絶するような痛みが走る。肋骨も何本か折れているようだった。
周囲を見渡すと、両脇に土の壁が迫り、一本の道のように前方と後方に空間が続いている。まるで大きな地割れの底にいるようだった。まだ僅かに霞んだ目では、この薄暗い中で遠くまで見通すことは出来ない。
見上げて、落ちた穴までかなりの高さがあるのに気が付く。軽く四、五丈はあり、よくもこれだけの怪我で済んだものだ。打ち所が悪ければ西瓜のように頭を割っていたっておかしくはなかっただろう。

脇に迫った切り立つ土壁に背を預け、息をつく。あまりの痛みに、冷や汗が全身に浮いて酷く寒い。
生きてはいる、生きてはいるが、絶望的だった。この傷でこの深淵を登ることが出来るだろうか。やるしかない、出来なければ死ぬだけだ。
はっとする。もしや仙蔵もこの深淵に落ちたのではないか?

動かない半身を土壁に押し付けるようにして、文次郎は立ち上がった。
助けなければ、そのために飛び出してきたのだ。


シャアアアアア…


背後で低く響いた獣のような鳴き声に、文次郎はとっさに懐の苦無を右手に握り半身で振り返った。
眼前に迫った木の実のように丸く赤い目が閃いて、大口を開ける。

「ッアアアアアアアア!!!!」

威嚇するような雄叫びをあげ、文次郎は眼前に迫った獣の口に苦無を握った右腕を突き出した。怯まずその右腕を噛み千切ろうとした獣の上顎に苦無の切っ先を思い切り突き刺す。

ギシャアアアアアアアア!!!!!!

獣は絶叫を上げ、文次郎の腕に食い付いたままのたうち回った。それに引き摺られるまま文次郎は何度も地面に叩きつけられ、ついには放り出されて地面を転がる。

「ざまあ、みや…がれ…」

霞む意識を叱咤し、獣の正体を拝んでやろうと顔を上げると、驚くべきことに襲ってきた獣は人の大きさほどもある巨大な蜘蛛だった。
丸太のように太い足を地面に叩きつけ、無数の赤い目がギョロギョロと鈍く光を弾く。その下で、大きく禍々しい口が大量の体液を吐き出していた。その中に、苦無を握り締めたままの己の右手が見える。
食いつかれた文次郎の右腕は、肘から下がなくなっていた。
蜘蛛は、その巨体を七転八倒させながら深淵の奥に消えていく。

もはや痛みすら定かでなくなった混濁した意識で、考えることは一つだった。
両腕を失い、けれどまだ右脚が残っている。歯を食いしばり、額を地面に擦りつけるようにしてやっとのことで起き上がる。
仙蔵を探さなければ。
そうして顔を上げると、深淵の奥を覆うように浮かぶ無数の赤い光が、一斉に蠢いた。

「…せん、」

呟く間もなく一瞬のうちに群がった無数の巨大な蜘蛛が、争うように文次郎の血肉を引き裂いた。





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『アトラック=ナチャ』

ツァトゥグァの洞窟の奥深く、底なしの深淵に巣を張る神。
人間と同じくらいの大きさの蜘蛛で、昆虫の器官を多数もっている。真紅の目を持ち、体は黒檀色の毛で覆われ丸太のような脚を持ち、甲高い声を出すとされる。何時、何処で生まれたのかは定かではない。

【 v 】

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