不破雷蔵

Cthugha




学園に起きた異変の始まりがどれだったのか、もはや僕にはわからなかった。兵助がとある忍務で持ち帰った不気味な本がはじまりだったのかもしれない。だが彼が忍務についた時には学園の中は異様な空気に包まれていたように思える。なにか、強大な、闇の中に蠢く、不可思議で、得体のしれない、生き物とも、無機物とも判別がつかない、なにか。そう、そのなにかの正体がつかめるかもしれないと言って、兵助はあの本の解読に踏み出したのだった。


それがあんなことになって、兵助を助けようと学園長先生に無理を言って曰くのある村に行ったきり勘ちゃんから音沙汰はなく、そんなときに僕にまで忍務がまわってきて、いつもなら二人で行くのに今回は一人での極秘の忍務だからとぐずり駄々をこねる三郎を宥めすかして、僕は忍務に赴いた。最近の三郎は不安定で、あまり一人にしたくなかったけれど、まだはちがいる。黒い人に気をつけて、そう言付けて僕は学園を離れた。


忍務は怖いくらい順調に進んだ。きいていたより城の情勢は悪くなく、民たちへの圧政があるわけでもない。むしろ、そこまでこの城を危険視したがる学園長の意図がわからなかった。首をかしげながらも城の様子を探ること数日、闇の中僕が潜む木枝に向かって一直線に飛んでくる鷹が見慣れたものであったことに、僕は学園を襲っている不吉の気配に顔を覆った。

朱にぬれた僕と同じ色の装束の布端、この子を使いに寄越すとき、いつも彼は劣勢で。くるり丸い瞳が濡れて月明かりに光る。嘴の付け根までしとどに濡らした鷹が鋭い眼差しでまっすぐ僕の目を見て、ひとつ、鳴いた。


知らず頬を伝っていた涙を拳で拭う。泣いている時間も、迷っているひまもない。こうしている間にも三郎の周りを、あの得体の知れないものが蠢いているのだ。

時折、僕の視界の端に何食わぬ顔で佇む黒い男がいる。そいつは僕と三郎の区別があいまいのようで、恐らくやつの目的は三郎なのだろう。兵助がことに至る前、い組の二人に相談したことがあった。あれはなんなのか。図書室の蔵書をしっちゃかめっちゃかにひっくり返して探し出した不可思議な形の文字らしいそれの羅列を指で何度も何度もなぞりながら覚えた。唯一無二の魔法の言葉。


一定の条件がそろわなければならない儀式を行使するために、森を、林を、川を、飛ぶように、馳せ、駆ける。どれほど走っただろう、勢いよく降り立った先の草で着地点より少し足が滑る。淀んだ湖の縁、生い茂る草木の狭間、苔むした平たい石。顔のない、奇妙な生き物ともつかないそれの上に指を這わせる。

「今助けてあげるからね、三郎」

大きな湖の先、暗く落ちた夜の闇のなか。一年で将来の行く先も忍びの行く末も分からない、子供のころ。三郎と二人並んで見上げた夜空に輝いていたみなみのうお座の口の星。力強く輝きを放つ星が湖に重なって魚が家に帰るようだ。

僕も早く、君のいる学園に帰りたいよ、三郎。

何度も何度も諳んじた異国の言葉を、ひたりとまとう夜の冷気のなかにぽつりぽつりと吐き出す。


「フングルイ ムグルウナフ クトゥグア フォーマルハウト
ウガア=グアア ナフル タグン! イア! クトゥグア!」


紡ぎ終えるとほぼ同時になにもない虚空に火がともった。ゆるりぐるり、形を変えたそれは中央に三枚の花弁状の炎が見える環状の炎の姿をとってふわり僕の前に降り降りる。これで三郎を助けることができる。やつの魔の手から救うことができるはずだ。ゆっくりとこちらへ近づいてくる炎に縋るように僕は右手をのばした。


「アレは父さんではないよ、坊や」


眩い希望から自然前のめりになっていた僕の体を引きとめたのは左手首をつかむ誰かだった。触れられた左腕は長い間夜の冷気にさらされたためか感覚がない。目のまえで蠢いていた炎が泡を食ったように天空へと尾を引いて駆け昇る。それを見送った後ろの誰かが小さく笑ったような気がした。

「アレはねぇヤマンソと言って君が呼び出そうとしていたものとは全く違うものだ。残念だがアレで君のお友達を助けることはかなわない」

儀式がちょっとばかし違っていたようだからねぇ、と付け足された言葉に驚きの連続に見開きっぱなしで乾いていたはずの瞳が俄かに潤み始める。僕は、誰も助けることができないのだろうか。急速に歪む視界のなか絶望に包まれた心の臓が冷たく重い。異常なまでに硬くなり始めた体でやっとの思いで後ろに立つものを振り返る。

灰色の炎をまとった彼はおそらく人ではないのだろう。端正な顔立ちに薄い笑みを浮かべた彼は僕の頬にゆったりとした所作で手が触れた。炎の形をとってはいるがそれはひどく冷たく、凍りのようで、それでいてどこか心地よい。

「どちらにせよ君はもうお友達を助けることはできない。君はぼくに会ってしまったんだから」

悲壮も、絶望も、悲哀も、
全部全部凍ってしまえばおんなじさ!なんて大仰に天を仰ぐ口からこぼれた言葉がやけに耳に残って、そこで僕は呼吸を止めた。




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『クトゥグァ』

旧支配者に分類される神であり、顕現の際は「生ける炎」の姿をとる。地球から25光年離れたフォーマルハウトを住処にしているとされる。フォーマルハウトとは、南のうお座の口にあたる部分で青白い光を放つ一等星。
ニャルラトテップの天敵であるとされ、かつて地球上に召喚された際にはニャルラトテップの地球上の拠点であるンガイの森を焼き尽くした。
クトゥグアは旧神によってフォーマルハウトに封印された後に、灰色の炎の姿で現れる旧支配者アフーム=ザーを生み出したとされる。アフーム=ザーは燐光に似た不浄な青白い光を放つ灰色の炎の存在であり、その炎は極地の極寒の冷気を伴うとされる。
クトゥグアの召喚に失敗した場合、3つの燃える花弁を中に持った炎の円の姿で現れるヤマンソという存在に接触する可能性があるという。

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